※R18
 無理矢理性行為に及ぶ描写がある





 目覚めると見知らぬ場所にいた、というのは決して稀有な体験ではないだろう。例えば外泊していたことを寝起きの頭が忘れていたり、酔い潰れていたところを誰かに回収されて介抱されていたり。
 だが今回はそのどちらでもないようだった。外泊も飲酒もしていないはずだ。……いや、どうだったか。現在に至るまでの記憶がない。最後の記憶では、俺は何をしていた? ……たしか、そうだ。沖田と攘夷浪士の残党を追っていたはずだ。こちらの動きを察知して逃亡を図ろうとしたのでそれを追って……それから? 思い出せない。
 そんなはずはないだろう。頭を振ってなんとか思い出そうと試みる。すると違和感に思わず動きが止まった。
 
「……あ?」
 
 今しがたまで身体を横たえていたらしい固く安っぽいベッド。その脚に繋げられた鎖は己の右足に嵌まる足枷と繋がっている。おまけに首には首輪らしくものが嵌め込まれていた。こちらはどこに繋げられている、ということこそないが自力で外せそうにはなかった。
 あからさまに拘束されている。この状況で真っ先に想像してしまうのは拉致監禁だ。具体的な心当たりはないが、各方面から恨みを買っている自覚はある。俺を捕らえたいと思い、実行に移してしまえる輩はまあいるだろう。心当たりが多過ぎて逆に特定が難しい。
 これからどうするにしてもひとまず状況を正確に把握しなくてはいけないだろう。
 まずは己へと目をやる。刀は手元にない。携帯端末と手錠も没収されているらしい。だが何もかも奪われているわけではないようで煙草、ライター、警察手帳は残っていた。
 次に室内へと視線を巡らせていく。左手に出入り口と思われるドアがひとつ。こちら側から見る限り、施錠されている様子はない。ドアノブを捻ればあっさりと開きそうだ。鎖の長さからして届かない、ということもなさそうだ。違和感がある。これでは鎖さえなんとかしてしまえば容易に脱出ができてしまう。監禁場所を用意し、こうして実際に俺を拐えるような奴がそんな初歩的なミスを犯すだろうか。それともこの鎖が絶対に外されないという自信でもあるのか。真新しく太さもそれなりにある鎖はなかなかに苦戦しそうではあるが、これだけ自由を与えられていればあれこれと足掻くことはできそうだ。鎖が繋がれているベッドの方をどうにかするという手もある。そう考え始めると首輪に違和感があった。この首輪、どうにも分厚い気がする。まるで『なにか』を内蔵しているかのような重量がある。……罠かもしれない。深く考えずにドアに触れてしまえば首輪に仕込まれている爆弾がどかん、ということもありえる。
 どうしたって不審感は拭えない。迷って、結局ドアに触れるのは後回しにした。なんの問題もなく開けるとして、鎖を破壊する算段を立てなくてはどのみち脱出はできない。
 引き続き周りを観察していく。カラーボックスの上に電子レンジが置かれ、ボックスの各スペースには収納ケースが収まっている。その隣は単身者用の小さな冷蔵庫。更に隣は台所になっていて、シンクと料理台、IHコンロが連なっている。視線を更にずらしていけば少し離れて空間の隅に小さな部屋。近寄って中を覗いてみればユニットバスだということがわかった。
 シャワーと、一人がようやっと浸かれるサイズのバスタブ。同じ部屋内に洋式トイレが設置されている。ユニットバスは部屋の右奥に配置されている。壁伝いに更に視線を動かしていけば洗濯機が置いてある。縦型で、こちらも単身者向けなのか小ぶりだ。そしてその横には物干し台に吊り下げられたハンガーが並んでいる。タオルや洗濯洗剤、トイレットペーパーなどといった消耗品はベッドの脚側に雑に積み置かれている。
 一見する限り、快適かはさておくとしてひとまず生活していくことはできそうではある。つまり殺すことが目的ではない。最終的にそうするつもりだとしてもすぐに実行に移す気はない。生かしておいて情報を引き出そうとしているのか、それとも今後の交渉にでも使うつもりなのか。どれも推測の域を出ない。それでもつらつらと考え続けていればドアが、外側から開いた。
「!?」
 
 
 いくら拘束しているとはいってもこんな緩い拘束で目を離すとは最初から思っていなかった。監視されているのは想定内で、そのうち首謀者と対面する可能性も考えてはいた。だが思っていたよりも早い。
 身構えながら開いたドアに目をやる。どんな奴が姿を見せるのだろう。思いつく限りの姿を思い浮かべているとーーー肩の力が抜けた。
 
「は、あ?」
 
 ドアの向こうから現れたのは見慣れた男だ。大きな目をぱちりと瞬かせる。嗚呼、と声を上げるのに合わせて亜麻色の髪が揺れた。
 
「もう起きました? おはようございます」
 
 いつもと変わらない、やる気を感じさせないけだるげな声。だがそうしていつも通りだからこそこの場では異質だ。
 こちらとは違い、帯刀している。首輪はついていないし、足枷と鎖もない。見る限りやつは自由なように見えた。
 もしも俺が拉致監禁されていることに気づいて助けに来たのであればもっとそれに応じた態度というものがあるだろう。今の沖田にはそれがない。のんびりとしている。つまりどういうことだ。これらの事実から導き出される結論といえばーー
 
「テメーの仕業か!!」
 
 一気に距離を詰めて胸ぐらを掴み上げる。じゃらじゃらと纏わりついてくる鎖が鬱陶しい。
 掴まれた沖田は不愉快そうに眉間に皺を寄せたが知ったことじゃない。少し様子がおかしいからといって仲間を真っ先に疑うのはいかがなものか。何も知らない奴にはそう思われるかもしれない。だがこいつには前科がある。俺を拉致監禁した前科だ。それで疑うなという方が難しい。物盗りが起こって、その場に泥棒がいれば真っ先に疑うだろう。だからこの疑念は理不尽でもなんでもない至極真っ当なものだ。
 
「何企んでやがる。痛い目みたくなきゃさっさと吐くんだな」
 
 こいつの行動原理なんて考えるだけ無駄だ。面白そうだとか、嫌がらせ目的だとかで割りに合わない労力を割いて俺を陥れようとするのがこいつの常だ。この部屋を用意するのにはそれなりの時間と金がかかるはずだが、こいつならばそれくらいはやってのけるだろうという嫌な信用がある。
 
「真っ先に疑うなんてひでえお人だ。バレねえように単身で救出しに来たとは考えないんで? まあ、犯人は俺なんですが」
「やっぱりテメーじゃねえか!!」
 
 どストレートに真犯人のくせしてなんで一旦濡れ衣ぶった!? そういうところからしておちょくり倒されているようにしか思えず苛立ちが募っていく。
 
「なんでこんな真似……いや、とりあえずこのふざけた首輪と足枷はずせ」
「えー? 似合ってますよ」
「嬉しかねえんだよ!」
 
 拘束具が似合ってるってそもそもなんだ。褒め言葉か!? 馬鹿にしてんだろ!
 武器の有無という差があるとはいえ、ここまで距離を詰めていれば充分渡り合える。それだというのに沖田は余裕を崩さず、のらくらと拘束を外す素振りを一向に見せない。どう考えてもなめられている。ここはひとつ教育的指導に乗り出すべきか。
 この状態からなら掴んだ胸ぐらを引きずり落として組み伏せてしまうのが手っ取り早いだろう。そうするべく手に力を込めればそれを阻止しようと沖田の手が俺の手を引き剥がしにかかってくる。ここからは腕力勝負だ。それなら多少手こずりはしてもまあ勝てるだろうと踏んでいた。結果から言えば、勝った。
 沖田の抵抗を跳ね付け、奴を床に引き倒すことに成功した。うつ伏せになって倒れ込んだ沖田の上にのしかかる。ここから逃げ出すのは流石のこいつでも無理だろう。当初の予定としてはこうして組み伏せた上で折れない程度に関節技を決めるなりして痛めつけて拘束具の鍵を差し出させるつもりだった。その目的を忘れたわけじゃない。だが見逃せない気づきがあった。
 
「お前、右腕どうした」
 
 こうして沖田を組み伏せられたのは俺の実力によるところではある。だがこうもあっさりいくとは正直思っていなかった。結果は同じにせよこいつはもっと抵抗してくるものとばかり思っていた。実際に抵抗はあった。だがそれはすぐに弱まり、勝敗はあっさりと決した。それで気づいた。右腕だ。こいつは右腕をいつものように使えていない。隊服に覆われているために何を隠しているのかまではわからない。だが見当くらいはつく。
 
「右腕? さあ、なんのことかさっぱり……」
「ほー。これでもまだそんな口きけんのか」
「いっ、で!? なにしやが……あ、ちょっ、もう一回握ろうとすんのやめてくだせェ」
 
 ぎゅう、とその腕を握ってやれば奴は想像通り身悶えた。痛むのだろう。わずかではあるが息が乱れた。怪我人の患部に触れるなど非道な行いだとはわかっている。だがこれくらいしなければこいつは口を割らないだろう。それに理由もわからず拉致監禁されているのだからこれくらいの反撃くらいは許されるはずだ。
 
「じゃあ素直に洗いざらい白状しろや」
「へいへい、わかりやした。説明するんでこの体勢やめてもらっていいですか。喋りにくいんで」
 
 体勢のせいで声が通り。おまけに顔が見せないので発言に何か含みがあるとしても気づきにくい。優位な体勢を手放すのは惜しいが、こちらにもメリットはある。だからその要求を飲んでやることにする。
 不審な動きをすればすぐに動けるように警戒することは忘れない。沖田の上から退いてベッドに腰をかける。自由になった沖田はといえば、起き上がって軽く埃を払い落とした後、壁に背を預けた。少し距離を詰めなければ触れられそうにない。だがまあ、おかしな素振りを見せてから行動してもなんとか対処はできるだろう。よく知った相手だ。行動パターンの予測が立てられる分、少しぐらい出遅れても間に合うだろう。むやみに距離を詰めて、あちらに警戒されるのもよくない。
 
「まずはええと、俺の右腕でしたっけ? これはまあ、仕事中にちょっとやられただけです」
「斬られたのか」
「……ええ、まあ」
 
 こうして動き回っているということは重傷ではないのだろう。だがあの痛がり方からして軽傷とも思えなかった。怪我をしていることを踏まえて観察してみれば青白い顔をしている。わずかにではあるが血のにおいが鼻についた。乱暴に扱ったせいで血が滲んだのかもしれない。
 
「誰にやられた」
「もう片はついたんで大丈夫でさァ」
 
 こいつの実力を正しく評価しているつもりだ。不意打ちであってもこいつに手傷を負わせることは簡単ではない。敵の実力がかなりものであったにせよ、数で押されたにせよ、この一件はうちにとってそれなりの大事になっているはずだ。おまけに何故か監禁されているせいで副長不在ときている。いざとなれば上司の一人や二人いなくてもなんとかなるだろうが、多少なりとも混乱は起きているはずだ。そう考えると焦りが身体を巡る。こんなところでこいつの意味のわからない遊びに付き合っている暇はない。
 
「アンタは仕事中に行方不明ってことになってます。敵前逃亡じゃないことは最後の目撃者になってる俺が証明してるんで安心してくだせェ」
 
 局中法度の中に「士道に背くまじきこと」というものがある。侍に相応しくない行動をするな、という意味で敵前逃亡などはこの法度に触れる。局中法度を破るようなことがあれば切腹。これは作成者である真選組副局長にも適応される。敵前逃亡したことになっているのなら誤解を解くまでは戻れないがそうはなっていないらしい。行方不明、ということになっているのなら創作はされているのだろうがどこまであてにしていいものか。
 一時的に行方を眩ませることに関しては不本意ながら前科がある。沖田の最初の犯行だ。沖田の策略にはまってまんまと数日間監禁されていたなどとは言えるはずもなく、あの一件に関しては二人して覚えていないという曖昧な報告で済ませてしまった。そんな前例があるために今回もそのうち戻ってくるだろうと思われている恐れがあった。真面目に捜されていたとしても主犯は沖田総悟だ。情報は筒抜けだろうし、組内の者を欺くのはこいつにとってはそう難しいことでもないだろう。
 
「何が目的だ。今すぐ解放しろ」
 
 そう凄んで見せても効いている気はしない。やはりあのまま捕まえておくべきだったか。怯むどころか沖田はにやりと、嫌な笑みを浮かべている。
 
「そんな可愛げのない態度でいいんで? アンタを殺すも生かすも俺の気分次第ですぜ」
「はっ、やれるもんならやってみろ」
 
 不利な状況なのは事実だがこの程度の拘束で俺を思い通りにできると思われているのなら随分となめられている。最悪、この状況からでもどうにか刺し違えるくらいはできるつもりだ。こいつの出方次第では互いに無事では済まないだろう。それだというのに沖田が動じる様子はない。
 
「そういやアンタの現状の説明してませんでしたね。まず食いものは冷蔵庫の中に適当に詰めたんで、腐らせないように考えて自炊してくだせェ。アンタに毎食持ってくるほど暇じゃねえんで」
 
 勝手に閉じ込めておいて世話を焼く暇はないなんて随分と勝手だ。監禁してる相手に自分で飯を作らせるなんで聞いたことがない。包丁あたり武器にもできそうだが、構わないんだろうか。それくらい、抑え込んでしまえるとそういう自信があるのかもしれない。実際帯刀しているこいつに包丁だけで立ち向かうのは勝算が低いように思えた。
 
「水と電気は通ってるんで風呂入ったり洗濯も自由にしてもらって構いやせん」
 
 ……監禁というよりこれは軟禁ではないだろうか。不自由を強いられるよりはマシだが、五十歩百歩だ。多少マシになったところで何が変わるわけでもない。
 
「あとは……ああ、その首輪なんですがちょっとした仕掛けがありまして」
「また爆発でもすんのか」
「またとは失礼な。前回は爆弾を仕込んだふりをしてただけでマジに仕込んでたわけじゃねェです」
「なに心外みたいなリアクションしてやがる。ふりでも充分悪質だろうが」
 
 ふりだろうとなんだろうと前科があるのは事実だ。前回と同じような首輪を用意することで今回こそ本当に何か仕込まれているのではと疑う。きっとそのあたりも狙ってやっているのだろうからたちが悪い。
 
「前回と違って今回はマジで仕込んでます。無理に外そうとしたりこの部屋から出ると薬が注入されて意識が飛びます。まあ、強力な睡眠薬とでも思ってもらえれば。ちなみに俺の遠隔操作でも起動できるんで態度には気をつけてくだせェ」
 
 やけに余裕があるように思えたのはこれがあったせいか。前回同様これもブラフという可能性もあるが、試すべきか。いや、そもそもこいつがどこまで本当のことを喋っているのかもわからない。何かが仕込んであるのは本当で、だが実のところはもっとたちの悪い効果を持ったものが入っているのかもしれない。こうした悪巧みに関しては沖田の方が上手だ。こちらのやりそうなことを見越して罠を張られている恐れもある。なんにせよ今すぐ試すというのはやめておいた方がいいだろう。足枷をどうにかして外さなくては脱出はできない。そちらの目処が立ってからでも充分間に合う。
 
「って感じで、自分の状況は理解できました? わかったら今から態度を改めて媚びへつらっても構いませんぜ」
「するわけねえだろ」
 
 こうした状況になった時、反抗的な態度は犯人を苛立たせることに繋がるので得策ではない。だが今回の犯人は沖田だ。こいつに下手に出たところで調子に乗って要求がエスカレートするだけだろう。すべてに歯向かうのも得策ではない気がするので適宜様子を見つつ判断するのが無難だろう。今は俺をおちょくって遊びたいだけのように思えたので聞き入れないことにする。「その威勢がどこまでもつ見ものですね」
 こんなことをいつまで続けるのかは知らないが、俺がそのうち膝を折るとでも思っているのか。だとしたら読み違いも甚だしい。こいつが何をしてこようと屈してやるつもりはない。そんな意思を込めて睨みつけてやるが伝わっているのかは怪しい。
 これでひとまずの状況説明は終わったらしく、沖田はおもむろに背を壁から離す。
 
「まあ、数日おきには様子見に来るんでおとなしくいい子にしててくだせェ」
「は? おい、ちょっと待て」
 
 どうやらこのまま立ち去るつもりらしかった。それをはいそうですかと見逃してやる気はない。この状況はいくら説明されたところで到底受け入れられるものではない。こいつのお遊びに付き合っていられるほど暇もでもない。こいつの仕業とわかっているのだからここで泳がせる理由もなかった。もしかすると鍵くらいは持っているかもしれない。こいつが説得に応じないとしても、最終的には力づくでどうにかしてしまえばいい。だから逃がすつもりはなかった。
 怪我を負っていない方の手を掴み、出ていこうとするのを阻む。怪我を慮っただけではなく、問題なく奮える方を封じてしまえば反撃が難しくなるだろうという狙いもあった。
 
「嫌ですよ。言ったでしょう。俺は忙しいんです」
「首輪と足枷外すくらいたいして時間かかんねえだろうが」
 
 沖田は引き止めに応じる気は更々ないようで、俺を引きずりながら出口へ向かっていく。じりじりと沖田の逃走が成功しているようにも見えるが、あいにくと俺の身体は鎖でベッドと繋がっている。俺をなんとかして振りほどかない限りは逃げ切ることはできない。鎖が伸び切るぎりぎりのところまで粘って、そこでどうにか振りほどくつもりだろうか。そこで逃げられてしまえば追うことはできない。だが仮にそう考えていたとして、思惑通りに事を運ばせるつもりはなかった。
 はっきりと確認したわけではないが利き腕の傷はそれなりに深そうだ。その腕では反撃は難しいだろう。そんなことを考えながら沖田を引き止め続けていると大きな溜息を吐かれた。溜息を吐きたいのはこっちなんだが。
 
「……土方さん、説明きいてました? いやまあ、でもアンタは自分の目で一回見なきゃ信じねえか」
「なんの、話だ」
 
 じりじりと移動を続けていた沖田はようやくドアをくぐり抜けたところだった。鎖は案外余裕を持たせてあるらしく、もう少し伸びそうだ。だから俺の身体も引きずられる形でドアをくぐった。その瞬間だった。
 
「ぃっ!?」
 
 首に鋭い痛み。そしてそれがなんであるかを認識する前に凄まじい目眩に襲われる。視界が不安定に揺れ、立っていられなくなる。おまけに眠気まで襲ってきた。必死に抵抗するものの、抗いきれない。なにか、異常に襲われているのは確かだ。そしてその元凶はひとつしか思い当たらない。
 
「そ、うご…てめ……」
 
 吠えたつもりの声は随分と弱々しいものだった。それでも届きはしただろう。奴はどう応えたのか。それとも応えすらしなかったのか。それすら確認することは叶わず、意識はここでぶつりと途絶えた。
 
 
   ◇ ◇
 
 
 
 二度目の目覚めにはひどい既視感があった。
 見慣れぬ天井。見慣れぬベッド。ここがどこであるか認識できない。数秒、混乱で頭を占められてそこから徐々に己の置かれた状況を思い出す。俺は今、よく知る男の手によって監禁されているのだった。
 思い出して沖田の姿を探してはみるもの、すでにその姿はない。代わりに、冷蔵庫にメモ書きが貼り付けてあるのを見つけた。マグネットによって留められている紙には罫線が走っていて、手帳から千切り取ったのだと思われた。そこに見覚えのある筆跡でメッセージが綴られている。
 
『あんな感じで逃げようとすると意識が飛ぶ仕組みです。一定以上の力を加えたり首輪が敷地から出ると発動するんで気をつけてください』
 
 ……なるほど。そういえば奴は首輪に仕込んだものに関してそんな説明をしていた気がする。今回ははったりではなく本当に仕込んでいたのか。具体的に何を仕込んでいるのかは知らないが効力はなかなかのものだった。専門家でもない奴が合法的に手に入れられる代物なのだろうか。法の番人が法を犯していたのでは笑えない。
 
「……はー」
 
 沖田を留めおこうという試みは失敗に終わった。だがすべてのチャンスが潰えたわけでもない。また様子を見に来ると言っていた。大人しく待っていればそのうち姿を見せるだろう。本当に大人しくしているつもりはないが脱出手段がなければ奴がやってくるのを待つしかない。
 そうならないように願いつつ、本格的にこの部屋の探索を開始する。まずは目の前にある冷蔵庫からだ。黒く光沢を持った、小さな冷蔵庫だ。何か仕掛けられているのでは、と恐る恐る触れてみたがどうやら普通の冷蔵庫らしい。部屋はふたつで上が冷蔵室、下は冷凍室になっている。冷蔵室には肉を中心に、気持ちばかりの野菜が詰め込まれている。というか八割方肉だ。肉が梱包されているトレーをひとつ手にとってみる。産地と何肉であるかが記載され、その下に販売店の名を見つけた。
 
「……?」
 
 聞いたことのない店名だ。おおよその監禁場所が推測できればと思ったのだがそううまく事は運んでくれないらしい。屯所からはそれなりに離れた場所にいる、ということか。そうなると発見される可能性は低そうだ。
 冷凍室には様々な冷凍食品が詰め込まれている。パスタ、炒飯、たこ焼き、お好み焼き、ちゃんぽん、うどん等々。おかげで食に飽きる心配はしなくても良さそうだ。ひとしきり冷蔵庫の中身を確認してから次はその左隣へ視線を滑らせる。
 冷蔵庫の隣にはカラーボックスが設置されている。ボックスの中に上部の開いた箱が嵌め込まれており、その中には常温保存のきく食材が詰め込まれている。といってもいくつかある箱のうちの八割ほどはマヨネーズが締めていた。基本的にスタンダードなマヨネーズばかりだが、最近はまって何度も買っているからしマヨネーズもところどころに混じっている。こんなところにこまやかな気遣いをされるのは複雑だ。嫌なわけではないが、そもそもの犯人があいつなだけに素直に感謝することもできない。とりあえず、これで奴が明確に俺を標的にしてこんな真似をしていることははっきりした。元からそこに関してはさほど疑いもしていなかったが。
 冷蔵庫を挟んで右手は台所になっている。シンクから始まり、その隣はまな板を置くスペースになっており、まな板と包丁が無造作に置かれている。更に隣はIHコンロがひと口だけ設置されており、その上には深めのフライパンがひとつ置かれている。これだけで自炊をして過ごせということらしい。食器類はベッドの法にトイレットペーパーと一緒に紙皿と紙コップが転がっていたのでそれを使い捨てろということなのだろう。
 確認してみたところきちんと水が出るし、コンロも使えるらしい。ここを管理しているのは沖田なのだろうから光熱費は奴が支払うのだろう。それなら水を出しっぱなしにしてやつに無駄金を使わせてやろうか。一瞬そんなことを考えてやめた。後々しれっと請求書を渡してきそうな気がする。というか既に引き落とし先が俺の口座になっている、ということもあり得る。何をしてがすかわからない男だ。俺の口座くらい把握していてもおかしくはない。そしてその最悪の事態が現実となっていた場合、ささやかな嫌がらせで締まるのは己の首だ。だいたい、そんなことをしたところで何かが解決するわけでもない。やめておこう。
 見たところ、この部屋にある家具は一様に真新しい。最近運び込まれたものだろう。もしこれが衝動的に行われたものだとすればこれだけの家具を揃えるのは難しいだろう。最低限度のものとはいえ、重さも数もそれなりにはなる。短時間でこの場を作ることも不可能ではないだろうが現実的ではない。足もつきやすい。かと言って綿密に練って実行されたもの、という印象もない。
 俺の最後の記憶は攘夷浪士を追っていた時のものだ。あれが沖田の自演による罠だったとは考えにくい。奴は攘夷浪士の中でも有名で、俺達が長く追っていた相手でもある。それをついに追い詰めたその直後にこんな真似をするものだろうか。いくらあいつがちゃらんぽらんだといえ、あいつなりに真選組のことは大切に思っていて、いざという時はきちんと仕事もする。だがそもそもあいつの考えていることなど俺にはよくわからない。そんなわからないなりの違和感だけでは完全に否定できないのも事実だ。
 鎖は随分とゆとりがあり、室内を自由に歩き回ることができる。だが首輪のせいで部屋の外に出ることが叶わないのは体験済みだ。この部屋から出るとどういう仕組みか首輪からなんらかの薬が注入されて意識を失う。鎖をどうにかしたところでこれがある限りは逃げられない。首輪に仕込まれている薬がどれくらいあるのかはわからない。存外一回使ってしまえば仕込まれている薬が尽きて本来の役割を果たせないのかもしれない。検証する価値はあるが、沖田の行動パターンを見極めてからの方がいいだろう。意識を失っている時に沖田に見つけられて薬の残量をリセットされては意味がない。案外解放される方が早いかもしれない。この状況が長期戦になる場合は本格的に検討してみた方がいいだろう。
 逃げることはできないが、ドアをあけて外の様子をうかがうことができる。そこから助けを求められれば御の字だ。だがソロをうかがっても人の気配はない。民家も見当たらない。基本的に目につくのは自然の緑ばかりだ。現在地の推測もこれでは立てられない。
 ひとしきり調べてはみたが目ぼしい情報はなかった。鎖をどうにかするのもここにあるものだけでは難しそうだ。ひとまずは沖田はまた来るのを待った方が良さそうだ。
 
「はあ……」
 
 気が重い。いくら身内の仕業とはいえ、思惑が見えない。おまけにいつ戻ってくるのかもわからない。もちろん、外部との連絡も取れない。ひたすらに待つだけだ。待つのはあまり得意じゃない。だが待つしかない。憂鬱だ。苛々する。こういう時はマヨネーズを啜るのがストレス解消にいい。あれだけのマヨネーズを用意しておいたことだけは褒めてやってもいい。そう思いつつ、カラーボックスの方へと足を向けた。
 
 
 
   ◇ ◇
 
 
 
 次に沖田がやって来たのは二日後のことだった。正確な時間はわからない。外は明るい。おおよそ昼時くらいだろう。
 
「ここでの生活はどうです? たまにはこうやってのんびり生活すんのも悪くないでしょう」
「んなわけあるか。さっさと出せ」
 
 随分と沢山の荷物を抱え込んでいる。そのせいか歩き辛そうだ。手伝いはしないが、何を持ち込んだのかは気になった。手伝いはせず、大量の荷物が室内に雑に放られるのを眺める。扱いの雑さと外見からするに割れ物でないことは確かだ。警戒の眼差しで沖田の様子を観察していれば目が合う。
 
「思い返してみると着替え用意してなかったなと思いまして。あと足りなさそうなもん色々買ってきました」
 
 たしかに着替えはなかった。いつまでも同じ服を着ているわけにもいかないが、この状況がいつ変わるとも知れないのに一着しかない衣服を洗濯するのも躊躇われた。というか実際には洗おうと思いはしたが実行には移せなかった。
 
「そりゃ着替えは必要だが、そもそもこいつのせいで脱げねえ」
 
 片足に、足枷が嵌っている。それだけならまだいい。だいぶ邪魔ではあるが、脱衣に支障は出ない。問題なのは足枷に繋いである鎖の方だった。これが邪魔で服を脱ごうとしても引っかかって邪魔をされる。ベッドに繋がっていて外せないのでどうにか工夫をして、というのも無理だった。そのため下肢に関しては脱げるぎりぎりのところまで脱いで濡れタオルで汗を拭うに留まっている。
 
「あ。そういやそうですね。ってことは風呂入ってません?」
「そうだな」
 
 上だけなら脱げるが、下肢を一切濡らさずに入浴を済ませるのはどう考えても無理だ。脱げない衣服を濡らしてしまえば身体を冷やすことになる。いくら身体がべたついて不快であろうともそんな選択をするほど馬鹿じゃない。
 
「じゃあ今回は外してあげますから風呂、入ってきたらどうです? 着替えには着流し持ってきたんで、これなら足枷があっても関係ないでしょ」
 
 たしかに、着流しなら鎖に衣服が引っかかることはない。この状態のまま過ごせと言うのなら適した衣服ではある。こいつの様子からするにそこまで考えてのチョイスではなく、単に普段俺が着ているから用意しただけなんだろうが。
 着流しの方が過ごしやすい。それはそうなんだが、原因であるこいつに不便を掻い潜る方法を一緒に考えてもらっても嬉しくない。じゃあ外せやと思うわけで。そんなことを考えて返答しかねていると、沖田が俺の足元に屈み込む。懐から取り出したのは鍵だろう。それを使って足枷を外してしまう。感じていた圧迫感が少し薄れた気がして息を吐いた。
 
「風呂行ってる間に帰ったりはしねえんで大丈夫ですよ。流石に帰る時には足枷戻すんで入るなら今しかありませんけど」
「俺が大人しく足枷嵌め直されるとでも思ってんのか」
「いやまあ、そこは首輪の方に頼ればいい話ですし」
「……」
 
 その通りだ。首輪の方の威力は既に経験済みだ。気力で抗いきれるようなものでもない。作動してしまえば確実に意識を失う。こいつにとって絶対的なカードだ。それがある以上、いくら抵抗したところで無駄だろう。足掻いたところで足枷は再び嵌められる。それは仕方がない。それなら今しかできないことをやるべきだ。沖田からは風呂に入ることをしきりに勧められるが、何故だろう。なにか罠でも仕掛けてあるのか。それとも俺がいないうちに仕掛けるつもりなのか。単に俺がにおうというだけか。わからないが、ここでこいつから目を離すべきではないと思う。
 
「……着替える。服持ってきたんだろ。なんでもいいから一枚寄越せ」
 
 足枷のせいでスラックスを脱げないことがネックだった。それなら今のうちに着替えてしまえばその問題は解決する。風呂なんてこいつが帰った後にゆっくり入ればいい。
 
 そうと決まれば即行動だ。適当に一枚選んで放られた着流しを受け取る。それから汗を吸ってべたつく衣服を順に脱ぎ捨てていった。ここにいる間は着ることはないだろうがいつまでもここで大人しくしているつもりはない。いつでもこの服に袖を通して出ていけるように洗濯はしておくつもりだ。脱いだ先から洗濯機の中に放り込んでいく。そんな動きを何度か繰り返しているとやけに視線を感じることに気づいた。
 
「……なに見てんだ」
「いきなり目の前でストリップショー始めといてそれはないでしょうに」
「お前相手にわざわざ風呂場に引っ込んで着替えるのもおかしいだろ」
 
 そもそも目を離さないために着替えるだけに留めておくのにここで別室に行ってしまっては意味がない。それに、こいつに肌を晒すなんて珍しいことでもない。ここ数年は少なくなったがそもそも屯所の風呂は共用で、そこで出くわすこともある。もっと昔となると川で水遊びをしたりで互いに裸を目にすることは度々あった。同性なのだし、恥じらうこともないだろう。……いや、こいつにとっては違うのか?
 考えつつも、今更風呂場に引っ込むなんて選択肢はない。上着をすべて取り払って、今度は下肢に手を伸ばす。スラックスを脱ぎ捨てて、パンツも引き下ろす。そうして全裸になったところで沖田が「あ」と声を上げた。
 
「鎖繋ぎ直すとパンツ脱げなくなりません?」
「あ? ……あー、そうだな」
 
 着流しを着ることで衣服の問題は解決したと思われたが、そういえばパンツも同じ問題に引っかかる。鎖がある状態で脱ごうとすればどうしても引っかかってしまう。パンツなどそう高いものでもないしいっそのこと使い捨てにしてしまうか。流石にノーパンでいるという選択肢はない。着流しでノーパンは心もとなさ過ぎる。
 解決したと思われていた問題が再浮上したわけだが、この件の解決に関して沖田のことを頼りにはしていない。最も簡単な解決方法は鎖で繋がないことではあるが、そうするつもりはなさそうだ。そんな譲歩を見せるよりもこいつはまず間違いなく俺に不便を強いるだろう。それならパンツを多く持ってこさせて使い捨ての方向でいくしかないか。ノーパンで過ごせなどと言い出すなら徹底抗戦をしなければならないが、どうだろう。ひとまずは沖田の出方を見る。
 
「困りましたね。パンツ使い捨てにするにしたってあんまり枚数持ってきてねえし…………あ」
 
 鎖のせいで靴を脱げないことを想定していなかったのだからパンツのことだって想定外だったはずだ。どうしたものかとぶつぶつと独り言めいた言葉を吐いていたが、それが不意に止んだ。それから買い込んできた荷物の中から何かを引っ張り出してくる。それがなにか判別がつかないまま、こちらに放られる。訝しみながらも受け取ったそれは長い布のようだった。
 
「?」
「ふんどしです。下着買ってたらなんかちょっと面白くなってきて色んなタイプのパンツ買っちまったんですよね」
「下着買って面白くなってくるってなんだ」
 
 別に目新しいものを買っているわけでもないだろうに。自分が使うわけではないからと好き勝手に買ったんだろうか。そう言われて改めてよく見ればたしかに渡されたそれはふんどしだった。
 
「それなら問題解決でしょう。今回は一枚しか持ってきてないんで次に来る時にまた持ってきやす」
「……おー」
 
 江戸に来る前はふんどしを使っていたので身につけ方に関しては問題がない。パンツを比べると装着が少々手間で、洋装に合わせると不自然なシルエットになるので最近はすっかり使っていなかったが、嫌いだというわけでもない。解決案としては悪くないと思うので今回は妥協してやってもいい。そもそも鎖を外せという話ではあるが。
 相変わらず視線は感じる。だが見るなと訴えたところで何を生娘ぶっているんだなどとからかわれて終わりだろう。そんなことをいつまでも気にしていると思われるのも癪で、視線には気づかないふりで新しい衣服を身に着けていく。
 ふんどしは使い慣れてはいるがそもそもの工程が多いのでパンツとは違って身に付けるまでに少々時間がかかる。そんな面白みのない光景をいつまでも眺めているのは退屈だったんだろう。ぽつぽつと喋りかけてくる。
 
「アンタにいきなり禁煙はきついだろうと思って煙草、カートンで買ってきました。いつものペースで吸ってると一瞬でなくなるんで程々には我慢してくだせェ」
「わかってんならもっと買って来いよ」
「やですよ。煙草高ェし、それに人間が一度に運べる荷物の量には限度ってもんがあるんで」
 
 一往復で足りないのなら何度か来ればいいことだろうに。だが沖田にその気はないらしい。こいつは俺を生かせていればそれでいいのだ。快適な生活をさせてやろうなんて気はないに違いない。
 一方的に観察されるばかりというのは性に合わない。そちらがそのつもりならこちらも、と観察し返してみたことで気づいたことがある。前回と比べると顔色がだいぶ良くなっている。前回は貧血にでもなりかけていたのかもしれない。血のにおいももうしない。眠たげにはしているが、それは普段でもそうしていることがあるのでこの状況と関係があるのかは判断がつかない。そんなことを考えているうちにふんどしを締め終わる。今度は着流しを手に取り、袖を通していった。
 
「なにがしたいんだテメーは」
「さあ。なんだと思います?」
「俺が知るわけねえだろ」
 
 見当さえもつかない。以前にも拉致監禁をされたことがあるが、その時も動機についてははっきりとしないままだった。いきなり不在になっていたせいで想像以上に仕事が積まれてしまい、そちらの処理に時間を取られているうちに問うタイミングを逃した。沖田があの出来事をなかったかのように振る舞うし、確かに起こったのだと証明できる証拠を俺は持っていなかった。監禁場所に一度足を運んでみたが、あの時の痕跡は綺麗さっぱり消されてしまっていた。逃げ切られたのだ。だから理由ははっきりしなかった。
 やっていることはほぼ同じなのだから動機も同じか近しいと考えるのが自然だろう。だが肝心の初回の動機を知らないのだから推測しようもない。何を考えれば上司を拉致監禁しようだなどという発想になるのか。こいつから憎まれているのは知っているが、それならあの時に秘密裏に俺を始末してしまうこともできたはずである。それをしなかったということは今回のこいつの狙いは俺の命にはないのだろう。
 
「それでも、考えくらいはしたでしょう。アンタがどんな的はずれな想像したのか気になるんで是非とも聞かせてもらいたいですね」
「聞く前に的外れって決めつけてんじゃねえ」
 
 絶対に動機を言い当てられない自信でもあるんだろうか。まあ正直、俺も言い当てられる気は全くしていない。いくつか考えはしたが、こいつがそんな動機だけでここまで手の込んだことをするのかという疑問が湧き上がって考えが止まった。俺の持つ情報だけでは否定も肯定もできない。付き合いが長いわりに、俺はこいつのことをろくに知らないのだと思い知らされる。
 思惑通りに的はずれな推理を披露して笑われるのはごめんだが、こいつの狙いを知るきっかけにはなるかもしれない。俺の仮説を聞いてどんな反応を示すのか。それを観察するだけで多少の方向性くらいは見えてこないだろうか。黙り込んでいても状況は変わらない。それなら多少恥をかくことになっても行動した方がまだマシだ。
 
「言っとくが、束縛のきついタイプは好みじゃねえ」
 
 俺をおちょくって遊びたい、という理由の次に考えたのがこれだ。最近、こいつとの関係性にはちょっとした変化があった。あえてわかりやすく、むず痒い言い方をするならば「お付き合いを始めた」のだ。元からこいつの俺に対する執着は異常で、何をしでかすかわからないところがあった。恋人という関係がその執着を発露させるきっかけになったのではないか。友人の時は優しかったのに付き合い始めた途端に豹変する、というのはよく聞く話だ。俺とこいつにそれを当て嵌めるのはどうかという気もするが。
 
「俺が好きな相手の好みに合わせるような主体性のない人間に見えます?」
 
 俺の仮説を否定も肯定もしない。図星だからというよりは的外れな指摘を楽しんで泳がせているように思えた。ただの印象で根拠はない。強いて言うなら長年の付き合いからくる勘だ。なかなかあてにはなるが、それのみではいささか弱い。
 
「いや、ごりごりに主体性しかない人間に見える」
「その通り。ぶっちゃけアンタの好みがどうだとか興味ねェ。だってそれ、最終的にアンタの好みのタイプが俺になれば済む話でしょう」
 
 自分は変わらず、相手を変える。なんともまあ沖田らしいと言えばらしいが、向けられる側からすればたまったものじゃない。俺はもっとしとやかで器物損壊で紙面にでかでかと顔写真が掲載されたりしないような奴が好みだ。……いやまあ、それはいい。そんな気はしていたが関係性が変わったことによる暴走という線はなさそうだ。そうだったとしても、実はもうひとつ攻め口を用意してある。効くなんて思っちゃいないが、試してみるくらいはいいだろう。
 
「ふざけた真似してるとな、わ、別れるぞ……」
 
 口にした瞬間に後悔した。実際に口にしてしまうと想像していたよりもずっと幼稚に聞こえてしまう。相手からの好意を利用しての脅迫なんて、相当好かれていないと成立しないだろう。正直、こいつにどう思われているのかは未だによくわからない。殺してやると言ったその口で愛しているとのたまう。どう考えてもそのふたつは同一人物に向ける感情ではないだろう。沖田の考えていることはわからない。だからこそ予想しない一撃が効くこともあるのではないか。そんな駄目元での一投だった。
 対する沖田の反応はなんとも居た堪れないものだった。きょとん、とひどくあどけない顔つきで固まってしまっている。思いもしない発言に反応が追いつかなかったんだろう。それから徐々に相好を崩し、楽しげに笑う。あきらかに失敗だった。
 
「別れてやってもいいですけど、状況は変わりませんぜ」
「……だろうな」
 
 無駄に恥を掻いただけだった。結局動機もわからないままだ。何を感がているのか。何も考えていない、ということもあり得るから恐ろしい。こうして空回る俺を見て、腹の中では笑っているんだろうか。
 
「ここから出せ」
「そのうち出してあげます」
 
 そのうちとはいつだ。そう問うても沖田が答えることはなく、結局その日はそれ以上情報を引き出すことはできなかった。
 
 
 
   ◇ ◇
 
 
 
 物置のような部屋に閉じ込められて暫く。不便を感じることは度々あるものの、暮らせないことはない。
 沖田は数日おきにやってくる。前回俺が足りないと言ったものを買ってきたり、食材を補充したり、ゴミを回収していったりが主だ。時間がある時には何をするでもなく雑談をして帰っていく。その顔色はあまり良くない。眠れていないのか目元には薄っすらと隈ができていた。それを指摘しても奴は俺を挑発して煙に巻いてしまう。触れられたくないのだろう。そこを追及し過ぎてここにやってくる頻度が下がるのはまずいと判断して最近は何も言わない。今のところ、変化の兆しはなかった。そんな状態でふらふらしていれば近藤さんあたり捕まって休めと怒られそうなものだが。
 沖田がいない時間は正直言って退屈だ。仕方がない。テレビも電話もない。外部と連絡を取る手段が一切なく、ただ一人で何をするでもなく過ごしているのだ。たいていの人間はこんな生活退屈で飽き飽きするだろう。監禁対象に自炊をされるのはどうなんだと最初は思ったが、今となってはいい気分転換になっている。洗濯をしたり、自炊をしたり、風呂に入ったり、ゆっくりと時間をかければ生活を送るだけでもそれなりに時間は潰れる。その他の時間はほぼ筋トレと体力維持に費やしていたので退屈に殺されるようなこともなかった。ダンベルは流石に鈍器になるんで、と購入許可が降りなかったので筋トレの幅が狭いのが目下の不満だろうか。
 こうして時間が有り余っていると考え事をする時間がおのずと多くなる。この状況下で考えることなどそう多くはない。最も割合を占めるのはやはり沖田の動機だろう。何度考えても全くわからないままだが。
 前回の動機はおそらく、俺をからかって遊びたかったとかそのあたりだと思う。それにしては仕掛けが大仰で沖田自身も身体を張り過ぎているとは思うが、まあ妥当なところだろう。だが今回は前回とは状況が少し違う。今回は近くに沖田がいない。流石に前回と同じ手段は使えなかったということだろうか。それにしたってもう少し長く近くにいるようにはできたはずだ。沖田の様子から見るに、どうにも奴はここにいない時には職務についているらしかった。あいつのシフトすべてを把握しているわけじゃないがどうにも休憩時間や休日、仕事終わりに顔を出しているようだった。仕事に責任を感じるようなタイプじゃない。俺をおちょくるためとなれば前回同様一緒に行方不明になることも厭わなかっただろう。だが今回はそうしなかった。何故か。その必要がないから、だろうか。
 
「……カメラでも仕掛けてあんのか?」
 
 ひと通り屋内の探索はしたが、そういえばカメラの類のチェックまでは頭が回っていなかった。あいつの性格からして俺の動向を探る道具が全く仕掛けられていないとは考えにくい。一旦そう思い至ってしまえば放置しているのは気持ちが悪い。改めて、カメラや盗聴器に狙いを定めて部屋中を探し回る。そうしたものがどこに仕掛けられるものかなど詳しくは知らないが、こんな最低限のものしか置かれていない部屋だ。仕掛けられるような場所は限られているだろう。電源タップの中に仕込まれていることが多い、と以前にどこかで聞いたことがある。ドライバーがないので正攻法で開くことはできなかったが、踏みつけて壊してしまえば中身を確認できた。
 結果から言えばカメラと盗聴器はあった。それぞれふたつずつだ。監視されていてもおかしくはないとは思っていたが、実際に監視されているとわかるとやはり面白くはない。見つけて、どうするか。そんなものは決まっている。破壊、だ。
 破壊に適した道具もないので玄関先で靴を履いて、踏みつけて壊してしまう。足元でぱきぱきと折れる音が聞こえた。何度か踏みつけてから見ればレンズが割れ、あちこちの部品が折れ曲がったり欠けてしまっている。もう使い物にならないことは素人目でも明らかだった。
 
「……はっ、ざまあみろ」
 
 こんな小道具を壊したところで奴からすれば痛くも痒くもないのかもしれない。だが破壊行動のおかげでいくらか溜飲は下がった。少しでも困れば儲けもの。それくらいの感覚での行動だった。これですべて潰せたのかはわからないが、監視の目が減ったと思えばいくらか気も抜ける。自分で思ったよりも随分と退屈していて、ストレスも溜まっていたのだろう。時間が経つほどに冷静になってくる。
 
「……アホらしい」
 
 監視カメラと盗聴器に気づいても、ここで破壊する必要はなかった。壊されたならまた新しいものを取り付ければ済むだけだ。こうして破壊したことによって以降の監視の目が強くなる恐れもある。考えるほどにここで破壊してしまうのは短慮だったと言う他ない。だが壊してしまったものはもうどうしようもない。沖田もじきに気づくだろう。なるようになるしかない。
 焦りや苛立ちが募っていく。ここに閉じ込められてからどうにも沸点が低くなっているように思う。きっと不安なのだと思う。無理もない。こんな状況でいつも通りでいられる方がどうかしている。そしてこうした不安定な状況に陥った時、俺はたいてい煙草に手をのばす。それで何が解決するわけでもないが、手軽に気を紛らわせる方法が他に思いつかなかった。
 先日沖田が新しく持ってきたばかりの煙草を取り出して、火を点けながら換気扇を回す。何を言われたわけでもないが、煙草を吸う時の定位置は換気扇の下になっていた。部屋に窓がないので煙が充満するのを避けたかったというのが主な理由ではある。いくら煙草を好んでいようとも煙に満ちた部屋にいつまでもいるのは流石に気になる。
 沖田は、煙草をあまり買って来ない。俺の肺の健康を気にかけて、などと嘯くがあれは煙草をいくつも買って持ってくるのが面倒なだけだ。普段の消費量を考えると、ここにある煙草では到底足りない。だが煙草が切れると死活問題だ。だから否応なく煙草は控えていた。それにゆっくりと、一本一本を味わいながら消費していく。そうして長い一服を終えてから昼食の準備を始める。
 時計がないので外の様子を見ておおよそ察するしかないが、腹の減り具合からして昼時だろう。消費期限が近づいている肉と、水気が抜け始めている野菜を適当に炒めて塩コショウで味をつける。シンプル極まりない料理をチンするご飯と共に掻き込んでひと息つく。そんなタイミングで沖田はやって来た。
 上がった息。顔色は相変わらず良くない。昨日来たばかりだったので今日来るのは想定外だった。制服を着ているということは昼休憩か。いや、こいつなら仕事中に抜け出すくらいのことはやりかねない。そうだとすれば説教のひとつでもするべきだが判断がつかない。問うたところでこいつは素直に答えはしないだろう。なんと声をかけるべきか。決めかねていると沖田が先に口を開いた。
 
「……カメラ壊しました?」
 
 やはり監視はされていたらしい。見掛け倒しという可能性も考えていないわけじゃなかった。いつもと違うパターンで訪ねてきたのは仕掛けていたカメラが機能しなくなったことに気づいたからか。
 
「壊すなとは言われてねえ」
 
 そもそも、そんなものが仕掛けられているなんて聞いていなかった。言うつもりもなかったのだろうから壊すななとどは言いようがなかったのだろうとは思うが。とにかく俺は、咎められるようなことはしていない。
 俺の返答に対して沖田は溜息を返す。その、聞き分けのない子供を相手にしているかのような態度はいささか納得がいかない。
 
「こんな辺鄙な場所、人来ねえんだからなんかあったら事でしょうよ。アンタ、連絡手段持ってねえし。監視くらいさせてくだせェ」
「どういう理屈だ。それはお前が持たせてないのが悪いだろ」
 
 俺の訴えは全くもって正しいはずなのだが沖田はこれを無視した。断りなくずけずけと部屋に上がり込み、見覚えのある機器達を懐から取り出した。
 
「今回は見逃してやりますけど、もう壊さねェでくださいよ」
「はっ、壊したらどうなるってんだ」
 
 監視されているとわかってそのままにしておけない。監視の目を潰すことが少なからず有効であることは沖田の反応でわかった。ならばそれを突かない手はない。一方的に閉じ込められて、その上こいつの要求を聞き入れる義理なんて俺にはない。
 反抗的な態度をもって相対すれば、沖田はたいして堪えた風もなく平坦に返す。
 
「絶対に壊すなとは言いませんけど……そうですね。そんな真似したことを後悔させてやるんで、やるからには覚悟してくだせェ」
 
 ぞわぞわと悪寒がしたのは気のせいじゃない。こいつはやると言ったら本当にやる男だ。そんな有限実行はいらん。
 
「……なにするつもりだ」
 
 どうせろくでもないことに決まっている。知りたいような、知りたくないような。自分でもよくわからないまま問いかけた。沖田はそれに答えない。ただ薄っすらと笑みを浮かべるだけだ。きっと俺の想像も及ばない恐ろしいことを考えているのだろう。カメラの一台や二台壊されたところでこいつからすればそう痛くはないのかもしれない。それよりもこいつに手を出す理由を与える方が良くないように思えてきた。
 今のところ、大人しくしていれば何をしてくるわけでもない。無計画な反抗は己の立場を悪くするだけだ。だから特別な理由でもできない限りはもう壊すのはやめておこう。だがそれを正直に口にするのは屈したように見える。それは我慢ならないので沈黙を通す。
 沖田がその態度を咎めるようなことはなく、黙々とカメラと盗聴器を取り付けてすぐに帰って行ってしまった。
 
 
 
   ◇ ◇
 
 
 
 数日後に再びやってきた沖田は妙に機嫌が良かった。
 
「なんです、そのいかにも嫌そうな顔は」
「嫌な予感しかしねえからに決まってんだろ」
 
 日頃の沖田は感情の起伏が乏しいところがある。喜怒哀楽を持ち合わせていないわけじゃない。だが他人と比べるとどうにも感情の波は穏やかなようで、外からでは察せないこともままある。そんな男の感情が傍目で見て明らかにわかるのはその感情が相当に強いということだ。ろくでもないことばかり画策する男が、尋常ではなく機嫌をよくしている。これはどう考えても俺にとっては歓迎できない事態だろう。そしてその予想は案の定的中した。
 
「アンタにとっても悪い知らせじゃないと思いますがね」
 
 そう言いながら沖田は懐から何かを取り出した。
 ガラス製の小さな瓶だ。手のひらにおさめてしまえそうなほどの大きさの瓶の中に、液体が満ちている。液体は無色透明で瓶の方にはなんの記載もない。中身を推測することはできそうになかった。だが嫌な予感はする。この状況で正体不明の液体を持ち出されれば誰だって警戒はするだろうが。
 
「今日はこれを飲んでもらいてェんです」
「絶っ対に嫌だ」
「……色々と聞く前から全力で拒否することはねえでしょ」
「絶対にろくなもんじゃねえだろうが」
「失礼な。大丈夫ですよ、気持ちよくなるだけで害はないんで」
「その効能そのものが害だろうが!」
 
 こいつの言葉をどこまで信じていいのかはわからない。だが気持ちよくなるだけ、という言葉を信じるとしてもアレの服用を快諾する気には当然ならない。気持ちよくなるとはなんだ。そんな誘い文句にほいほい乗るほど俺は快楽主義じゃない。それにその効能が事実なら麻薬の類である恐れもあった。職業柄そんなものに手を出すわけにもいかない。
 
 警戒心を剥き出しに要求を撥ね付けたが、沖田の反応はあっさりとしたものだった。だが諦めたわけではない。
 
「嫌だって言うなら無理に飲めとは言いませんけど、いくら抵抗したって結果は同じですよ。あんまり抵抗されるようなら眠らせた上で縛ってから無理やりにでも飲ませるだけなんで。大人しく従ってる方が賢いと思いますがね」
「ぐっ……!」
 
 無理強いはしないと言いつつ、結局は無理強いをするつもりらしい。この状況下で抵抗しきることは難しいだろう。首輪の仕掛けをどうやって発動されるのかがわからない以上、防ぎきれるかも怪しい。ただでさえ不利なのにこれ以上拘束を増やされてしまえばいよいよどうにもできなくなってしまう。遅かれ早かれ同じ結果になる。それなら少しでも自由が残る方がまだ希望はあるか。だが毒とも知れないものを呷る決心はなかなかつかない。
 
「気持ちよくなるだけって、そもそもこれはなんなんだ」
「飲めばわかりますよ。命に関わるようなものじゃないんで安心してくだせェ」
「そんな信じられるかも怪しい最低限の保証で安心できるか」
 
 それに結局その怪しげな液体がなんなのかという問いには答えなかった。その反応で警戒が増す。今のところ安心できる要素が微塵もない。飲むべきではない。だが飲むことを回避できそうにもないのも事実だ。どうにか飲んだふりをして誤魔化す、というのも考えはしたがうまい案が浮かばない。
 
「じゃあ飲まないんで? がちがちに縛った上で鼻でも摘んでやれば飲んでくれます? 俺はどっちでも構いやせんけど」
 
 選択を迫られている。その選択肢の中に俺にとって最良のものはない。どちらの方がマシかというだけだ。沈黙していれば勝手に悪い方を選ばれてしまうだろう。選択肢などないも同じだった。
 
「ッ! 飲めばいいんだろ!」
 
 引ったくるようにして瓶を奪い取る。瓶の蓋を空けて、鼻を近づけた。においはしない。液体の正体は依然としてわからないままだ。だが選択肢はない。僅かな躊躇の後、覚悟を決めて瓶の中身を一気に呷った。
 
「おー、おみごと」
 
 感情のこもっていない形ばかりの称賛と白々しい拍手。呷った液体は妙に甘ったるく感じられた。あまり好ましい味ではない。だが小瓶に入っている液体の量など知れているので飲む干すのに支障はなかった。嚥下した液体は既に胃に落ちていることだろう。正体のわからないものを口にした不気味さで喉に違和感を覚える。今すぐ吐き戻してしまえばいいんじゃないだろうか。だが沖田が予備を所持している可能性もあるし、そうでなくとも新しいものを後日持って来るだろう。結局問題が先延ばしになるだけだ。沖田はどうしてもこれを俺に飲ませたがっているようだった。
 何が怒るのかと恐々としていたが、今の所目立った変化はない。だが強要してまで飲ませたがっていたということは何かあるはずだ。ただ甘い水を怯えさせるためだけに飲ませた、ということはないだろう。……ないと思う。絶対にないとは言い切れないのがこいつの恐ろしいところだ。
 飲み干した後もこれといった説明はない。本当にこいつは何がしたいのだろう。前回のように用件だけ済ませて帰る、というわけではないらしくおもむろにベッドに腰掛けた。いや、まだ用件は済んではいないのかもしれない。そして同じようにベッドに座るように促してくるので、警戒しつつ距離を取って座る。
 
「一応即効性ではあるんですが、効くまでにちょっと間はできるんでそれまで話でもしましょうか」
 
 この状況下でわけも分からず飲まされたものの事以外の何を話すというのか。そう思いもするものの、そもそもこいつから開示されている情報はあまりに少な過ぎる。間を保たせるためだけの誤魔化しだとしても無視してしまうことはできなかった。
 
「ここに連れて来られる前のこと、どこまで覚えてます?」
「んな話してどうすんだ。お前は知ってんだろ」
「覚えてねェならあの時のことを教えてやろうかと思いまして」
「俺が覚えてなかったら都合の悪いことは言わねえつもりだろ」
 
 沖田がどうやって俺を攫ってきたのかを俺は覚えていない。であれば再度俺を拉致しようと思った際には同じ手が使えるということだ。そのあたりの記憶の話は明確にはしていなかったのではっきりさせておきたいのかもしれない。そう何度も身内に拉致されて堪るかという話にはなってくるが、二度あることは三度ある。これで最後だなどとは一言も聞いていないし、そう言われたとしても俺は信じないだろう。
 
「……ほとんど覚えてねえ。前にも言ったと思うがお前連れて攘夷浪士追いかけて……追いついたあたりか? そこからさっぱり覚えてねえな」
 
 沖田が何かしたとするなら攘夷浪士を斬り伏せるなり逮捕するなりした後だろう。だがそのあたりの記憶はまったくない。少しでも覚えていればはったりをかまして情報を引き出すこともできたのかもしれないがここまで全く覚えていないとなると迂闊なことは言えない。
 
「まあ、そうでしょうね。アンタは攘夷浪士の苦し紛れの反撃をまともに食らって気絶したんで」
「はあ?」
 
 そんなわけがないだろう、とは言えない。なにせ記憶がない。あの時は俺が先行して沖田が殿を務める編成だった。反撃を受けたとして俺だけがそれに直撃するというのもありえない話ではない。どんな事態に陥ってもいいように警戒は最大にしていたつもりだが、人間の反応速度には限界がある。集中も常にいつまでも保つわけじゃない。
 
「アンタが寝てる間に奴さんはちゃんと片付けたんで安心してくだせェ。まあ、流石に生け捕りは無理でしたが」
 
 奴の剣の腕はかなりのものだ。本来の作戦でも生け捕りは可能であれば、という話になっていた。ただでさえそんな調子だったのに気を失った俺を庇いながらでは満足に剣を振るえなかったに違いない。生け捕りを諦めるのは仕方がないだろう。その判断を責めるつもりはなかった。ーーーそこで、ふと思い至る。
 
「腕の怪我……その時か?」
 
 少し考えてみればすぐに思い至りそうなものなのに、何故考えもしなかったのか。いきなりおかしな状況に放り込まれて他のことを考える余裕がなかったのかもしれない。だがそんなものは言い訳だ。どんな状況に置かれているとしても直前の仕事に関する事柄を失念していたのは副長として有りえない失態だった。
 
「……そんなこと一言も言ってねェでしょう」
「そのわりに否定が入るのが遅かったな」
 
 流暢に嘘をつく奴ではあるが、常に淀みなく嘘がつけるわけでもない。思いもよらない指摘に咄嗟に繕えなかったのだろう。生憎何も覚えてはいないが、そもそもそれがおかしいのではないか。
 唐突に途切れている記憶、珍しい沖田の怪我。ピースがあまりに少な過ぎるのでおかしいと言い切ることは難しいが、よくあることだと流してしまうにはやや不自然だと思う。普段とは違う反応が返ってきたので尚更怪しい。何か突っ込まれるとまずい隠し事があるのかもしれない。
 
「お前、なに隠してる」
 
 普段の行動からしておかしいことばかりなので判断がつきかねていたが、やはりおかしい。奇行の中に何か、都合の悪いことが混ぜ込まれている。一度どう思ってしまえばそうとしか考えられなくなっていく。全く意味のないその場のノリだけでの奇行も度々あるのでひとつの可能性に絞り込んでしまうのは危険だ。だが、この状況はあまりにも。
 
「……」
 
 沖田は答えない。まさか聞こえていないわけでもないだろうに、不自然なほどに反応がなかった。まさかこのまま聞き流してしまうつもりだろうか。それでは探られてまずい腹があると公言しているようなものだ。何を隠している。それは俺をこうして閉じ込めておくことと関係があるのか。問い方を変えれば口を開く気になるだろうか。力ずくで口を割らせるというてもなくはないが、拘束されている以上あまり良い手とは言えないので最終手段にしておきたいところではある。しかしそれならどうするか。
 捕虜から情報を引き出すようなことは度々あるが、同じ手段を取るわけにもいかない。話術巧みな方ではない自覚はある。沖田を思う通りに動かせたことなどろくにないのに今回だけはうまく誘導しようというのも無茶だ。しかしこのままこいつの思い通りに大人しくしているわけにもいかない。なんとかしなくては。
 
「……?」
 
 そこでふと違和感に気付いた。頭がぼんやりとする。思考に霞がかかっていることに遅れて気づく。こんな唐突な変化は明らかに異常だ。これを沖田は待っていたのだ。 
 この症状はなんだ。
 
「ああ、やっと効いてきました?」
 
 その様子に驚きはない。こうなることがわかっていたんだろう。
 
「なに、仕込みやがった」
 
 身体が火照る。息が浅く、落ち着かない。ぐらぐらと内側から燃えているような感覚がある。これには覚えがあった。
 性欲を持て余している時とほぼ同じだ。だがそれでもここまで気が狂うような感覚はない。あきらかに自然発生したものではない。どういった薬を飲まされたのかはだいたい見当がつく。それでも思い込みだけで確定したくはなかった。
 
「ちゃんと言ったでしょう。気持ちよくなる薬って」
 
 言ってはいたが、そういう方向の気持ちよさか。てっきりラリる方向に気持ちよくなるのだと警戒していたんだが。
 
「大丈夫ですよ。後遺症が残ったりもしない安全安心な薬なんで」
「はっ。嘘くせえ」
 
 即座に驚いてここまで強力な効き目を発揮するのであれば合法的なものであるか怪しい。だがそのあたりを詰めている余裕はなかった。性衝動に襲われると思考がうまくできなくなるものだが、今はその比じゃない。
 原因がどうだとか、こいつの狙いがなんのなのかだとか、そんなことは今はどうだっていい。今すぐに発散してしまいたい。だがこいつの前で己を慰めるほど理性を失ってはいない。ぎりぎりではあるが、バスルームに転がり込むくらいはできそうだ。
 熱に浮かされているような心地で、そのせいか動きは緩慢なものになる。それでも全く動けないほどではない。のたのたと、なんとか動き出そうとする。だが腕を掴まれた。
 
「ッひ!?」
 
 服越しに腕を掴まれただけ。それだけなのに自分でも驚くほどに上擦った声が出た。ただ触れられただけなのにぞわぞわと鳥肌が止まらない。強制的に発情状態に持っていくだけでは飽き足らず、感覚まで鋭利にされているらしい。身体が自分のものじゃないように思えて不快だ。
 
「は、なせ……!」
「どこに行こうってんです?」
「お前に関係ねえ、だろ」
 
 ぐらぐらと内側から燃えている。触れられているところから熱が高まっていく。このままではいけないことはわかる。だが腕を振りほどくのが無理そうだということは辛うじてわかった。掴む力は弱まるどころか逆に強くなっていく。なんとか振りほどこうと抵抗こそしてみてはいるが望みは薄そうだ。それどころかぐいと腕を引かれる。それに抗いきれないまま、ベッドに引き倒される。
 安っぽいベッドがぎいと嫌な音を立てる。更にその上に沖田が覆い被さってスプリングが更に軋んだ。この体勢はまずい。これから何が起こるかなんて、想像に易い。
 
「な、なにするつもり、だ?」
「この展開でやることってひとつじゃないです?」
「言っとく、が……どんな関係であれ、同意がなけりゃ、はんざい、だ……ッ」
 
 沖田とは一応そういう仲ではあるし、何度かそういうことをしたこともある。だが双方の同意あってのものだ。俺は合意なんてしていないし、するつもりもない。つまりこのまま続けるというのであればこいつの行いは犯罪だということになる。そもそも監禁なんて真似をしている時点で言い逃れようもなく犯罪ではあるのだが。
 
「さ、わんなッ!」
「おっ、と」
 
 咄嗟に繰り出した拳も蹴りもあっさりと防がれてしまう。体勢が悪い上に身体にうまく力が入らない。攻撃にはさほど威力が乗っておらず、不発に終わるのは仕方がないことではある。
 
「うっ、ぅぅ……くそ…ッ」
 
 着流し一枚などあってないようなものだ。合わせの隙間から手を差し込まれ、内側から着流しを乱される。一瞬で素肌の八割ほどを晒すことになった。
 見られて恥じらいが湧くようなことはないが、情けなくはなってくる。どうしようもなかったとはいえ、まんまと怪しげな薬を盛られ、いいように扱われている。これをみじめに思わずにいられる奴がどれくらいいるだろうか。何もかも最悪だが、中でも一番最悪なのは身体が己の意思とは反する反応を示すことだ。
 触覚がかなり敏感になっていて、素肌を何気なく撫でられるだけで身体が震える。そもそも素肌に触れられること自体、妙な心地になるものだが、今はその比じゃない。触れられるほどに頭がおかしくなっていく。こんなことは望んでいない。それなのに燻った熱が勝手に下肢に集まっていく。
 着流しはとっくに腕が通っているだけに成り果て、次はふんどしに手をかけられる。抵抗されながら解いていくのはそれなりに手間ではあったようだが、それでもすべて剥かれてしまう。いくら殴ろうと蹴ろうと爪を立てようと、沖田に止まる気配はなかった。
 
「散々嫌がるわりにこっちの方は元気なようで」
 
 ふんどしの中にしまい込まれていたそれは痛いほどに張り詰めている。指摘されるまでもなくわかっていたことではあるが、改めてそう認識されると羞恥と怒りが噴き上がる。
 
「だッれのせいだと…!」
「まあ、俺が飲ませた薬のせいなんですが」
 
 そうだ。これは忌々しい薬の作用だ。そうでなくてはこんなことにはならない。なにもかも、こいつのせいだ。
 熱い。苦しい。なんでもいいからこの苦しみから解放されたいと、考えずにはいられない。解放されるのにはなんとかして欲を散らすしかないわけだが、方法はおそらくひとつしかない。だがこいつの前でそんな真似をするなんて冗談ではないし、こいつを相手になんていかにも思惑通りでそっちの方がより冗談じゃない。
 だがいくら理性で抑え込んだところで、肝心の理性がじりじりと目減りしていっているので頼りにはならない。それに、俺の意思に関係なく沖田は計画通りに事を進めるだろう。実際今も、俺に触れる手は怪しげに下へとおりていく。
 胸、腹、腰と順に降りて局部を軽く撫でていく。それだけで理性が擦り切れる。プライドも何もなく手を伸ばして衝動のままに扱いてしまいそうになる。冗談じゃない。そんなみっともない真似をしてたまるか。
 
「ッひ!?」
 
 理性をなんとか掻き集めていたせいで反応が遅れた。
 これまであちこち勝手に触れられていたが、それとは少し違っていた。ぬるりと。決して愉快とはいえない感触。だがこれには覚えがあった。
 ぎょっとしてその手を見れば粘りのある液体をその手にまとわりつかせていた。その正体は知っている。潤滑油だ。
 
「おまっ、なんで、んなもん…!」
「最初からこうする予定だったんだからこれくらいの準備はするでしょう」
 
 何を当たり前のことを、と言わんばかりの口ぶりは神経を逆撫でする。それはそうだが、そもそもの前提からしておかしい奴に常識的な行動について口を出されたくはない。
 べたべたと尻周りに潤滑油が塗りたくられて気持ちが悪い。なければ大惨事だとわかっていてもやはり気持ち悪いものは気持ち悪い。尻を這う手は割れ目の間に入り込む。奥にある穴に触れて、それだけでは飽き足らずその先の穴へ入る素振りを見せる。というか、そもそもの目的がそれなんだろう。
 
「こんなの、役人のやることッ、じゃ……っぅ、ね…ッ」
「こんな真似、そもそも人としてもどうかと思いますけどね」
「わかって、んなら、」
「散々人を異常者扱いしてたんだから今更常識を説いたって無駄なのはわかるでしょう。それに、正しくないとわかっててもやらなきゃいけないことだってありますし」
 これこそがそうだとでも言いたいのか。馬鹿げている。こんなこと、自分の欲以外の理由があってたまるか。言い訳をいくらそれらしく並べてみたところでそれが事実だ。
 だがそれだけならこんな回りくどいことをする必要はないはずだ。他に目的があるのかもしれない。だとしたら何故今これなのか。……駄目だ。ぼんやりする。
 
「や、めろ。こんなことして…ッぅ! ただで済むと、思って……」「
「そういう態度、どうかと思いますよ。そんな挑発して、逆上した犯人に殺されでもしたらどうすんですか」
「犯人が、ぬけぬけと…!」
 
 じたばたと暴れて抵抗してみるがせいぜい時間稼ぎにしかならない。触れられる度に普段の何倍もの刺激を拾い上げるのでびくびくと身体が跳ねる。忌々しい。こんな状態では身体の抵抗などあってないようなもので、あっという間に穴へ指が入ってくる。
 認めるのは癪だが、否定しきれない。たまらなく気持ちがいい。もうそれ以外のことはどうでもよく思えてくる。口が開いたまま閉じられない。意味をなさない母音ばかりが次々と溢れ出てくる。嫌だ。こんなものは違う。
 
「うぅッ、やめろ、こんな…っは、ぁ……」
「……珍しい。こんな状況だと流石のアンタも怯えるんですね」
 
 怯えているか、だと? 正気とは思えないことを度々やらかす奴ではあるが、今回はずば抜けている。こいつにも一応、こいつなりに倫理は備わっている。今回は明らかにそれを越している。俺への嫌がらせが生きがいのようなところはあるが、ここまでやったことはなかった。
 ここから立場を逆転させることは不可能だ。いつもと違って何をしでかすかわからない奴に完全に主導権を握られている。そんな状態で一切怯えない方が異様ではないか。ああ、そうだ。俺は今、こいつのことがとてつもなくおそろしい。俺を見下ろすその目がやけに冷静で冷えている。それが恐怖を助長した。
 
「ああ、ちょっと、逃げねェでくださいって」
 
 穴に潜り込ませた指たちを動かし、穴の拡張具合を確かめている。そこまできたらこの先やることはひとつだ。
 指が抜け出たタイミングで逃げ出そうともがく。だがあっさり押さえ込まれた。じゃらじゃらと鎖の音がして、そういえば繋がれていたと思い出す。ベッドの上から逃げ出したところで足枷と首輪がある限りは逃げられない。そんなとっくにわかりきっていた事実を忘れるほどに正気を失っていた。
 
「ゔぅ…ぐっ、ふ……ふぅ、は…」
「そんなこわがらなくなって大人しくしてりゃそんなひどいことにはなりませんよ」
 
 意味深な言い方をする。そんなに、というだけで結局ひどいことはするんだろう。なんの慰めにもなってない。
 べたべたと触れられながら身体をひっくり返される。ぞわぞわと肌が泡立った。触るな、と譫言のように主張してみるが当然のように無視される。身体が思うように動かせない。びくびくと奮える身体が不快で、だがどうすることもできない。なんの刺激もなければまだなんとか動くことはできる。だが触れられていては駄目だ。力が入らない。それは沖田にも知られているのか、やけにべたべたと触れられまくっているように思う。
 
「ぐ、う、ううぅぅ…!」
 
 艶っぽい声など出してたまるかと唇を噛みしめる。だがそんな努力も虚しく、口はぱかりと開いてしまう。濁りきった己の声がひたすらに不快だ。身体に力が入らない。うつ伏せにされたが自分の力で体重を支えることは難しく、腕はぺしゃりと崩れ落ちてしまう。尻だけを突き出す形になってしまい。ひどく間が抜けている。その尻を沖田がぺたぺたと触る。
 スラックスを引き下ろす音。ごそごそと何かを探っている音がする。小さな音を立てながら包装が破られ、ぱちんと乾いた音。聞き覚えがある。
 こんな状況下でもゴムはつけるのか。抵抗することにすら疲れて、ぼんやりとそんなことを思う。何を言ったところで沖田は止まらないだろう。それなら大人しくしている方が早く済む。こいつは俺の反応を楽しんでいる節がある。反応したところで面白がられて長引く恐れがあった。それに、何か反応を見せてこれ以上気取られるのも嫌だった。
 怖いのだ。触れられて、指を中に埋め込まれただけで気が狂いそうになる。そんな状態でもっと太いものを挿れられてどうなるのか。それがおそろしい。だからじっと黙って待つ。
 ひたりと、穴に亀頭が当てられた。どくどくと心臓がうるさいくらいに跳ねている。これは駄目なやつだ。歯ががちがちと鳴る。これまでなんとか屈さずにいた。それがここに来て心折れそうになる。やめてくれ、許してくれと、懇願しそうになる。
 だがそんなことをすれば己の中で何かが終わってしまうことはわかりきっていた。だから寸前のところでなんとか抑え込む。本当に、ぎりぎりだった。ほんの少しの刺激で決壊してしまうような、そんな崖っぷちの状態だった。幸か不幸か、沖田はこちらを刺激することはなかった。ひと息に、決定的な一撃を叩き込んできた。
 
「ッひぐ!? う、うあッ…あっ、ぁぐ…!」
 
 完全に許容量を超えた会館だった。ここまでくると最早痛みだ。目の前がくらむ。意識が飛びそうになる。だがそんなことは許さないとばかりに律動が始まる。絶え間なく与えられ続ける快楽は強制的に意識を引き戻す役割を果たしてしまっている。
 
「あ、ああぁぁ…ぐっ、ぅ…い、」
 
 開きっぱなしになった口からだくだくと唾液が垂れ落ちる。がりがりとシーツに爪を立てる。少し動き出しただけでどうしようもなく追い詰められている。それに気づいているのかいないのか。沖田が止まる様子はない。そもそもこの状態で長く耐えられるはずもない。ちかちかと視界が明滅する。
 
「あ゛ッ!! まっ、まて…それいじょ……うあ、あァッ!!」
「ははっ、もうイキそうです? いいですよ。好きなだけ、気持ちよくなって、くだせェ!」
「んっ、んんッ…!!」
 
 頭の中がぐちゃぐちゃになる。気持ちいい。苦しい。辛い。痛い。逃げ出したい。……怖い。
 
「ッは…はぁ、ァ……ふっ、ふぅ…」
「流石薬盛ってるだけあっていつもよりだいぶ反応がいいですねィ」
 
 面白がっているような声音だ。それを認識すると怒りがふつふつとわいてくる。だがそれが明確な形を持つより早く、沖田が再び動き出す。息をつくために一瞬止まっていただけでこちらが落ち着くのを待っていてくれていたわけではないんだろう。
 俺がどんな状態になっているかなんてわかっているだろうに配慮はない。容赦なく責め立てられる。ただでさえイった直後の身体は敏感になっている。正気でいられるわけがない。
 
「ーーッ!! っぅ!! ーーー!!」
 
 声も出ない。身体がばらばらになっていくような、感覚。自分の身体ではないように思えてならない。どうすれば取り戻せるのかがわからない。取り戻せる保証もない。ひどくおそろしかった。
 
「はっ、ぅ…うぅ…ん、んんぐ…!」
 
 達している感覚はあるが普段よりもかなり間隔が狭い。ここまで続けざまだと拷問だ。許しを乞うような余裕もない。快楽に飲まれそうなのをぎりぎりのところで踏み留まっている。……いや、踏み留まれてなどいないのかもしれない。わからない、何も。考えられない。
 
「い゛ッ!?」
 
 鋭い痛みに身体が跳ねる。これまでとはあきらかに違う。首筋に一瞬、凄まじい痛みがあった。それがなんの痛みなのかはわからなかった。それを確認するために振り返ろうとする。だが沖田に抑えつけられて叶わなかった。
 
「ァ、な、なにしやがっ……い゛っ!?」
 
 また鋭い痛み。今度はばち、と何かが弾けるような音が聞こえた。首筋に何かを押し付けられている。それが痛みの原因だ。ーーースタンガンだ。
 
「テメっ、なにし、て……あ゛ぁ、ぐっ!!」
 
 ばちばちという音に痛みが続く。この程度の痛み、耐えられないわけじゃない。だが来るとわかっていて、細かなタイミングはわからないという状況は恐怖を煽る。それに、この身体を振り回す刺激はこれだけではないのだ。どっちに集中していいのかわからない。どちらかに気を取られていると、もう一方に振り回される。
 ぼたぼたと涙が次々に溢れ出てくる。視界が滲んで鬱陶しい。止めたいが、止め方がわからない。ばち、と痛み。
 
「ははっ、これ当てると中が締まっていいですね」
「っは、ぁ……ふぅ、ふ、ざけてんじゃ……」
 
 なにがいいものか。イカれているとしか思えない。怒りが湧き上がるが、痛みに掻き消されてしまう。何度もスタンガンを押し付けられる。何度目かまではわからなかった。その痛みに慣れることはない。
 いつ来るとも知れない痛みに怯えていたが、不意にそれが止んだ。これで終わったとは思えない。次がいつかと構えていればこれまでとは違う痛みがあった。
 これまでよりもずっと弱い痛みだ。肩を掴まれ、ひっくり返されたのだと遅れて認識する。さっきまでペニスを突っ込まれていたはずだが、あっさりとひっくり返されたということはいつの間にか抜かれていたらしい。そんなことにすら気づく余裕がない。
 
「っは……はぁ、は……」
 
 久々に顔を合わせた気がする。目や鼻、口。あらゆる場所から体液が垂れ落ちている。鏡で確認するまでもなく、ひどい顔をしているのは間違いない。拭い取ったところで焼け石に水だろう。だからそれは諦めて睨みあげる。心が折れかけはしたが、痛みが遠ざかれば気丈さはいくらか取り戻せる。屈するつもりはなかった。
 
「ああ、もう持ち直すんですねィ」
「気は、すんだ、かよ……っ」
 
 人の身体を好き勝手に弄んで、不快と言うしかない。それでもこのままではどうしようもない。薬の効力はまだ続いていそうだが、沖田が手を止めればチャンスはあるかもしれない。
 
「ええ、おおむね」
 
 こいつの目的は俺を支配してイカれたセックスを共用させることだったのか。馬鹿げている。でたらめだと返してやりたいところだがこいつの考えることはわからない。こんな上古湯でもなければ実現しなかったであろうことは事実だ。
 
「まんぞくしたなら、さっさと、うせろ」
「ひでえなァ」
 
 いくら吠えても沖田は飄々としている。俺の言葉は聞こえているだろうに、耳を貸す気配はない。手が、伸びてくる。警戒するなという方が無理だ。それでも払いのける気力はなかった。
 好きに触らせていれば、その手は首筋を撫でる。ちょうどスタンガンを当てられていたあたりだ。触れられただけでは痛みはないが、よく覚えている。構えずにはいられない。だが沖田は構うことなく何度も撫でた。
 
「うーん、触っただけじゃよくわかんねェか」
「? なんの、話だ」
 
 何かを確かめている? だがそれがなんなのかは見当もつかなかった。そして沖田はその問いには答えない。ただ語りかけてくる。その声音はどこか優しい。
 
「お疲れさまでした。片付けはやっとくんで安心してくだせェ」
「は?」
 
 なんの話をしているのかわからない。片付けなんて、そんな心配ははなからしていない。お疲れ様とはなんだ。何か言葉をかけるにしてもまずは謝罪からだろう。謝ったところで許しはしないが。
 とにかく、これだけでは何を伝えたいのかはわからない。それを問おうとしたところでまた、痛みが。
 
「ッぅ…!」
 
 首に痛み。今度はスタンガンじゃない。だが一度経験したことのある痛みだ。首輪の方が発動したらしかった。針を差し込まれるかすかな痛み。それからまもなくして意識が遠のいていく。抗えない。
 
「ま、て……」
 
 色々と言いたいことがある。文句だったり疑問だったり。だがそれも言葉にはならない。重たく、落ちていくのは瞼だけではなく口も同じだ。逆らえない。落ちていく。抵抗してみるものの、元から疲れていることも手伝ってあっさりと負けた。
 暗闇。そして意識は完全に途切れた。
 
 
 
   ◇ ◇
 
 
 
 目が覚めると見慣れた天井が目に入った。木製の天井。ぼんやりとそれを眺めていると視界に頭がひとつ入り込んできた。
 
「あ、目覚めました? よかったです。体調どうです?」
「…………山崎」
 
 地味で平凡でぱっとしない顔には覚えがあった。どうやら布団に横になっているようだと遅れて気づく。ベッド、ではない。山崎は俺が目を覚ますのを待っていたのか。
 
「……どうなってる」
 
 ゆったりと視線を巡らせたところ、ここは屯所の自室らしかった。首輪はなく、足枷も残っていない。
 
「それはこっちが聞きたいんですが。……えっと、どこまで覚えてます?」
 
 山崎が言うには、俺が行方不明になって二週間。昨日、沖田が屯所近くの道端に倒れているのを見つけてきたらしい。嘘っぱちだ。あれから後処理を済ませて俺を解放したんだろう。
 わけも分からず拉致監禁されたと思ったら唐突に解放された。結局あいつはないをしたかったのか。考え込んで黙っていれば、その沈黙をどう受け取ったのか山崎の方が喋り始める。
 
「副長がいなくなって大変だったんですよ。局長は暇さえあれば捜し回ってるし、沖田隊長の方も頻繁にいなくなってたんでこっそり捜してたんじゃないですかね。二人ともあんまり寝てなかったみたいで顔色がひどかったんですよ。副長がいないと動かせない仕事は溜まっていくし、散々でした」
「近藤さんは今どうしてる」
「今ちょっと出てて、一時間もすれば戻ると思います」
「……総悟は」
「いますよ。まあちょっと気が抜けたらしくて寝てますけど。夕方には起きてくるんじゃないですかね」
 
 沖田とは何度も顔を合わせていたが顔色はずっと悪かった。疲れて寝ているというのも完全に嘘ではないのかもしれない。奴を問い詰める必要はあるだろうが、急ぐことでもない気がする。
 
「何があったかは覚えてねえ」
 
 本当は拉致監禁されてからのことなら覚えている。だが素直に言うわけにもいかない。部下に拉致監禁され、生殺与奪を握られて、挙げ句に身体を好き勝手に使われたなんて言えるはずもない。プライドの問題が大部分を占めているが、それだけが理由でもない。
 
「覚えてないですか……。前にも似たようなことありましたよね。前は沖田隊長もでしたけど。……何か危険なことに首突っ込んだりしてないでしょうね?」
「ない」
「って言っても覚えてないんでしょうに」
 
 沖田の企みならば大事にはならないだろう。だがそれはなんの問題もない、ということにはならない。
 冷静になった頭で考えると沖田の行動・言動には違和感があった。決定的なものではないが、確かめるくらいはしてもいいだろう。
 
「山崎、調べてほしいことがある」
「へ? はあ、それは構いませんけど……」
 
 困惑するのも当然だ。突然戻ってきた上司が何も覚えていないと言うわりに調べてほしいことがあるなどというのはどう考えたっておかしい。だが説明してやる気はなかった。説明の有無でこいつの上げる成果が変わるわけでもない。こいつも分を弁えているのか食い下がってくることはなかった。
 
「それで、何を調べればいいんです?」
「総悟のここ二週間の動向を調べろ」
 
 これで奴の違和感の正体が明るみに出るかもしれない。すべてを開かせずとも何か出るはずだ。奴と顔を合わせるのはそれからでもいいだろう。
 疲れているのはこちらも同じだ。仕事も溜まっているだろう。だからひとまず奴の問題は後回しにしてしまうことにした。
 
 
   ◇ ◇
 
 
 
 沖田には一人部屋が与えられている。肩書きからしてナンバー3だ。年若い沖田をやっかむ者もいるが奴に実力があるのは事実。他の隊長格と同じように一人部屋を持つのは当然で、それに異議を唱える者はいなかった。
 だから目の前のこの部屋は沖田一人のもので、中にいることは気配でわかっている。
 
「総悟、入るぞ」
 
 入っていいか、などとは聞かない。あいつの都合など知ったことか。寝ていたとしても普段惰眠を貪ってばかりいるのだから起こしても構いはしないだろう。そんなことを考えつつ障子を開け放つ。するとそこにはやはり沖田がいた。
 
「……今日は非番なんで仕事の話なら明日にしてくだせェ」
 
 そろそろ眠ろうとしていたのか、敷かれた布団の上へ胡座をかいて座り込んでいる。露骨に嫌がっているのがわかるがその程度で引いてやる気はなかった。
 
「残念だが俺も今日の仕事は終わった。仕事の話じゃねえしな」
 
 お互いに非番。これからするのはプライベートな話だ。上司部下の関係はこの話には関わらない。
 迷惑そうにしていたものの、沖田が逃げ出す様子はなかった。逃げ出したところで問題を先延ばしにするだけだ。こいつがそこまで考えているのかは知らないが。
 
「回りくどい話は好きじゃねえ」
「まあ、アンタはそうですよね」
 茶化すような相づちは流してしまうことにした。まともに返すと本題から脱線するかもしれない。だから黙殺して当初の計画通りに話を進めた。
 
「腕の怪我、どうだ」
 
 右腕の怪我は一朝一夕で治るようなものではないらしく、未だに包帯が巻かれていることを知っている。快調とは言えないのかもしれないが特別悪化しているという様子もない。少し観察すればわかることだ。そんなことを何故聞くのか。訝しげに沖田の眉が顰められる。
 
「まあ、ぼちぼちってとこですかね。傷の治りは人並みなんで」
 
 そうだろうな。ここまでは単なる雑談で、本題はここからだ。本題からずれているわけでもないが。
 
「その傷、つけたのは俺だな?」
 
 疑問の体こそしているが、ほぼ確定している情報だった。だが沖田に動揺は見られない。
 
「なんだってそんな面白おかしい話になってるんです? 俺の腕を斬りつけた記憶でもあるんで?」
「……いや、記憶はねえ。それでもお前がここ数週間で何をしてたのかはわかった」
 
 肝心の記憶は抜けている。だがないなら補えばいいのだ。幸い、そのための手段を俺は持っている。
 
「山崎に俺がいない間のお前の行動を調べさせた」
 
 そこでようやく沖田に変化が見られた。わずかだが動揺した。痛いところを突かれたか。
 
「流石のお前も短期間に一人だけで行動ってなると脇が甘くなるんだな」
 
 すべてを調べられたわけではないんだろうが、いくつもの目撃情報と、俺と二人の時の言動や行動、それらを合わせて考えて、足りない情報を集めていけば真実にたどりつくことはできる。白状するつもりはなさそうなので仕方なくこちらの推理を開帳する。
 まず、事の元凶は過激攘夷浪士・仙野 丑男だ。俺たちが長らく追っていて、ここしばらく張り込んでいた相手。追い詰めていたが、わずかな隙を見て逃げ出した。それを沖田と追ってーーそこから記憶がない。そこが今回の何よりの問題だ。これに関しては後日己の身体を調べることで解決した。
 追い詰められた仙野は俺たちに反撃する際、とあるカラクリを使った。極小のカラクリを体内に入り込ませることで相手の身体を思い通りに操るというものだ。だがそれはまだ試作段階のものだった。
 咄嗟の反撃を受けてそのカラクリにまんまと入り込まれた。カラクリは俺の意識を乗っ取り、あらかじめ組み込まれていたプログラム通りに敵を排除しようと沖田へ攻撃を仕掛けた。突然のことに反応が遅れた沖田は右腕に傷を負った。だが奴の実力は確かだ。何が怒っているかわからいにしても操られた俺を制圧して、仙野を斬り伏せた。
 そして沖田は意識を失った俺をそのまま拉致。数週間に渡って監禁した。
 
「その時点で俺に仕込まれたカラクリはまだ生きてた。自然消滅するようなものじゃない」
 
 得体の知れないカラクリだ。どういう条件で発動するのかもはっきりとしない。調べて取り除かなくてはいけない。
 沖田はそれを偽りなく報告するべきだった。だがそれをしなかったのは何故か。
 
「俺に不適切な処分が下るのを回避した。……だろ?」
「は?」
 
 いかにも不服そうな顔を向けられたが間違っていないはずだ。あの時点でカラクリが検出されるのかも怪しい。何も見つからなければ俺の行為は反逆行為となり、よくても除名。最悪切腹だ。沖田が証言したとしても証拠がなければどう転ぶかわからない。最悪の事態も充分に有りえた。
 だがこいつが俺を庇おうとするかのような行動は意外だった。監禁の理由を口にしなかったのはそのあたりが原因なんだろう。俺をひとまず閉じ込めておいて、その間に改札作を探して奔走した。
 
「あのスタンガンをカラクリを無効化したのはわかった。……だがあの薬のことは目的がよくわからん。なんだったんだ」
 
 現物があればまた話は違ってくるんだろうが、あれに関しては情報が拾えなかった。スタンガンを確実に当てるために弱体化させたかったのなら首輪を使えばいい。薬を手に入れるのだってリスクはあったはずだ。それを犯してまで薬を使った理由が考えてもわからない。
 問うたところでほしい答えが返ってくるかはわからなかった。だが沖田は案外あっさりと口を割った。
 
「アンタの中に入ってたカラクリは首のあたりを動き回るんです。その状態のまま電気を流しても逃げられるんで動きを鈍らせる薬を飲ませました」
「……媚薬って言ってなかったか?」
「あれはついでにその効果も入れてもらっただけで本命ではねェです。スタンガン、結構痛いでしょう? 気持ちよけりゃ多少痛みも紛れるかと」
「………………は」
 
 加虐的なセックスに目覚めたのかと恐々としていたのにあれは気遣いだったのか。わかるか。わかってたまるか。今回は全体的にこいつの言葉は足りなかった。それで理解するというのは無理がある。
 
「……それならそうと、言えばよかっただろ。必要なことだとわかってりゃあれくらいは我慢したわ」
「バレちゃ仕方ないんで認めましたけど、俺がアンタを助けるためにあそこまでしたなんて知られんのは嫌だったんでさァ」
「はあ?」
 
 なんともくだらない理由だ。だがこいつにとっては大切な問題だったのかもしれない。言われてみるとたしかに、こいつが俺を助けるなんて滅多とないことだ。今回は事が大きくなれば近藤さんにまで飛び火する恐れがあった。こいつが何よりも避けたかったのはそのあたりの問題なんだろうが。
 
「お前の都合なんざ知るか。こちとらお前の説明次第では半殺しにしてやるつもりで来てんだぞ」
 
 真意や思惑がどうだったにせよ、こいつのしたことは許されることではない。言葉が足りない。やり方が悪い。問題点を挙げていけばきりがない。それくらいされても文句は言えないだろう。調べによって動機についてはおおよそ見当がついていたとはいえ、すべて当たっているとも限らなかった。違った意図が隠されていた場合、返答によっては本当に、半殺しくらいはやってやろうと思ってはいたのだ。それくらいやらなければこいつが悔い改めることはないだろう。本当に実行には移さないにしても少し怯むくらいの可愛げがあってもいいものだが、沖田はけろりとしている。
 
「俺が間違ってたとは思いませんが、穏当なやり方じゃなかった自覚くらいはあります。それなのに半殺しで済ませるとはお優しいことで」
「あァ?」
 
 ひとまず馬鹿にされているのはわかった。こいつなりに色々考えてはいたようなので半殺しはやめておいてやろうと思っていたが、本当に半殺しにしてやろうか。そんな風にふつふつとこみ上げてきた怒りをなんとか振り払う。半殺しにしてやろうかと思っていた瞬間があったのは事実だが、こうしてこの部屋にやって来た時点で実行する気はほとんどなくなっていた。本当にやるとしてもここではまずい。騒動が知れて私闘だと判断されれば立場が危うくなるのは俺の方だ。そのリスクを取ってまでやらなくてはいけないことなのか、という現実を見た話だ。怒りを抑え込む。
 
「お前だって優しいとは言わねえが、たいがい甘いだろ。戻ってきた俺が全部ぶっちゃけてたらどうするつもりだったんだ」
 
 俺が黙っているから無罪放免なだけで、こいつのやったことは普通に犯罪だ。明るみに出ればただでは済まない。しかしそうなると沖田だけの問題ではなく真選組や近藤さんの評価にも響く。それがわかった上で俺なら騒ぎ立てはしないだろうとでも思われていたのか。
 
「アンタは言わねェでしょ。前回も結局黙ってましたし」
「うっ……!」
 
 口止めなどはされていなかったので真実を打ち明けてしまってもよかった。だが前回はそうしなかった。今回もそうだろうとーーまあ、なめられているのだ。その予想を裏切ってやるべきだったか。過ぎたことを言っても仕方がない。既に覚えていないと証言してしまっている。ここに来て沖田の仕業だったと暴露したところでわざと黙っていた疑惑をかけられて叱責を受ける恐れがあった。そこまでして沖田を罰したいのかと問われると微妙なところだ。少々灸を据えてやりたいとは思うが、大仰なものを望んでいるわけでもない。ではどうしたいのか、と問われると自分でもよくわからなかった。
 黙り込んだ俺をどう受け止めたのか、沖田は緩やかに視線を外す。
 
「……まあ、穏当なやり方じゃなかったのは認めます。それなりの詫びくらいはしてやってもいいです」
「物言いが上から過ぎるだろ。喧嘩売ってんのか」
 
 こいつは謝罪も素直にできないのか。育て方を間違えた気がする。……いや、ガキの頃から面識があるだけで俺が育てたわけじゃないが。
 果てしなく上からとはいえ、沖田が謝罪を寄越してきたのは意外だった。それで少し溜飲が下がった、となると流石に甘過ぎるだろうか。そもそもここに来た時点でそこまで怒っていたわけでもなかった、というのは言い訳か。
 
「詫びはいい。記憶がないとはいえ、お前の腕やってるからな。お前のやらかしたことと相殺ってことにしておいてやる」
 
 どちらかといえば沖田の過失の方が重い気がするがそのあたりはおおめに見てやろう。行動の諸々は悪意からくるものではなかったし、結果的にそれで内々に済ませることもできた。元はといえば俺が下手を打ったことで起こった事だ。その負い目があるから強く出られない、というのもある。とにかく、この話はこれで終わりにしてやってもいい。が、
「一応言っとくが、しばらくお前とそういうことはしねえからな」
「は? そういうことってなんです?」
「……わかるだろ。その、あれだ。お前がこの前したやつ……」
「ああ、セックス。……毎度思うんですけどアンタなんでそうやって直接的な言い方避けるんですか」
 
 うるせえ。実際にヤるのと言葉にするのはまた違う話だろうが。なんかこう、言い辛いだろうが!
 
「まあ、それは構いませんけど理由はなんなんです? 仕事、そこまで溜まってねえでしょ」
 
 そうだ。意外なことに仕事はそれほど溜まってはいなかった。そもそも副長のチェックがなければ通せない仕事など根本的に存在しないのだ。近藤さんがやると不慣れ&不向きで無駄に手間がかかる、というものならあるが。どうにも近藤さんが俺が不在の間、できるだけ仕事は片付けてくれていたらしい。普段からそうしてくれ、と思わなくはない。
 仕事の蓄積は少しの間努力すればなんとかなる範疇だ。それを理由に沖田と過ごす時間を削る、というのは理由としては少々弱い。実のところ、別に理由があるのだ。だが素直に打ち明けるのは気が進まない。
 
「構わなねえならなんだっていいだろうが。とにかくしばらくの間はしねえ。以上!」
 
 言いたいことだけを一方的に伝えてさっさと出て行ってしまおうとする。だが沖田からすれば到底納得のいくものではなかったのだろう。伸びてきた手が折れの腕を掴んで引き止めてくる。その瞬間のぞわりと鳥肌が立った。
 
「っ、さわんな!」
 
 反射的に振り払った。加減なんて全くできていなかったし、必死さは隠せていなかっただろう。それで異変に気づかれた。
 
「……笑いたきゃ笑え。でもお前のせいだからな」
 
 口先では寛容に許してみせたくせに、身体の方が思うようにいかない。先日の強姦沙汰は自覚以上に深く傷となって残ってしまっているらしい。認めるのは癪だが、実際にそうなっているのだから認めなくては始まらない。認めた上で、外傷と同じようにそのうち治るだろうと放置を決め込むことにした。その間の接触を禁止したのは繕いきれる気がしなかったからだ。実際、腕を掴まれただけで気取られた。
 沖田が何を考えているのかはわからない。ただ笑い出す気配はなく、表情から何を考えているか読み取ることはできなかった。しばらく絶句して、のろのろと口を開く。
 
「……アンタの言う通り、しばらくは控えます。あんま近寄らない方がいいです? それともちょっとずつ慣らしていきます?」
 
 状況は的確に把握していた。しかもそれだけではなく、今後についての提案までついてきている。普段の沖田からは考えられない歩み寄りと優しさだ。こいつは本当に沖田総悟なのかと疑わしく思えてすらくる。
 
「……お前、俺に優しくとかできたんだな?」
 
 思わず本音がそのまま口をついて出た。普段ならば「失礼な。俺はいつだって優しいでしょうが」くらいのぬけぬけとした言葉が返ってきそうなものだが、今回はそうはならなかった。返ってきたのは底抜けに重い溜息だ。待て、なんで俺がそんな深刻そうな溜息を吐かれなきゃいけない。
 
「おい」
「なんでもねェです。これに関しちゃ責任取るんで何か要求があったら遠慮なく言ってくだせェ」
 
 続けざまに沖田らしくない発言だ。おかげで収まりかけていた鳥肌が再び立つ。どうやら口先だけで油断させようという魂胆ではないようで、その後沖田が俺の許可なく触れてくることはなかった。

愚者の檻

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