じめじめとした梅雨が明けてしまえば、今後は茹だるような暑さがやってくる。重苦しい上着を生真面目に身に着ける気には屋内であってもどうにもなれず、自室であるのをいいことに上着はハンガーにかけてよそに置かれている。
 冷房はきかせているが28度設定となっているため心地よい涼しさには程遠い。快適に過ごすためにもう少し設定温度を下げてしまいたいところではあるが、諸経費をできるだけ抑えるように上から強く言われているのだ。器物損壊を始めとして何かと金を食っている自覚があるだけに強く出られないのがもどかしい。
 上着を脱ぐだけでは足らず、シャツの袖を捲りあげてなんとか少しでも快適に過ごそうと工夫を凝らす。それでも快適には程遠い。氷でも持ち込んでくれば多少はマシだろうか。だがそこまでするのも面倒だ。28度とはいえ、冷房がきいている分外よりは随分涼しいので我慢できないほどではない。だがやはり苛立ちは募る。こんな調子では仕事の効率も良くない。いつも以上のペースで煙草をふかすことでどうにか苛立ちを誤魔化していれば、足音がこちらに近づいてくることに気づいた。
 真っ直ぐにこちらを目指している。そう気づいたのとそれなりに勢いで障子が開け放たれたのはほぼ同時だった。それが誰の仕業であるか、なんとなく見当はついていた。
 
「感謝してひれ伏せよ土方ァ」
「帰ってくるなり喧嘩売ってんじゃねえよ」
 
 沖田は巡回に出ていたはずだ。ちらりと時刻を確認すれば戻って来てもおかしくはない時間ではある。こうして真っ直ぐここへやって来たということは異常なかったのだろう。平和なようで何よりだ。
 無視していれば鬱陶しく、時には武力行使を含めて絡んでくるに違いないので渋々手を止めて振り返る。
 上着を身に着けていない。はなから着ていなかったのか、巡回中に暑くて堪らず脱いでしまったのか。多少暑くとも上着を着ていることが多いこいつにしては珍しい姿だった。それほど外が暑かったということだろう。そこまで観察したところで、その手に見慣れないものがあることに気づいた。ピンク色の、カップ、か?
 
「なんだそれ」
「巡回中にあまりに暑いんで、近藤さんと一緒に食べてきました。んで、これはお土産です」
 
 なんだと聞いているのにそれに対する返答はない。結局それはなんなんだ。全くわからずにいれば、沖田は近づいてくる。近くでかがみ込み、そうしたことでカップの中身を覗き込むことができた。
 アイスだ。真っ白いアイス。普通に考えてバニラだろか。この暑さの中、そのままの状態で持ち帰ってきたのだろう。その半分以上が溶けてしまっている。まさか土産とはこれか。
 
「仕事中にアイス食ってんじゃねえよ」
「仕事中と言えども水分補給はしなきゃ脱水起こすでしょうが」
「アイスを水分扱いしてんじゃねえ」
 
 何あたかも俺が間違ってて非常識なことを言ってるみたいな口ぶりをしてやがる。おかしいのはお前だ。
 
「そもそもアイス食うって言い出したの近藤さんなんで、文句言うならそっちでしょうよ。立場の弱い人間にしか強く出ないのはどうかと思いますよ」
 
 お前のどこが弱い人間だ。肩書が下なだけで、俺より弱いなんて微塵も思っちゃいないだろう。そう思いはするが、まず説教をするべき相手が違うことはわかった。やっぱり近藤さんとこいつを一緒にしておくのは間違いだったか。
 
「ドライアイスくらいもらってこいよ」
「テイクアウトやってなかったんですよ」
 
 じゃあそもそも持ち帰るという選択を諦めろよ。そう思いはするがもしかすると言い出したのは近藤さんかもしれない。そう思うと下手なことも言えない。文句を言ったところで持ち帰ってしまったものは仕方がない。今から冷凍庫に突っ込んで冷やし直したところでアイスがカップに張り付いた、食べにくい歪なアイスが出来上がることだろう。そこまでして固形のアイスにこだわるのかと言えば、そんなことはない。
 ずい、と差し出されたそれをそのまま受け取る。店で一緒にもらったのだろう。カップにプラスチックのスプーンがちょこんと差し込まれている。ふかしていた煙草を灰皿に押し付けて、カップを手に取る。こいつの手から渡されたのなら何か妙なものが仕込まれていてもおかしくはないが、先ほどまで近藤さんといたのならその可能性は低い。ないとは言い切れないが、疑い始めるときりがない。まあ大丈夫だろうと結論付けてどろどろに溶けたアイスをスプーンで掬い上げた。
 冷たくて甘い。バニラ独特の味が広がる。そういえば疑問に思いもしなかったが何故バニラなのだろう。バニラが好きだと言った覚えはない。まあ、変に挑戦して期間限定のうまいかわからないものを買って来られるよりはいいが。バニラアイスならハズレはない。
 カップの端に入り込もうとするアイスをぐるりと掬い、口へ運ぶ。甘いものはあまり好んではいないが、たまに少し口にするくらいなら悪くはない。そんなことを思いながら何度かアイスを口にしていれば、沖田に動き出す様子がないことに気付いた。
 
「……いつまでここにいるつもりだ」
 
 近くに座り込んだきり、出ていく様子がない。それだけではなく、じっと観察されている。落ち着かない。何か用があるというわけでもないだろう。
 
「俺の部屋、冷房いれたばっかりでまた涼しくねェんです。だから部屋が冷えるまでここにいようかと」
「ふざけんな。出てけ」
 
 そうは言うものの、この程度でこいつが出ていくとは全く思っていない。その言葉を信じるならそのうち出ていくだろう。この場合、構うとろくなことにならない。存在ごと無視してしまうのが一番だ。それはわかっているのだが、視線を感じ続けているのはどうにも居心地が悪い。アイスを食べきってしまえばこの視線は逸れるんだろうか。そんなことを考えながらまた一口、アイスを食べる。それほど大きなアイスではないのでもう半分は腹の中に入ってしまっただろう。
 咥えていたスプーンをまたカップの中へ。アイスを掬い取ろうとしたところで、伸びてきた手に制された。
 
「あ?」
 
 じっと観察していたと思ったら今度は邪魔か。何がしたいんだ。まさかこいつも食べたいとは言い出すんじゃないだろうな。スプーンを共有するなんて真似はできれば避けたいところだ。だが読みは外れた。視線がかち合ったかと思えばそれが近づいてーー口を吸われた。
 
「ん!?」
 
 口の中に舌を差し込み、ぐるりと一周してからすぐに身体ごと引いていく。誰も見ていないとはいえ仕事中だぞ、とか。いきなりなんの真似だ、とか。色々と言いたいことはある。だがそれよりも先に奴は突飛な行動理由を明かした。
 
「バニラも食べたかったんでさァ」
「……じゃあ食ってくればよかっただろう」
 
 いくらバニラアイスが食べたかったからと言って口の中に入れたアイスを奪取することはないだろう。
 
「ストロベリーチーズケーキと抹茶とチョコチップにバニラまで追加すんのは流石に腹壊すでしょ」
「三段頼んでんじゃねえよ」
 
 理屈はわからなくはないが、そこまでこいつはバニラやアイスそのものに執着していただろうか。そう考えるといまいち納得できないようにも思う。ではどういう意図なのかと考えるとさっぱりわからないわけだが。
 
「……そろそろ涼しくなったと思うんで戻りやす」
 
 これまで全く動かなかったくせに、今度は嘘のように音もなく素早く立ち上がった。それから顔を合わせることもなくさっさと出ていってしまう。
 残ったのはほとんど溶けてしまったアイスが半分ほど。甘ったるいにおいが上ってくる。それをスプーンで掬い上げて食べきるのはなかなかに大変なように思えてカップを傾ける。それから一息に液体になったバニラアイスを流し込んだ。
 
「……甘え」
 
 冷たさがもうほとんど残っていないそれはひたすらに甘さを感じさせるばかりで、しばらくアイスはいいなとぼんやりそんなことを考えた。

バニラ

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