※R18






 酒は好きだ。だが飲み屋街に立ち寄ることはあまりない。酒を好んでいるのは間違いない。しかしながらわざわざ出掛けて、自分の財布から金を出してまで飲みたいわけでもない。

 それに職業柄、あまり外で羽目を外すわけにもいかない。正義を謳っての行いではあるが、それでも様々な場所から恨みを買う生き方をしているのは事実だ。いつどこで、誰がこの首を狙っているかわからない。万全の状態でならどうとでも対処はできるが、単独で酔いが回っている状態でそれは難しいだろう。だから、そんなことも考えて外ではあまり飲まないようにはしていたのだ。だがそんなことを真面目に考えているのが馬鹿らしくなってくる。こんな瞬間は特に。

「ああん? んだとコラ、もう一回言ってみろやこの腐れ天パ」
「腐れとはなんだコラァ。そのV字前髪毟り取ってやろうか、ああん?」

 呼び出されるままに顔を覗かせれば、そこでは見慣れた二人が見慣れた応酬を繰り広げていた。聞こえてくる内容は小学生レベルだ。両者共に俺から見れば十近く年上であるはずなのだが、どうしてこうも言い争うと児童化するのか。
 あまりに大きな声で張り合っているので、まわりからは非難の目を向けられている。だがどうにも当人達は気付いていないらしい。元々、熱くなると回りが見えなくなるタイプの人達ではあるのだが、それだけでもないだろう。二人共頬は紅潮し、ろれつが回らなくなっている。掴みかかろうと立ち上がって相手へと手を伸ばすが、そこで必ずバランスを崩す。旦那が胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。だが相手にそれが届くことはなく、べしゃりとその場に潰れた。つまり酔っ払っているのだ。まあ、酔っていなかったとしてもこの組み合わせではまわりなどすぐ目に入らなくなっていたのだろうが。苦情を言うまわりに逆ギレする様がありありと浮かぶ。そういう意味では酔ってまともに機能していない分、まだマシなのかもしれない。
 どちらにせよしたたかに酔い、興奮しきった人間にまわりへの配慮など期待するだけ無駄だ。というかそもそもこの人達にそんなことは最初から期待していない。それができる大人達なら俺が呼び出されることもなかっただろう。

「土方さん、帰りやすぜ」

 我ながら随分とやる気のない声が出た。それに被せるように欠伸が零れ落ちる。これから寝ようかという時間に呼び出されたので眠気が纏わりついている。

「旦那もそろそろお開きにしましょうや」

 ふあふあと欠伸混じりにそう諌める。俺を呼び出したのはここの店主だ。土方さんが酔い潰れて手に負えない時には山崎か俺に連絡がくるようになっている。山崎は隠密任務で不在なので俺に連絡が来たわけだ。こうして呼び出しを受けた時点でかなりの迷惑にはなっているのだろう。このままでは出入り禁止もあり得る。それで困るのはアンタ等でしょう、などと今の二人に言っても仕方ないのだろう。さほど強くもないくせにどうして張り合うのか。
 売り言葉に買い言葉でとんとん拍子にヒートアップしていったのだろうとは安易に予想できる。この人達は互いを相手にするといつにも増して大人気がなくなる。だからまあ、俺が何を言ったところで無駄なのだろう。酒が入っているなら尚更だ。酔っぱらいは人の話を聞かない。
 旦那の方も誰かしらは呼ばれているだろう。チャイナ娘か、姉御のところの眼鏡か。未成年に迎えに来られるというのはいかがなものか。己のことを棚上げしてそんなことを思い、今にも殴り合わんとする二人を仲裁するべく渋々歩み寄って行った。



  ◇ ◇

 万事屋の旦那と土方さんは非常に気が合う一方で、水と油のようなものでもある。どちらも負けず嫌いで好戦的。そんな二人が出会って何も起こらないことの方が珍しい。それなら会わなければいい。もっともだ。だがそれも難しい。
 先述の通り、二人は気が合う。示し合わせたわけでもないのに、ばったりと出くわすことが多い。こればかりはどうしようもない。だいたい、同じ街に住んでいて全く顔を合わせないというのも難しい。そんなわけで二人は度々顔を合わせ、その度に大人気ない応酬を繰り広げる。
 素面ならばまだマシだが、今回のように酒まで入っていると目も当てられない。旦那がぶらぶらと飲み歩いているのは今に始まったことではない。だから衝突を避けようとするこちらが手を打つしかないわけだが、土方さんにそのつもりはないらしい。曰く、なんでアイツのために俺が行動を制限しなきゃならねえんだ、と。
 最近は何があったのか、旦那に負けず劣らず飲み歩いているので遭遇率もおのずと上がる。張り合っていつも以上に酒を煽り、酔い潰れる。おまけに酔うと記憶が飛ぶタイプなので学習することもなくまた出掛け、旦那と張り合うのだ。
 正直なところ放っておきたいのだが、この人の肩書きを考えるとそうもいかない。路肩で酔って寝こけているところを攘夷浪士に斬られました、なんて笑い話にもならない。そんなくだらない理由で死んでもらっては困る。だからこれはこの人のためではなく、俺のための行動だ。

「ほら、布団敷いてやったんでさっさと寝なせェよ」

 部屋の隅で土方さんが舟を漕いでいる。さっきまで青い顔でふらふらしていたのだが、一度吐いたら楽になったらしい。居酒屋からここまで連れて帰るだけで随分と疲れたが、まあいい。もうここまで来てしまえば布団に突っ込むだけだ。

「ほら、土方さん」

 声をかけても土方さんは動こうとしない。そのままそこで眠ってしまおうとしているのだろう。だがわざわざ用意したのだから使ってもらわなければ困る。布団のへ入れと何度か促すが土方さんからは曖昧な相槌が返ってくるばかりだ。既に半分眠っているのだろう。
 仕方なく、手を取って引く。力の入っていない身体はずしりと重たいが、たかだか成人男性一人分の体重だ。目の前にある布団へ放り込むくらいのことはできる。手を引き、投げるように土方さんを布団の中へと導いた。
 長らく使われている布団はその弾力を随分と弱めてしまっている。それでも倒れ込んできたものを包み込むには充分だ。手を放す。ばふ、と音を立てて土方さんが沈む。そこから微動でにしない。……寝ているんじゃないだろうか。面倒臭さが一層強まるが、ここで投げ出すのはあまりに中途半端だった。もう、ここまで来てしまえばついでだ。眠気も飛んでしまったことだし、最後まで面倒を見てやろう。
 身体の下から掛け布団だけを引き摺り出し、土方さんへ被せてやる。我ながらなんと甲斐甲斐しいのだろう。いくら世話を焼いたところでこの人は全く知らないというところが最高に無為だが、そうでなければここまではしていない。したたかに酔った土方さんは酔っている最中の記憶がない。だから何をしても構わない。何かを強いるわけではなく、普段ないくらいに優しく接するあたりがなんとも腑抜けていると自分でも思う。嘔吐物の処理をした後でそんな気にはなれない、というのもある。
 掛け布団の下に土方さんが埋まっている。とりあえず目的は達成したので放っておいてもいいだろう。そう思いはするものの、気持ちに反して身体はすぐに出て行こうとはしない。寝かしつけるように、土方さんの身体を布団越しにぱたぱたと叩く。もう土方さんはほとんど夢の中にいて、それらしい反応はない。普段なら眉間に皺を寄せてなんの真似だと問いかけてくるだろうか。
 そこまで考えて、馬鹿らしくなる。何を考えているのか。土方さんの反応が見込めるなら、そもそもこんなことをするはずがない。意識がはっきりしているならきっとここまではできなかった。この人に優しく接するなど、俺の柄ではない。今更どの面でそんなことをすればいいのかがわからない。ぐうっ、と身体を屈めて顔を近付ける。
 土方さんは険しい表情を浮かべながらも眠り込んでいて目覚める気配はない。薄い唇が僅かに開いていて、そこへ視線が向かう。じっと見つめて、だがそれ以上近付くことはなかった。臆病風を吹かせたわけじゃない。今しがたゲロを吐いたばかりの口にどうこうするのは気が進まなかっただけだ。吐き終わった後、念入りにうがいはさせたが、それはそれだ。……自分に言い訳をしているのがひどく虚しくなってくる。

「……はあ、何やってんだか」

 別に、変に身構えることはない。劇的な変化はこの人だって求めてはいないだろう。わかっている。しかし関係性が変わったのにまるきりこれまで通りというのもどうかと思うのだ。そんなことは思いつつ、実際には寝込みを襲うことすらできない。己のチキンっぷりにほとほと嫌気が差す。それはまた方向性が違うんじゃないだろうか、なんて己の声は無視だ。じゃあどうすればいいんだと返すと黙り込んでしまうことを俺は知っている。
 土方さんは呑気に眠っている。無性にむかついて、額を指先でぴしりと打った。

「っゔ」

 呻き声と共に眉間の皺が一層深くなる。それで溜飲を下げ、それからのろのろとこの場から退くために動き出した。


  ◇ ◇

 くあっ、と大きく口を開くとそこから欠伸が飛び出す。その残滓を噛み砕きながらのろのろと廊下を歩いた。
 昨日は介抱に呼び出されたせいでろくに眠れなかった。元々眠りは浅い方なのでさほど変わりがないと言えばまあ、変わりはないのだが。それでも自分以上の背丈をした男を引きずって帰って来た分、疲れは蓄積されているに違いない。
 そんなことを考えていると目の前へ見慣れた人影が映り込んだ。心なしか歩調はいつもより遅く、持ち上げられた左手はこめかみへと押し当てられていた。その様子で状況を察する。だがまあ察したからと言って配慮するわけではない。むしろ逆だ。

「土方さん、おはようございます!」

 声を張り上げ、一気に距離を詰める。肩を叩くと同時に背がぐにゃりと曲がった。前へ屈み込んだらしい。

「~ ……ッ、!」

 音もなく悶絶している姿を楽しく眺めていると、やがて背筋がぴんと伸びる。思ったよりも持ち直しが早い。つまらない、などと考えているとそれを見透かしたようにぎろりと睨まれた。わあ、怖い。

「あら、もしかして二日酔いですか?」

 まあ、強くもないくせにあれだけ飲んで酔えば二日酔いにもなるだろう。そこまでわかっていても白々しくそう問う。
 白々しく振る舞うのには理由がある。土方さんには昨晩の記憶がない。残っていたとしてもせいぜい旦那と張り合い始めたあたりまでだろう。だから俺が土方さんをあそこまで運び込んだことなど知らないのだ。想像すらしていないだろう。なんと恩知らずな奴だろう。だが、それでいい。店主の口は封じてあるし、迎えに行った人間に関しては数人に口裏を合わせるように脅し……頼んであるので身代わりは立てられる。旦那はまあ……大丈夫だろう。あの人もなんだかんだと記憶が飛んでいるだろうし。
 と、いうわけで俺が土方さんの二日酔いを知っていると辻褄が合わなくなる。痛む頭ではそんな矛盾に思い至らないかもしれないが、まあ念のためだ。用心に越したことはないだろう。俺からすると、知られてしまうのは都合が悪い。

「…………うるせえよ、放っとけ」

 自分の声すらも響くのか眉間にぎゅうと深く皺が寄る。いつも険しい顔をしているのに今はそれ以上に顰め面をしている。おかげで顔面の凶悪さが三割増しだ。ガキが顔合わせたら泣くんじゃないだろうか。

「もう寝ようって時間に呼び出し食らって、原田がかわいそうでしょうが。飲むのもほどほどにしなせェよ」

 いつも利用する山崎は密偵任務に行っているので使えない。だから今回は原田を身代わりに立てる。原田本人に話が行ったとしても上手く話を合わせるだろう。初めてのことでもない。

「……おう」

 覚えていないなりに申し訳無さだけはあるらしく、口元が歪む。だが飲むのを控えるという発想には至らないようだった。

「だいたい、なんだってそんな飲み歩くんで?」

 土方さんは酒を好んではいるが、大勢の中で飲むのはあまり好んでいない。飲むなら自室でこっそりと、もしくは盛り上がっている宴の端で、これまた静かに。とにかく出掛けてまで飲むなど随分らしくない。おまけに頻度も多い。
 酒にのめり込む人間はたいてい何かに悩み、行き詰まっているものだ。だから何か隠していることがあるのではないかと思う。相談しろとは言わない。土方さんからすれば俺ほど相談相手に向かない相手はいないだろう。だから他に頼ればいい。近藤さんとか、近藤さんとか、近藤さんとか……。
 普段なら土方さんの弱みを握るチャンス! と暗躍するのが俺の常ではあるのだが、あいにくそれはできなかった。それがはたしてしていいものなのか判断がつかない。土方さんとの付き合いは長い。だからどこまでなら許されるのかはわかっているつもりだ。つもりだった。だがそれは以前までの話だ。
 今から遡ること半年ほど前、俺と土方さんの問題は密やかに変化した。そうしてわからなくなった。新たな関係の中でどれほど距離を詰めていいのだろう。どれほど距離を開かなければならないのだろう。そう考えるとこれまで息をつくようにしていたことにさえ躊躇が生まれる。その結果、明らかに何かを抱えているとわかっていても踏み込めない。以前までなら躊躇なく探りを入れていただろうにも関わらず、だ。

「……なんでもねえ」

 何度探りを入れてみても土方さんの返答は決まっていた。なんでもないはずはないだろうに、白を切る。撥ね付ける。拒絶する。そうなると俺は途端に怯んでしまって何も問えなくなる。と、そこまで思考が落ち込んだところで今度は苛立ってくる。何故俺が土方の野郎の顔色を伺わなければならないのか。苛立ちはおさまることはなく、そのまま本人へと向かう。
 その耳元でわあっと声を上げればダメージとしては充分だった。崩折れこそしなかったが大きくバランスを崩して頭を抱える。頭に響く音を殺すように歯を食いしばる。二日酔いの頭に騒音はさぞきついことだろう。

「っ、てめ……この……」

 文句を口にしているがそれすらも頭に響くようで更に表情が歪んだ。

「すいやせん」

 形ばかりの謝罪を口にすると、土方さんの表情はますますひどくなった。



  ◇ ◇

 土方さんと付き合い始めるまでには様々なことがあった。それはもうどこから語り始めようと考え込んでしまうほどに途方もなく長く。その長さはというと、きっかけに至るだけでも遠い目になってしまうほどに。我ながら長大すぎて心底うんざりとしてしまうので割愛しよう。おおいに揉めて揉めて、それでようやく落ち着いたのだ。揉めはしたが、片がついたのかと言えば否だ。話し合い自体はつつがなく終わった。……いや、そう思っているのは俺だけかもしれないが。まあいい。
 紆余曲折あって付き合うことになった。それまではいい。だが問題は他にもいくつもあった。今になってもそれが解消しきったとは言い難い。放置はできない。解決の為には話し合う必要があったしそれは俺も土方さんもわかっていた。だからいずれこうなることはわかっていた。揉めることがわかっているので気は進まない。それでも話し合いを、と場を設けたのは土方さんの方だった。こういうところで差を感じさせられる。埋めようもない、九年という差。

「そんでホテル、と」
「……仕方ねえだろ」

 テレビの乗っている台へと背を預け、土方さんはタバコをふかしている。そう、仕方がない。別にやましい気持ちがあったわけでもないだろう。ホテルはホテルでもビジネスホテルだ。
 俺達は屯所に住み込みで働いている。プライベートなどあってないようなものだ。それぞれ自室があるだけマシではあるのだが、自室と外を隔てているのは薄い障子だけだ。聞かれたくない話をするのには向かない。だからまあ仕方ないことだ。
 ベッドで寛ぐ俺とは対照的に、土方さんは頑なにベッドに寄り付こうとしない。そう露骨に警戒されると逆効果だと思うわけだが。
 俺まで引きずられて緊張してしまいそうだ。そうならないよう気を引き締め、いつもと変わらない風を装う。いや、この発想がそもそも意識している証拠か。考えるほどドツボにはまってしまいそうで、考えることを放棄する。それからおもむろにベッドにダイブした。
 備え付けられている敷布団はひどく薄く、その下の土台へ身体を打ち付けてしまう。その音は存外大きく響いたようで、案じるような目を向けられる。全く痛くないと言えば嘘だが、悶絶するほどではない。何よりそんな視線をむけられることが癪で、何事もなかったかのようにベッドの上を転がった。
 こうして場を設けたのは屯所では話し辛い、プライベートかつデリケートな話をするためだ。しかしだからといってがちがちに身構えて臨むことを要求されているわけではないだろう。いつも通りに振る舞えばいい。うっかり緊張などすればたちどころに気取られてしまう。そういった僅かな変化を察知できる程度には付き合いは長い。だから、土方さんが緊張していることが俺にはよくわかる。そのくせ表面上はいつも通りを取り繕おうとしているのだから滑稽だった。そんなに緊張して一体何を話し出そうと言うのか。……などととぼけたふりはしてみるが見当はつく。それでもこちらから切り出してやるつもりはなかった。

「……そろそろはっきりさせといた方がいいだろ」

 ぎゅうと眉間に深く皺が寄る。ひどく不機嫌そうに見えるが、実際に機嫌が悪いわけではない。ただ躊躇するあまり表情が険しくなっているだけだ。躊躇い、それゆえに次ぐ言葉はすぐには音にならない。不自然に空いた間を誤魔化すように深く息を吸い、それから吐き出した。肺の中に溜め込まれていた紫煙が一気に吐き出され、視界がけぶる。沈黙をそうして誤魔化せるので喫煙者はずるいと思う。そんな理由で肺を黒くする気は毛頭ないが。

「お前、どっちのつもりでいる」

 迷った末に吐かれた言葉は明言を避けたものだった。この人にはこういうところがある。普段は傍若無人が服を着て歩いているようなものなのに、妙なところで言葉を濁す。それでも意味はわかる。わかるのだが、わかるからといって察してやるつもりはない。人に説明する時は簡潔に、わかりやすくが基本だろう。そうやってわかってもらえるからと甘えるのはこの人にとって良くないことだと思うのだ。と、それらしい理由を並べ立ててはみるが結局のところはこの人が困り果てる姿を見たいだけだ。

「どっちとは?」

 何もわかりません。そんな調子でとぼけて返せば土方さんは息を詰める。別に、口にするのを躊躇するような内容ではないだろう。だが土方さんにとってはそうではないらしい。何がそこまでこの人を躊躇わせるのか俺にはよくわからない。言葉に詰まり、躊躇する姿をのんびりと眺める。取り繕っていた仮面が剥げ落ちていく。それを眺めていられるのは最高に気分がいい。

「それは、だな……」
「ええ」

 助け舟を出してやる気は更々ない。大人しく土方さんの明言を待っていると、数分してからようやく口を開いた。決心するまでに時間がかかり過ぎているが、まあいい。

「お前だっていつまでもプラトニック貫くつもりはねえんだろ。それなら役割は先に決めておいたほうがいい」
「……って言うと?」

 ここまでくれば鈍い奴でも察することができるだろう。だがそれでも俺はすっとぼけ続けた。そこで土方さんはようやく俺がわざととぼけていることに気付く。こめかみにびきりと青筋が刻み込まれるが、それを声音に乗せてくることはなかった。乗せかけ、だが黙り込む。そうして平静を装ってから口を開いた。ここまで来てしまえば怒ったところで今更だと、そんなことを考えたのかもしれない。怒ったところで俺のペースに乗るだけだし、土方さんに益はない。反論は諦め、それからようやく本題を口へ乗せた。

「抱くのか抱かれるのか、どっちのつもりでいるのかって話だ」

 ここでようやく本題だ。ちらりと時計を見やればここにやってきてからゆうに十分は過ぎている。別に雑談で盛り上がっていたわけでもなくすぐに切り出してきたと言うのに、流石にこれは時間がかかり過ぎているだろう。たったそれだけのことを言うのに一体どれほどの勇気を要したのだろう。この人の恥じらいは俺には全く理解できない。

「はあ、そりゃあ抱かれるつもりはねェですが」

 元から男色の気があったわけではない。抱く方に思考が傾くのは自然なことだろう。だがどうにもそれは土方さんも同じであるらしい。表情が歪む。

「……だろうな。ちなみに俺もそっちに回る気はねえ」

 二人して抱く方に回りたいと、意見が真っ向から対立した。その話が上がってきた時点で予想はしていたことだ。土方さんもそれは織り込み済みだったのだろう。最初から互いの意見が噛み合っているのなら話し合いなど設ける必要はない。そう時間がかかることでもないので屯所で人目を盗んで話せばいい。それができず、長時間の話し合いが必要になると踏んだからこそ土方さんはこうしてこの部屋を用意したのだ。その判断は正しかったと言わざるを得ない。

「はあ……。アンタ、俺で勃たせてあまつさえ尻に突っ込むなんてできるんで?」
「勃っ…………できないことは言わねえだろ。お前こそどうなんだ」
「やってやれねえことはないって感じですかね」

 抱きたくて仕方がない、いうわけではない。だが抱くか抱かれるか選べと言われるならば間違いなく抱く方を選ぶ。少なくとも抱かれる方は想像すらも全く浮かばなかったのが正直なところだ。
 俺は、この人を屈服させたい。真の意味で、心からの屈服はできないだろう。そんなことができる相手ならとっくに俺が引きずり下ろしている。だから、そこまではできないことはよく知っている。だがそれでも欲求はあった。擬似行為でもなんでもいい。屈服させて、己の支配下に置いて、征服欲を満たしてみたいと思う。それを恋情と呼んでいいものかは甚だ疑問ではあるが、今のところそれはこの人以外に向いたことがないのでおそらくは恋情なのだろう。抱くことで必ずしも征服感を得られるわけではないし、抱かれる側でそれを実現することも不可能ではないのだと思う。そう頭では理解しているが、それでも欲を満たす最短ルートは抱く方だ。
 俺のなんとも曖昧な発言はどうにもお気に召さなかったらしい。何か言いたげに口元を歪めているが、結局それを口にすることはなかった。

「俺の方が上手くやれる」

 代わりにぽつりと呟かれたのは土方さんの主張だった。

「色事での場数は間違いなく俺の方が踏んでる。男とは流石に経験がねえが、それでもいくらかは応用が利くだろ。お互いに初めてなら安全な方を選べばいい。別にそのまま固定しようってわけじゃねえよ。慣れてやり方がわかってきたら交代すればいいだろ。ただ最初だけは俺にやらせろ」

 土方さんの主張は感情ではなく、現実に沿って展開されたものだった。主張自体はわからなくもない。俺は仮に第三者であったとしたらきっとその意見に賛同しただろう。確かに、より安全で確実に近い方を選択するならば土方さんが俺を抱くべきだ。それはわかる。だがそれはあくまで感情を抜きにした話だ。素直な感想を述べさせてもらおう。ふざけんな。
 理屈はわかる。だがそれは我慢ならなかった。百歩譲って土方さんが俺を抱くのはいいとしよう。だが、やはり駄目だ。性差があるのでこれまでの体験をそのまま反映するわけにはいかないだろう。だが一切思い起こさないというのもこれまた難しいはずだ。女とは勝手が違ってやりにくいだとか、女より頑丈で扱いに気を遣わなくていいだとか。事ある毎に女を抱いた時のことを思い返しながら俺を抱くのだ。そんなことが耐えられるだろうか。答えは否だ。断じて否。俺を通して他の奴のことを思い浮かべるなど、耐えられるはずもない。冗談じゃない。比較されるなど真っ平御免だ。想像するだけで虫唾が走る。……ああ、いや、違う。これでは誤解を招いてしまう。それは、それではまるで、自分だけを見てもらわなければならないと駄々を捏ねているようで。違う。断じてそういうわけじゃない。そういうことではない。だが、それならどう言えばいいのかわからない。
 ふざけるなと言ってしまいたい。だがそれなら最初に、主張を聞く前に憤るべきだった。抱かれるなど冗談ではないと。ここで憤れば理由を口にしないわけにはいかない。こんな癇癪を起こした、独占欲の塊のような本音をぶち撒けてしまうのには強い躊躇いがあった。そんなことを口にしてどう思われるのか。いや、そうじゃない。そんなことはどうでもいい。ただ、知られたくないだけだ。知られたくはないが、だがそれでも土方さんに異議を唱えなければならない。相応の主張をぶつけて、土方さんの主張を叩き折らなければ、そうしなければどこの誰とも知れない女の影を追う土方さんに抱かれることになる。冗談じゃない。うまく土方さんを言い包められる、それらしい反論が必要だ。

「経験値が違うって、ケツ使ってヤったことがあるわけじゃねェんでしょ。それならいくら女抱いてたってさほど差はないと思いますがね」

 男同士で情交に及ぶ際は尻を使うと聞いた。そりゃあ、そこくらいしか突っ込む場所がないのだからそうなるだろう。当然、女のように勝手に濡れるわけではないし、膣とは随分と勝手が違うはずだ。女相手にアナルプレイでもしていれば話は違ってくるが、この人がそんな挑戦をするようにも思えない。面白みのない男なのだ。道から逸れないよう、常識の範囲内で事を押し進めようとする。この人はそういう男だった。
だからそんなマニアックなことはしたことがないのだろうと踏んでそう返した。やはり図星だったようで、土方さんは言葉に詰まる。やはりそちらでヤったことはないのか。それなら条件は同じだ。女相手の経験値なんて何の意味もない。女を落としてきた常套手段が俺にも通じるとはこの人だって思ってないだろう。同じように扱われてやるつもりはない。

「土方さん」

 ベッドに投げ出していた手をおもむろに上げる。挙手して、ゆらゆらと揺らした。発言許可を求める必要は別にない。それでもなんとなく挙手をして発言許可を求めた。許可されなかったところで勝手に喋りだすつもりではいたが。

「……なんだ」

 訝しげに、だが俺の意図をきちんと読み取って土方さんはそれだけ返した。それを発言許可と解釈して俺は口を開く。手はゆらゆらと振ったまま、のろのろと視線は土方さんへ。声音そのままに土方さんは訝しむように俺を見ていた。煙草の先でちりちりと燃えて、灰の面積を増やしている。

「俺、童貞なんでさァ」
「………………は?」

 たっぷりと十秒は間を置いた。黙り込んでいた土方さんはようやくそれだけを口にした。人が勇気を出して告白したというのにそれだけか。そう拍子抜けしていたのだが、どうやら理解が追いつかなかっただけらしい。反応は遅れて返ってきた。

「はっ 」

 動揺してびくりと身体が跳ねる。その弾みで先端に溜まった灰が落ちる。ぽろぽろと落ちた灰が絨毯へ降り積もっていく。だが土方さんはそちらへ目を向けることもない。灰が落ちたことに気付いていないんだろうか。火事にでもなったら洒落になれないので煙草はちゃんと管理してほしい。いつものことすら疎かになるほど緊張し、動揺していたのだとすれば悪い気もしないが。

「……はっ  お前、それ……本気で言ってんのか?」
「こんな冗談言って俺になんの得があるんで?」

 別に、驚くようなことでもないだろう。俺に昔から女の影がないことを土方さんはよく知っているはずだ。だからそんな意外に思うようなことでもないと思うのだが、土方さんはそうは思わなかったらしい。

「いや、お前顔だけはいいんだから一人や二人……あるだろ」
「なかったんですって」

 どう思われていようとなかったものはなかったのだ。嘘はついていない。だというのに土方さんは俺の言葉を信じきれないようで胡乱な目を向けてくる。そんな目を向けられても困る。童貞かどうかなど証明の手段がない。とりあえずこのまま話を進めさせてもらおう。

「アンタの言うとおり、抱かれる側に回ったとしてですよ。さっきも言った通り、俺は童貞なんでさァ。今のところ次に行く予定もないんで、順調に行けば俺はそのまま一生童貞ってことになりますね。それはあまりに俺が可哀想だと思いやせんか」

 卑怯でもいい。本当の理由を隠して、それらしい理由を作り上げる。本当の理由ではない。完全な嘘というわけでもないが、固執するほどでもない。だが盾にするには充分な理由だったようだ。土方さんが露骨に動揺する。付け入るチャンスだった。

「慣れたら……代わればいいだろ」
「慣れるって、それいつのことなんで? うっかり抱かれる方にはまって抱くことなんて考えられなくなるかもしれねェでしょ。そうなったら俺は一生童貞ですぜ」

 童貞と繰り返す度に土方さんが怯む。俺からすればそこまで気にすることではないのだが、土方さんには非常に重要な意味合いを持つようだ。それならばそこを利用させてもらおう。

「それにチンコのでかさで言うなら俺がアンタに突っ込んだ方が負担は少ないと思うんですがねィ」

 そこほど大きな差はないが、股間にぶら下がる分身は俺よりも土方さんの方が大きい。少しでも負担は少ない方がいいだろう。これは現実に即した主張だ。土方さんは呻く。

「……ぐう、でもお前、童貞ってことは正真正銘なんの経験もないってことだろ」
「大丈夫でさァ。そこはほら、優しくするんで。安心してくだせェ」
「安心できる要素がひとつもないんだけど! お前が優しくするとか、信憑性が欠片もないんだけど 」

 強めに噛みつかれてしまった。普段の行いのせいだろうか。そう思いつつも今更改める気はない。

「慣れたら代わるって言うんなら俺が先でもいいですよね?」
「うっ 」

 俺が童貞であること、負担が少ないこと。そのふたつが土方さんに迷いをもたらした。それまでは俺を言い包め、俺を抱くつもりでいたのだろう。だがそうはいかない。抱かれるつもりなど毛頭なかった。

「まあしかし、向き不向きもあるみたいですからね。一回やってみて、どうにも向かないってんなら役割交代ってことで、どうです?」

 あまり頑なでは土方さんも譲りにくいだろう。だから俺も譲歩した。その条件ならばやりようはある。向かないからと、痛がる演技でもすればいい。逃げ道は用意してやった。どうしても嫌だと言うのならそこを使えばいい。俺はその選択肢を使わせないように徹底的に叩くだけだ。
 土方さんの表情は渋い。眉間に刻まれている皺はいつもより遥かに深い。銜え続けていた煙草は随分と短くなっている。土方さんは手近に備え付けられている灰皿へそれを押し付けた。じゅうとフィルターが焼けて押し潰される。深く吐き出した溜息には紫煙が混じっている。

「…………わかった。それでいい」

 たっぷりと逡巡した後に、渋々という体で了承が返って来る。

「じゃあ、とりあえず俺がアンタを抱くってことで」

 話し合って先ほど決まったことをそのまま復唱する。たったそれだけのことなのに土方さんの表情は更に苦くなった。

  ◇ ◇

 さて、それがざっと三ヶ月前の話だ。それから何かあったかと言えば、何もない。正真正銘何もない。決めたのだから先に進むのだろうと見当をつけていたのに、その予想を完璧に裏切って何もなかった。
 状況を整理しよう。忙しかったのも確かにある。だが全く時間が取れなかったわけでもない。その気になれば部屋を用意して、道具もひとしきり揃えて目的を果たすことは不可能ではなかっただろう。だが土方さんはそうはしなかった。何をしていたかと言うと、飲み歩いていた。あの人がふらふらと出歩くようになったのはおそらくあの日が境だ。まるで俺との接触を避けるように、というのは少々自意識過剰だろうか。すべてを避けられているわけではない。非番の昼間、掠めるような接触程度ならばある。完全に俺を厭うて逃げ回っているわけではないだろう。それならばもっと徹底的に俺を避けるはずだ。それならばこの状況は一体どういうことだろう。日を置いてやはり納得できないと思っているのかもしれない。童貞という単語だけで押し切った自覚はある。しかしそれならば遅かれ早かれ改めて話し合いが持たれるはずだ。そう思って随分と待ってやった。だがそんな気配もない。
 あの人が何を考えているのかがわからなかった。だが問うたところで素直な返答が得られるとも思えない。こうして黙していたところで事態が好転することもないのだが、問えばおそらく悪化する。あちらから行動を起こしてこない以上、俺は何もしない方がいい。何も知らないふりをした方がいい。だがそれはそれで事態が膠着する。わかっている。だがわかっていてもやはりどうすることもできず、ただ時間ばかりが流れていった。



◇ ◇


 頭が痛い。
 体調は良好。それなら何故頭が痛いのか。理由は簡潔。心因的なものだ。なにせ俺の目の前には酔い潰れた土方さんがいる。

「はあ……」

 俺が敷いた布団の上で土方さんはぐうすかと眠りこけている。頬が赤らんでいるのは酒のせいだ。同じく酒のせいで身体が火照って暑いのだろう。元々肌蹴気味の着流しは更に開かれ、ほぼ半裸状態になっている。掛け布団を被せてはみるが、やはり暑いようですぐに跳ね除けてしまう。うんうんと唸りながら既に開いている着流しを更に開こうとする。放っておくと全裸になってしまうんじゃないだろうか。別に構いはしないのだが、なんとなくその手を掴む。

「ゔゔ……ん……」

 不満げな声が上がる。掴まれた手を解放しようと力を込めるが、眠っている上に酔っているのでその力はひどく弱い。俺の手を振りほどくことはできない。手はゆらゆらと揺れる。されるがままに一緒に手を振り回されつつ、その様子を眺める。

「……アンタ、なんだってそんな日がな飲み歩いてるんで?」

 眠っている相手に聞いても仕方がない。返答はない。だが意識がある時に聞いたって答えてもらえないのだから同じことだ。この人が何を考えているのかがわからない。
 体温が上がり、そのせいで素肌には汗が浮き出し始めている。粒になるほどではないが、しっとりと肌を濡らしていく。暑いらしく、眉間には深く皺が刻まれている。それが緩む気配はない。
 掴んだ手をそのまま上へとやり、布団へ押し付ける。押し付けられた手は逃げ出そうと藻掻くが、無駄だと察したのか抵抗をやめた。その手を更に強く押し付け、己の手によって縫い止める。これで土方さんは俺に組み敷かれていることになる。
 普通ならば焦るシチュエーションだ。だが土方さんは眠っているので焦りようもない。突き刺すほどの視線を送っても土方さんは起きる気配がない。それはそうだ。酒で眠り込んだこの人はそう簡単には起きない。よく知っている。なんなら耳元で叫んでみたって起きないかもしれない。試してみる気はないが。何が言いたいのかというとつまり、この時間に俺が何をしたところでこの人に感知されることはまずない。
 自由な方の手を伸ばす。髪と同じく真っ黒な着流しへ。もう少しだけ手を滑らせればその下へ潜り込むことができる。そうしたところで誰にも咎められはしない。外と部屋を隔てるのは薄っぺらな障子だけだ。だがこんな時間に土方さんの部屋を訪ねてくる物好きはいないだろう。だから誰の目にも止まることはない。騒がなければ誰にも知られることはない。わかっている。それでもその手が潜り込むことはなかった。
 着流しを掴み、中央に向かって引き寄せていく。前を閉じ合わされたことで熱が逃げなくなり、寝苦しくなる。余程苦しいのかうんうんと唸っているが、緩めてやる気はない。せいぜい苦しむといい。ここまで土方さんを運んできた俺の方が暑い。
 なんでもできる。気付かれはしない。こうして毎日酔い潰れることの意味をこの人がわかっていないとは思えない。迎えに来ているのが俺であることは知らないはずだが、それにしたって土方さんが日がな酔い潰れていることを俺が知っていることを、土方さんは知っているはずだ。だがそれでも改善の兆しがない。それはつまり、そういうことじゃないだろうか。ここで俺が手を出したとしても文句を言われる筋合いはないと思う。そう思う。思うのに、それでもやはり行動に移すことはない。
 だが何もしないというのも難しい。どうしたものかと少し考えて、それから身を屈めた。そうして薄く開いた唇へと噛み付く。

「っ、う」

 ぴくりと身体が跳ねる。だが土方さんが目覚めることはなかった。
 これはキスではない。連日夜中に迎えを要求されてムカついて、その仕返しだ。他意はない。本当に、それだけだ。
 縫い付けていた手から力を抜く。だが土方さんの手は既に力を失っていて、布団へ沈んだままだった。


  ◇ ◇

 この時間、食堂には人が溢れかえっている。
 屯所に備え付けられている食堂では朝昼夕の三度、食事が支給される。屯所へ住み込んでいる者に関しては食費も込みで給料から差し引かれているため、この場で支払いが発生することはない。使用しなければその分だけ損をするということもあって、屯所に住むほとんどの者が食事をここで済ませる。そのために組織の規模が大きくなるほど、それに比例して食堂も賑やかになっていった。時間帯によっては席が足りなくなり、肩が触れ合わんばかりの距離で隣り合いながら食事をする羽目になる。今日は見たところそれほどではないが、決して空いているわけではない。間隔を詰めなければ炙れてしまう者が出てくるだろう。だがそれでも俺の周りへ寄って来ようとする奴は一人としていなかった。
 どうにも避けられているらしいことに気付いて首を傾げる。はて、何か遠巻きにされるようなことをしただろうか。考えたところで心当たりはない。だが気付いたこともある。どうやら隊士達から遠巻きにされているのは俺だけではないようだ。

「……アンタ、何したんで?」

 机越し、俺に向き合うようにして土方さんが座っている。目の前に並べられているのはさんまの丸焼き、さつまいも入りの味噌汁、だし巻き卵にほうれん草のおひたし。役職に応じて提供される食事が違う、などということもないので俺の前にも同じものが並んでいる。普段ならば一人や二人、横へやって来そうなものだが今日はその様子が全くといってなかった。俺達の両隣はゆうに二人は座れるほどの幅が不自然にぽっかりと空いていた。
 一体なんのつもりだ。周りの隊士へ視線でそう訴えかけるが、あからさまに視線を逸らされてしまう。てめえら……。

「何もしてねえよ。お前が何かしたんだろ」

 土方さんの顔色は悪い。それはそうだろう。昨晩は記憶を飛ばすほどに飲んだのだ。酒に強いわけでもないこの人が酔いを翌日まで引きずってしまうのは至極当たり前のことだ。朝食に間に合うように起きて来れただけでも上々だとすら思う。
 おそらく俺達は二人まとめて避けられているのだろう。そこまではわかるが理由に心当たりがない。それは土方さんも同じようで、探るような目を俺に向けてくる。俺じゃねェですって。視線で答えるが疑いの眼差しは向けられたままだ。自業自得ではあるが、信用がない。
 ここ最近は、本当に何もしていない。自分でも驚くほどに大人しいものだ。なんというか、疲れている。ここ最近の土方さんの飲み歩きは目に余るものがある。こうも頻繁に呼びつけられてはおちおち眠ってもいられない。そう思うなら他の奴に押し付けてしまえばいい。だがそれはそれで面白くない。まだいける、もう少し。そうやって半ば意地になって土方さんを連れ帰る日々を送り、疲労が溜まり始めていた。そのせいで日中に何かを仕掛けるような元気はすっかり削がれてしまっていた。だから本当に、俺じゃない。俺であるはずがない。しかし土方さんに原因があるとも考えられなかった。最近のこの人はひたすら飲み歩いている。二日酔いのせいで若干顔面が凶悪になってはいるが、図太い隊士共が今更その程度で怯むとも考えにくい。
 そうなると皆目見当がつかなかった。一体なんだというのか。考えて、やはりわからない。誰か一人捕まえて吐かせればいいのだろうが、そこまでするのも面倒だった。俺がせずともそのうちに土方さんの方が焦れて吐かせるだろう。とりあえずは放置でいい。そう考えるのをやめて、目の前の男へ視線を向ける。
 土方さんは、二日酔いに苦しめられながらも黙々と食事をしている。箸の先端がさんまの皮を破って開く。醤油がその隙間から入り込み、真っ白な身に色をつけた。

「調子、悪そうですね」
「……ああ? んなことねえだろ」

 酒のせいで全体的に反応が鈍くなっている。この程度で後れを取るほど弱い人ではないが、それでもこの状態が続くのはどうかと思うのだ。そのまま口にすれば土方さんを案じているように聞こえることは間違いないので決して口にはしないが。だいたい、俺が何を言ったところでこの人が素直に聞き入れるとは思えない。
 摘み上げられた白身が運び上げられていく。箸の先が食まれ、白身はその薄い唇の向こうへと消えていった。その後に続いて白米が滑り込んでいく。この人は粗野な性格に合わず、食事の作法はきっちりとしている。珍しいものでもないので俺も遅れて自分の食事へと箸を伸ばした。
 食事中は俺も土方さんもさほど口を開かない。食事は静かにとるものだ。普段ならそれでいい。だが今回はいつもとは少しばかり様子が違う。俺達の動向は密かに窺われていた。俺達がどんな会話をするのか、奴等は気になって仕方がないらしい。視線が鬱陶しいが、食事をしているのは奴等も同じだ。流石に蹴散らすわけにもいかない。視線を感じる方へ目をやると露骨に逸らされ、別方向から痛いほどの視線を向けられる。逃げ場はなかった。それならさっさと食べ終えてこの場を離れるしかない。そう考えているのは土方さんも同じなのか、いつもより食べる速度が早い気がする。
 互いに食事中に騒ぐ方ではないが、向かい合っていて全く会話をしないというのもそれはそれで不自然だ。おそらくは仲違いでもしていると誤解されているのだろう。誤解を解くつもりもないが、誤解されたままというのも面白くない。しかしそんなことを考えているのは俺だけのようで、土方さんは至っていつも通りだ。酒のせいで顔色は少々良くないが、それくらいのものだ。この人は何も知らないからこんなに平然としているに違いない。そう、何も知らない。自分を毎回寝室まで運び込んでいるのが俺だと知ったならばこの人はどんな反応をするだろうか。それを確かめるために言ってしまいたい。だが打ち明けてしまえば疑問が投げかけられるだろう。どうしてこれまで文句も言わずにその役に甘んじていたのか、どうして他の者へ任せてしまわなかったのか。それに関して納得のいく理由を返せるとは思えなかった。ただ、他の誰かがその役を担うのは違うのではないかと思っただけで。動機が漠然とし過ぎているのは自分でもわかる。だが他に、それ以上にどう言えばいいのかがわからない。説明ができないがゆえに問うことができない。そのため土方さんは何も知らず、俺だけが悶々とする羽目になる。それはあまりに不公平ではないだろうか。言い出す気もないくせにそんなことを思う。その不満も口に出すことはできない。

「……おい」

 土方さんがじとりと俺を睨みつける。厳密には土方さんが見ているのは俺ではなく、俺の手元だ。俺の手には箸が握り込まれていて、その箸は己の膳を超え、向かいの膳にまで伸びている。俺の向かいにいるのは土方さんで、それならば向かいにある膳には当然土方さんの食事が並んでいる。ずうっと真っ直ぐに伸びた俺の箸は、土方さんのだし巻き卵をしっかりと摑んでいた。

「何してんだ」
「なかなか食べねえから、それならもらってやろうかと思いやして」
「ついさっき食べ始めたばっかりなんですけど 」
「細けえことはいいでしょ」
「全然細かくないんですけど 」

 つらつらと文句を並べ立てはするが、だからといってだし巻き卵の防衛に出る様子もない。強めに力を込めると箸がだし巻き卵へと食い込み、小さなくびれができる。しっかりと掴んだだし巻き卵を持ち上げ、そのまま躊躇なく己の口内へと放り込んだ。
 歯を突き立てると出汁が滲み出してくる。身をすり潰すと旨みが口内へと広がる。だし巻き卵は毎日出てくるわけではない。不定期に出てくるそれを楽しみにしている者は決して少なくはない。土方さんもその一人だ。わかっていて奪い取った。
 土方さんは何か言いたげに口を開閉させていたが、結局何も言わなかった。たかだかだし巻き卵ひとつで声を荒らげるのは大人気ないだとか、そんなことを考えて黙ったに違いなかった。

「……マヨネーズかけた方がうまいだろ」
「アンタの場合はマヨネーズがメインでしょうが」

 土方さんの膳に乗った食材が黄色に塗り潰されていく。ごっそりと食欲が奪い取られていく気がしてならない。だが不本意なことに慣れてしまっているのでそれほど影響はない。耐性のない隊士が顔色を悪くしている。食事中にこんなグロテスクなものに目をやる方が悪い。わかっていたことだろうに。
げっそりとしている隊士を横目で見やりつつ、変わりないペースで白米を口へと運び入れた。





  ◇ ◇

 一歩踏み出すと、身体が揺れ動く。それに合わせ、背負っているものの重心も揺らぐ。そのまま放置していると重心はどんどん後ろへ傾いでいき、最終的には俺から離れてひっくり返ってしまう。首へ手が回っているのだが、添えているだけといった様子なので身体をその場に留めておくことはできない。ぐらりと身体が後ろへ傾げば、腕もするりと抜け落ちてしまう。落下を防ぐためには定期的に抱え直してやらなければいけなかった。ずり落ち傾ぐ身体を持ち上げ、引き寄せる。その度にずしりと重みが伝わってくる。この程度で音を上げるほど軟弱ではないが、自分よりも体格のいい人間を運び続けるのはそれなりにきついものがあった。
 抱え直すと、傾ぎかけていた身体がべったりと俺の背中にへばりつく。意識は微妙にあるらしく、巻き付いた腕がきゅうと俺の首を締めた。一歩踏み出すごとに床がぎしぎしと軋む。それほど老朽化が進んでいるわけでもないのだが、僅かな面積に二人分の重みがかかるのは床として辛いものがあるらしい。そろりと慎重に足を進めてもやはりぎしぎしと音を立ててしまう。夜はとっくに更けているのでできるだけ静かにしていようとは思うのだが、こればかりはどうしようもなかった。
 長く背負っている男は少しずつその重みを増していく。いや、そんなはずはない。背負い続けることに疲れたことでそう錯覚しているだけに過ぎない。そんなことをつらつら考えていると、ようやく目的地へと辿り着いた。
 閉め切られた障子を足で開ける。手が塞がっているのだから仕方がない。加減が上手くできないせいで障子は勢い良く開き、すぱんと小気味のいい音をたてた。障子の向こう、土方さんの自室にはあらかじめ布団が敷かれている。どうせ俺がこうして寝かしつけることになるのだろうと思って、屯所を出る前にあらかじめ用意しておいたのだ。後はこの上に土方さんを転がしてしまうだけでいい。すっかり手慣れてしまった。不本意だ。
 敷居を跨ぎ、室内へと踏み込む。踏まれた畳はみしりと音を立て、網目の存在を足裏へと伝えた。身体がすべて敷居を越えたところで障子を閉める。これも足なので少しばかり隙間があるが、まあいいだろう。みしりみしりと畳を踏みしめて布団の前へと立った。俺の背中では土方さんがぐらんぐらんと揺れている。後ろへひっくり返ってしまわないように注意を払いながら身を屈めていく。そうして足を畳み終えたところで土方さんを布団の上へと放った。俺の背を滑り、転がり落ちるようにして布団へと入る。
 衝撃はそれなりにあったはずだが土方さんが目を覚ます様子はない。ううん、と何か言いたげな呻き声が上がっただけだ。無造作に転がっている土方さんをもう少し転がし、仰向けにしてやる。ついでに頭の位置を枕に合わせて調整もしてやった。あとは掛け布団を被せてやればいい。そこまで整えたところで土方さんの手がおもむろに持ち上がった。ゆらゆらと頼りなく揺れるそれは何かを探しているようだった。

「? 水ですかィ?」

 意識があるのかも定かではなく、声が届いているとも思えない。それでも問うた。探しものと言えばそれくらいしか思いつかなかった。水なら机の上へ用意している。急に吐いてもいいように洗面器も用意してある。何故そこまで甲斐甲斐しく世話を焼いているのかと自問したくなるので自分で用意しておきながら目を逸していた者達だ。今日の出番はなさそうだと思っていたのだが、そんなこともなかったらしい。水を取りに行こうと身を捻る。だが移動することは叶わなかった。

「……あ?」

 動けなかったのは移動することを阻まれていたからだ。誰に、なんてこの場では他にいないだろう。土方さんに袖を掴まれ、その場から離れることができなかった。

「……俺は水じゃねェんですが」

 控えめに訴えてみても土方さんには届かない。抗議なのかなんなのか、ううんと呻き声が返ってきて袖はますます強く掴まれてしまった。力ずくで振りほどくことは可能だが、困惑が強い。いや、それ以上に動揺していることを自覚せざるを得ない。
 弱々しく袖を掴むなど幼子のようではないか。酔っているとはいえ、この人には不釣り合いな仕草だ。そう思うのに、ひどくそれに揺らぶられていた。相手は酔っ払いだ。わかっている。

「……アンタこれ、据え膳って言うんだって知ってますか」

 会話が一方的であるのをいいことに、べらべらと余計なことを吐露してしまう。相手は酔っ払いだ。だが無防備な姿を晒されて冷静さを保っているというのもなかなか難しい。それが付き合っている相手なら尚更だ。
 例えばこれが一方的な想いであるのなら、ここまでの衝動には襲われなかったに違いない。だが今は違う。俺はこの人に許されている。その事実が歯止めをきかなくさせる。
 左腕の袖は皺が刻み込まれるほどにしっかりと掴まれている。そのせいでそちらの手はあまり動かすことができない。だが俺の利き手は右だ。そのため、それほど不自由はない。右手をそろりと土方さんへ向けて伸ばす。指先で唇へと触れた。
 肉の薄いそこはかさついている。罅割れていないだけでもまだいい方か。唇を押し込んでいると眉間に皺が深く刻まれた。意識がないせいかその口元はひどく緩い。
 僅かに開いた唇の隙間へと指を挿し込む。ほとんど力を込めていないが、実にあっさりとその奥へ入り込むことができた。指は挿し込んだ分だけ入り込んでいく。拒まれないのをいいことにどんどん奥まで入り込んでいると、土方さんの表情が歪む。どうやら奥まで入り過ぎてしまったようだ。見れば指は第二関節をとうに超え、根元まで行き着いてしまいそうだった。苦痛を抱いても当然だろう。吐かれる前に大人しく指を引き抜く。だがすべてを抜き去ってしまうわけではない。第一関節辺りまで残して、指を抜く。挿し込んでいる指を回転させ、上顎を擽る。口内の感触が指へと伝わってくる。指でその輪郭をなぞり、それから口の中央へと向けて指を泳がせていった。
 口内の中央部には舌が居座っている。指でぐいと押し込むとその部分だけがへこみ、指はずぶずぶと舌へと埋まっていく。舌だけに限った話ではないが、口内には熱がこもっている。生きているのならば身体の中があたたかいのは当然のことだ。口内は緩い熱を持ち続けており、舌に包まれることによって一層その熱を強く感じることになる。舌を押し込むと、それに反発するように舌が指を押し返してくる。だが柔らかな舌ではろくな抵抗にはならず、指にべったりとその身を添わせるような形になる。

「んっ……ぅ……」

 指に押された舌がびくびくとのたうっている。その程度で逃げ出すことはできない。弱々しい抵抗になど構うことなく、舌の上を撫であげる。指で撫でたところが凹み、通ったところがそのまま道のようになる。それがいつまでも残っているわけではなく、すぐに舌は元の形に膨らんでいってしまう。その間も舌はうねり、逃げ出そうとする。そんな抵抗などものともせず気の済むまで撫で回したところでようやく舌を解放した。
 奥まで突っ込み過ぎて嘔吐いたりすることのないよう注意を払いつつ、指を埋め込んでいく。第二関節まで飲まれたかどうかというあたりで押し込むのはやめて、指を引いた。唇に挟み込まれた指がずるずると引き出され、その姿を露わにしていく。代わり映えのしないいつもの俺の指だが、全く同じというわけでもなかった。口内に突っ込んだことで俺の指は唾液に塗れ、てらてらと艶を帯びている。指を挿し込んでいることで唇は開いたままになっていて、そこから息が漏れ出す。酒気を帯びた息は心なしかどろりとしていた。口を閉じようとしているのか、指を軽く食まれる。挿し込まれているそれがなんであるのかを確かめるように指へと舌を這わせていく。ぞろぞろと舌が指を舐め回すと、ぞくりと震えが走った。

「っ 」

 こみ上げるそれは悪寒に似ていた。だが悪寒というにはあまりにも腹の底から湧き上がってくる衝動だった。深く考えることもなく反射的に手を引けば、指は完全に土方さんの口内から抜け落ちた。開いていた口は緩慢に閉じていく。
 残された俺の指はしっとりと濡れている。どうしたものかと一瞬だけ思い悩み、土方さんの着流しへと手を伸ばした。指を擦りつけ、べったりとついた唾液を拭っていく。布で擦られる度に指を覆っていた艶は弱まっていく。唾液を吸い込むことで着流しはその色を濃くするが、元の色が濃い黒であるために変化はそれほど目立たない。土方さんがはっきりと覚醒する頃にはすっかり乾いているだろうし、文句を言われることはないはずだ。それをいいことにごしごしとしつこく着流しで拭う。土方さんの自由な振る舞いによって着流しは着崩れ始めていたのだが、俺が拭うために使ったことで合わせが更に緩くなってしまった。自室で眠るだけならどれだけ肌蹴ていようとも構わないだろう。そう思いつつも手を伸ばし、整えてしまう。広がった着流しを掴み、中央へ向かってぐいと引き寄せる。帯を結び直すまではしなくてもいいだろう。左手は未だに掴まれたままだ。そのため少々不便ではあるのだが、着流しを寄せ合わせることくらいなら片手でなんてことなく行える。片側をぐいと強く引き、もう片方も同じように引っ張る。するとそのタイミングで土方さんが苦しげな声を上げた。

「ゔ……」

 吐きそうなのかと身構えたが、そういうわけはないらしい。空いている方の手が身体に沿って下へと降りていく。ただ黙してその動きを追っていると降下は腰あたりでぴたりと止んだ。手がそれ以上落ちていくことはなく、着流しを巻き込んで拳を作ってしまう。何を意図しての動きなのかはそれだけでは察することができなかった。だが少しだけ視野を広げて観察してみれば答えは実にあっさりと見つかった。簡潔に言うとそう─土方さんは勃起していた。
 勃つことと欲情は同義ではない。股間にぶら下がっている息子は随分と判定が雑なことがままあり、何の脈絡もないところでそそり立つことがある。酒が入ればむしろ萎えることの方が多いとは思うのだが、逆に元気になることもまあ、なくはない。今日の土方さんはたまたまそれだったというだけで、別段驚くようなことではない。実によくある誤作動だ。股間が張り詰めているせいで寝苦しかったのだろう。だが夢うつつなので自分で慰めることもままならないらしい。背負ってここまで運んでくる間はそんなことはなかったはずだ。密着していたのだから気付かないはずもない。それならば布団へ運び込んでから今に至るまでの間に誤作動を起こしてしまっていたのか。何故。
 着流しを押し上げ主張してくるその存在を無視することは難しい。だが寝苦しかったとしても打つ手がない以上、土方さんはこのまま眠るだろう。放っておけばそのうちおさまるとも思う。仮におさまらなかったとしても翌朝自分で処理するだろう。だから別に土方さんが勃起していようが俺には関係がない。自室まで送り届けてベッドにまで運んでやったのだから俺の仕事はもう終わりだ。そう思う。わかっている。それなのに俺の右手はゆっくりとその下肢へと伸びていった。
 腰よりもっと下、足の付け根へと辿り着いたところで着流しの隙間から中へと入り込む。非番の土方さんは基本的に着流し一枚で過ごす。下に肌着を着ていることはまずない。寒ければ着流しの上に一枚羽織ったりマフラーを巻いてみたりはするのだが、その下に着込むという発想はどうにもないらしかった。肌寒い季節でもないので当然、土方さんは着流し一枚しか身につけていない。その下へ潜り込めば素肌へと触れることになる。

「うっ、うぅ……」

 素肌に触れた手が冷たかったのか、土方さんが呻く。手から逃れそうと身を捻るが寝返りにも満たないその動きは全くもって何の意味も持たないものだった。そんなささやかな抵抗に構うことはなく、潜り込ませた手を更に下へとおろしていく。
 土方さんの身体にはいくつも傷跡が残っている。土方さんは強い。だが長く前線で戦い続けていれば無傷というわけにはいかず、時には後々にまで残ってしまうような深い傷を負う。肌の上を滑っていると不自然に皮膚が窪んでいたり、逆に盛り上がっていたりする。裸をしげしげと眺めたことなどないのでその全容は知らない。だがまあ、おそらく身体に残っている古傷は俺よりも遥かに多いのだろう。この人は俺と比較すると回避と防御に対する力の配分が弱い。肉を斬らせて骨を断つというやつだ。攻撃は最大の防御とも言うべきか。そんなことを考えている内に俺の手は目的地へとたどり着いた。
 非番の土方さんは着流し一枚が基本スタイルだが、当然ながらパンツくらいは履いている。だから着流しの下へ潜り込んで手を下ろしていけばパンツへ行き当たるのは当然のことだった。パンツは土方さんの身体にぴったりと張り付いている。布地の感触を確かめつつ、腰から脚へ向けて手を滑らせる。肌にしっかりと吸い付いたパンツは最後まで緩むことはなく、布地の終わりまでその肌を覆っていた。トランクス派の俺とは違い、土方さんはボクサーパンツを愛用している。こんなに締め付けられていて窮屈ではないのだろうか。そんなことを考えつつ、脚側からボクサーの中へ指を潜り込ませる。
 俺の指が潜り込んだことでボクサーは内側から引き伸ばされ、土方さんの肌との間に隙間を作った。ぴんと指を伸ばすとボクサーもそれにつられて伸びていく。だが伸縮性には限界がある。俺の指が完全に伸び切ったところでボクサーの伸縮性にも限界がきたらしく、引き戻すように抵抗してくるようになった。ボクサーを引っ張ってみたのは単なる思いつきで、明確な意図があったわけではない。するりと指を引き抜けばボクサーは勢い良く元の形に戻ろうとし、結果として土方さんの肌を叩いた。

「っぅ 」

 びく、と土方さんが肩を跳ね上げる。だが意識は沈んだままで起きる気配はない。いくら酔っているとはいえ、衣服の下をまさぐられても眠り続けているのはどうなのだろう。無防備過ぎはしないだろうか。この人にこんな不埒な真似をする奴がそういるとは思えないが、俺が言っているのはそういうことではない。この人の命を狙う輩などいくらでもいる。それなのにこの警戒心の薄さはいかがなものか。殺意があれば目を覚ますのだろうか。そんな気はするが確認する気はなかった。この状況で目を覚まされるのはまずい。そんなわけでしばらく土方さんの様子を窺っていたが、目を覚ます気配はやはりなかった。うんうんと唸り、規則正しい寝息をたてる。それを確認した後、潜り込ませていて手をほんの少しだけ上らせた。
 ボクサーの終わりに置いていた手を、ボクサーの始まりへ。腰より少し下からはボクサーがぐるりと土方さんの肌を覆い隠している。今度はそこへ指を潜り込ませた。だが今度は引っ張るためではない。第一関節と第二関節を折り曲げて指を鉤爪のような形に変える。そうしてボクサーへ指を引っ掛け、そのまま手を下へと落とした。
 引っ掛かっている指につられ、ボクサーもずるりと下へ落ちていく。だが使っているのは右手だけだ。しっかりと身体に張り付いているボクサーをたった一度だけで引き落とし切るのは無理だ。少し位置をずらし、また指を引っ掛けて引き下ろす。そうやって何度も繰り返している内にボクサーはずり落ちていき、その中へ隠されていたものが露わになった。とはいえ、着流しによって隠されているのでこの目で確認することができない。少し悩み、内側から着流しを払い除けた。既に言い訳しようのない状態になっている。着流しに手をかけたところでさほど変わりないだろう。言い逃れすることを考えるならこれ以上触れるべきではない。
 それによって土方さんの肌のほぼすべてが露わになる。季節は秋に入り始めている。そろそろ寒さがやってきそうではあるが、肌寒いというには遠い。少しぐらい肌を晒していたところで体調を崩すようなことはないだろう。

「……はあ、これはまたそれなりの……」

 視界いっぱいに広がったのは土方さんの肌だ。普段は衣服に覆い隠されているためか、顔や手に比べると少し色が白い。肌を眺めていると、自然とそこに目を惹きつけられる。ボクサーがずり下げられたことによって、覆い隠されていた性器は惜しげもなく晒されている。目で確認するまでもなくわかっていたことだが、それでも実際に目にして思うところがないわけでもない。土方さんとの付き合いは長い。裸を見たことだって全くないわけではない。だがこうして起ち上がった状態で見るのは初めてだった。どっちか抱くのか、どっちか抱かれるのか。そんな話し合いを持ったものの、あれからの進展は皆無だ。そのために通常状態を逸した姿などは知らない。知る機会はこれまでなかった。通常状態からして土方さんの息子は俺よりも大きい。……ほんの少しだけだが。だからまあ、臨戦態勢になったそれが俺より大きいのも至極当然のことだ。何も落ち込むようなことはない。いや、違う。落ち込んでなどいない。俺は至って冷静だ。
 土方さんの様子を窺いながらゆっくりと手を伸ばしていく。肌寒いのか身を捩ってはいるが、目を覚ます気配は全くない。躊躇したのはほんの僅かな間だけだ。何をしようと気づかれはしない。その事実に背を押され、ついに触れる。

「んっ 」

 握り潰してやろうだなどとは考えていない。同じ男として加減なく触れられることがどれほど恐ろしいのかはよく知っている。体験するのが土方さんであったとして、想像するだけで縮みあがりそうになるので実行に移すことはない。俺にもそれくらいの優しさはある。かといって優しさだけで触れたわけでは当然ない。放っておけばよかったのだ。そうせずにわざわざ服を剥いて覗き込んだのは、単純な下心からだ。思うにやはりこれは据え膳だ。ここまで無防備な姿を連日晒され、つい手を出してしまうことに非はあるだろうか。バレない程度に少し触るくらいなら許されるのではないだろうか。ここには俺と、酔い潰れた土方さんしかいないのでジャッジする者はいない。素面の土方さんがいれば全力で噛み付いてきたに違いないが、ここにいるのは酔い潰れた土方さんだけだ。よって異議なし。勃ったままじゃ寝づらいでしょう。表面だけでも親切の皮を被り、指を這わせた。
 先端からは既に先走りが滲み始めていて、指で軽く押し潰すとその体液がべったりと張り付いた。指先がぬめりを帯びることによって摩擦が緩和され、触れやすくなる。滲む先走りを指に擦りつけ、べたついた手で幹へと触れる。力加減を間違えないように注意しながら幹を包み込んで扱いていく。先走りは次々に零れ落ち、俺の手を汚していく。それによって滑りが良くなり、より強く快楽を得るようになっていく。

「んっ、く……」

 喉が震える。同じように瞼もぶるぶると震え、今にも開いてしまいそうだった。身体は無造作に布団の上に投げ出され、隅から隅まで弛緩しきっている。目を覚ます気配はないが与えられる快楽を無視することはできず、土方さんは夢うつつのままに小さく喘ぐ。とは言ってもその大半は吐息だ。基本的には荒い息が吐き出されるばかり。だが予想外の快楽を与えられた際はその口はぱくりと開き、上擦った声を漏らした。
 ふぐりを手で包み込み、揉みしだく。指に押し込まれると玉は中をごろごろと転がって逃れようとする。いくら追いかけても同じことで、するすると指の隙間を通ってどこまでも逃げていった。ごろごろと転がして弄んでいると土方さんの眉間に皺が寄る。子息は硬く反り返ったままなので嫌なわけではないのだろう。薄く開いた口の隙間から吐き出される息はか細く、しかし確かな熱を帯びている。本人とは違って従順で素直な息子は時折ぴくりと震えた。その反応を引き摺り出したのが己だと思うと悪い気はしない。袋を揉むのは一旦止め、反り返った熱を登っていく。爪で引っ掻くように、裏筋を辿っていく。すると土方さんの身体が強張り、付け根を起点としてぶるぶると小刻みに震えた。その動きを観察しつつ、根元から先端へと向かっていく。そうして裏筋をなぞり終えたところで亀頭を指で押し潰した。

「っひ、ん 」

 上擦った声があがる。どうにも土方さんは先端を弄られるのが好きらしい。くるくると円を描くように先端を撫であげると身体が強張り、それから逃げ出そうとするかのようにずり上がった。俺から逃れようとしているくせに、左手は未だに解放されない。縋り付くように掴む力はどんどん強くなっていて、これを引き剥がすのはなかなか骨が折れそうだった。
 興奮が高まってきたせいか、身体からは汗が滲み始めている。火照り、上気し、吐き出される息は興奮しきった犬のように荒い。手の内で打ち震えるその様子から見るに限界が近いことは間違いないだろう。どうしたものかと少し考えて、結局楽にしてやることにした。意識のない状態で焦らしたところで面白みがない。それよりも達した時にこの人がどんな反応を示すのかが気になった。イかせてやろうと決めたことで、手の動きも変わる。先端を押し潰すのをやめるつもりはないが、幹全体を扱く動きを主なものに切り替える。手を筒状にして包み込み。上下に扱く。べったりとまとわりついた先走りのおかげでぬるぬると滑る手は問題なく快楽を生んでいた。土方さんの反応がそれを証明している。

「っ、ふ……は」

 手の内で脈打つ。いよいよ限界が近そうだと判断して扱く速度を早めた。すると土方さんの腰が浮き上がる。催促されているようで悪い気はしなかったので好きなようにさせておくと、中途半端に浮き上がったままゆらゆらと宙で揺れた。開きっぱなしの唇が戦慄く。根元から先端にかけて、その全体を扱き上げた。そうして最後に人差し指をぐんと伸ばして先端へと向かわせる。その小さな穴の中に埋め込む勢いで押し潰せばぐずりと大きく音を立てた。

「んッ、ん─!」

 唇は咄嗟に噛み締められる。だがおさえられたのは声だけで、先端からは白濁が噴き出した。出口を指に塞がれていても構うことなく、僅かな隙間からどろどろと垂れ落ちていく。飛び出ることに失敗した精子は萎えた幹を伝い、その身を白く染め上げていった。
 熱に当てられ、上手く頭が働かない。結局俺が我に返ったのは緩慢に伝い落ちるそれが根元の茂みへと到達した頃だった。



  ◇ ◇

 土方さんと顔を合わせないというのは不可能だ。
 真選組隊士はその大半が屯所に住んでいる。所帯を持っている者は家を構えて外で暮らしていたりもするが、独り身の大半は屯所暮らしだ。俺も土方さんも例に漏れず屯所で暮らしている。住まいは同じ。仕事も同じとなれば顔を合わせないことは不可能だ。わかっている。それでもどうにかならないものかと考えてしまう。どうしてそんな無駄なことを考えるのか。答えは簡単。気まずいからだ。それはそうだろう。
 あれから一晩しか経っていない。証拠はちゃんと隠滅した。土方さんは眠っていた。俺しか知らない。だから何も気にすることはない。わかっている。だがそれでも顔を見れば意識してしまいそうだった。会わずにいても手に感触が残っているように思えてならない。暇さえあれば思い起こしてしまう。仕方がないだろう。ああして触れたことなどこれまでなかった。眠っていたとはいえ、この手によってあの人を翻弄したのは事実だ。そんなことを簡単に忘れられるはずもない。いくら振り払っても昨夜の記憶はすぐに手元へと戻ってきてしまう。視線は油断すればすぐに右手へと向かってしまう始末だった。
 真選組は武装警察だ。警察と言うからには二十四時間体勢で稼働している。そのため中には夜勤務の者もいるし、生活リズムはばらばらだ。それでも勤務帯のパターンがあるので共同スペースに人が集まる時間は自然と決まってくる。だから、土方さんの姿があるのは予想範囲内だった。立場上、土方さんが夜勤に入ることはあまりない。あの人の勤務パターンは把握している。だからそこへいるのは何の不思議もない。わかっていたことだ。
 早朝、洗面所は人で溢れ返る。髭を剃ったり、髪を整えたりと男もそれなりに身支度には時間がかかるものだ。できれば鏡で確認しつつ身支度を整えたいという気持ちもわからないでもない。髭を剃る。髪を整える。歯を磨く。顔を洗う。ここにいる者達の行動はおおよそのよっつに大別することができる。土方さんはと言うと歯を磨いていた。いつもの癖でちょっかいを出しに行こうとして踏みとどまる。ここで土方さんに接触するつもりはなかった。会ってしまうことは予想済み。だがこの時間の洗面所は混み合っていて、そんな中わざわざ近くに寄っていくのは不自然というものだろう。そう思い、気を抜いていたところはある。緊張の時はまだ先だと楽観していた。だがその予想は裏切られる。土方さんの周りはどうしたことか不自然にぽっかりと空いていた。
 複数が同時に利用することを大前提としているので洗面器は壁沿いにいくつも取り付けられている。土方さんはそのうちのひとつを使っている。そこまではいい。おかしいのは周りだ。人でごった返しているというのに両隣の洗面器は無人だった。偶然この瞬間に空いただけというわけでもないらしい。少しの間観察してみるがいずれの洗面器も使われる様子がない。何故、なんて考える必要はない。何故って、そんなものはわかりきっている。土方さんが近寄りがたいほどに不機嫌なオーラを撒き散らしているからだ。相変わらず二日酔いに悩まされているのか表情は凶悪だが、それだけではない。明らかに、一見してわかるほどに土方さんは機嫌が悪い。隊士達が近寄りがたいと思うのも無理はないだろう。そう思う程度には。
 さて、どうしよう。人混みに乗じて距離を取るつもりだったが、この状況でそれは難しい。なにせここは人で溢れかえっている。土方さんの両隣は頑なに空いたままだが、他の洗面器はひっきりなしに人が入れ替わっていた。数が足りないため。二人でひとつの洗面器を使っているところもある。使い終わって空いたとしてもすぐに他によって埋められてしまう。それに比べて土方さんの横ならばすぐに使うことができる。土方さんの隣という大いなるデメリットが発生するが、それでもこの時間にゆっくりと洗面器が使えるのは魅力的だった。抗い難いと思ってしまう。思ってしまった。

「アンタ、怖がられてますよ」

 人混みを掻き分け、土方さんの隣へとやってくる。いつも通りの態度になるように気を付けながら、持参してきたカップと歯ブラシを洗面器の隅へと置いた。顔を合わせ難いと思っているのは今も変わらない。だが今すぐ使える洗面台は魅力的だった。抗えなかった。仕方がない。落ち着いて身支度できる朝は素晴らしいものだ。周りがごった返しているのなら余計に。

「あ?」

 口の中に突っ込まれている歯ブラシが歯を擦り、しゅこしゅことを絶え間なく音を立てる。その合間に土方さんは吐き出したのは威嚇めいた母音だった。たった一音だというのにこれでもかというほどの不機嫌さが詰め込まれている。常備装備と言えなくもないが、それにしては少々過ぎている。たった一音だけにそこまで威圧感が込められるのはもはや才能ではないだろうか。アンタ、警察よりももっと向いてる仕事があるんじゃねェですか。そんな軽口を叩きそうになったがぐっと堪える。会話を長引かせたくはなかった。身支度を整えて迅速に土方さんから距離を取るべきだ。いつもと同じ様子を装っても長時間は保たない。

「勝手に怖がってるだけだろ。俺はいつも通りだ」

 どこが。と、返したところで土方さんは認めないのだろう。まさか自覚がないとも思えないが、何故不機嫌であることを認めようとしないのか。
 この人の不機嫌の理由としてまず考えるべきなのは依存物の欠乏だ。煙草、マヨネーズ、仕事。いずれかが不足していると土方さんは心のバランスを欠く。ここしばらくの土方さんの様子を思い返してみるが、どれも不足しているようには思えなかった。値上がりしたなんてニュースも聞かない。それならこの可能性は捨てるべきか。しかし、そうでないとしたら原因はなんだ。
 首を傾げながら蛇口を捻った。流れ出る水を手の内に溜め込んでいく。そうしてある程度水が溜まったところで手を持ち上げ、顔へ向かって水を打ち付けた。顔へぶつかったことで水が弾け、全体を濡らしていく。勢い良く叩きつけたせいで髪まで濡れてしまい、先端からはぽたぽたと水が滴った。だが構うこともなく、同じように何度か水を打ち付けた。水の冷たさに押し流されるように、寝起き独特の気だるさが失せていく。前髪から滴り続ける水が鬱陶しく思えて、ぶるぶると首を振った。タオルを使えば良かったのだと後になって思い至る。だが気付いた時にはもう洗面台には水が飛び散ってしまっていた。

「……何かあったのか」

 周りの喧騒と、何より歯ブラシの音に邪魔をされて今にも消えてしまいそうだった。距離が近かったためになんとか拾うことができた。だが、言われている意味がわからない。俺に向けて言ったわけではないのかとも思ったが、この人の近くには俺しかいない。その声量で俺以外に話しかけているとも思えなかった。
 何かあったのか。……はて、俺はその言葉をどう解釈すればいいのだろう。何やら案じてくれているようなのだが、皆目見当がつかない。土方さんは一体何を言っているのだろう。

「いえ、別に何も……」

 本当に何もない。だが土方さんはどうやら本気でそう思っているらしかった。心当たりすらないので俺は困惑するしかない。するとその反応をどう受け取ったのか土方さんの眉間に深く皺が寄った。少なくともいい方向には受け取られなかったことだけはわかる。とりあえず、先ほどの否定は信じてもらえていない。強まる互いの眼差しがそれを証明していた。居心地が悪い。今すぐにでも逃げ出してしまいたいが、まだ身支度は終わっていない。

「お前最近機嫌悪いだろ」
「……はあ?」

 それをアンタが言うのか。機嫌が悪いのはアンタの方でしょうに。そう返すのをぐっと堪えた俺は褒め称えられてもいいんじゃないだろうか。どうにも、俺達はお互いに機嫌が悪いものだと認識しているらしい。少なくとも俺に関しては誤認だが、もしかすると最近他から避けられがちなのはそのせいなのかもしれない。俺は至っていつも通りだ。もしも万が一、億が一不機嫌に見えているとすれば原因は土方さんに違いない。唐突に始まり、いつ終わるとも知れない夜に振り回され続けている。寸分違わずいつもと同じでいることは難しいだろう。体力はいいとして、あれは思いのほか精神的な消耗が激しい。その証拠に、昨晩は─。
 悪い方向で転がり始めた思考を強制的に止める。それから持参してきていた歯ブラシを口の中へと突っ込んだ。ごしごしとがむしゃらに口内を擦って、こびりついた汚れを削ぎ落としていく。

「おい、総悟」
「土方さん」

 何か言いたげにしているはわかっている。だがそれを大人しく最後まで聞くつもりはなかった。

「後が待ってるんで早く支度してくだせェ」

 これ以上ここで話すつもりはない。言外にぴしゃりと撥ね付けてやれば土方さんは押し黙った。
 一刻も早くここを離れたい一心で歯を磨く。口の中に清涼感が満ちた頃、土方さんが泡の混じった水を吐くのが見えた。




  ◇ ◇

「そーご! きーいてんのか、おい」

 至近距離からしきりに呼ばれる。ところどころ呂律が回っていないのはアルコールが入っているからだ。酔った土方さんを迎えに行って、部屋まで送り届けるのはもはや日課のようになっている。それ自体はもう手慣れたものなのだが、今日の土方さんは少しばかり面倒だった。

「そーご!」
「はいはい、聞いてますって。他の奴等が起きるんで静かにしてくだせェ」

 酔い方はいくつか種類がある。泣いたり怒ったり眠ったり吐いたり。酔い潰れてぐったりしていることが大半だったので忘れかけていたが、土方さんは絡み上戸でもあった。面倒臭くて仕方がないが、それを表情に出したところで今の土方さんは酔っ払いなので気付かない。何度放り出して帰ってやろうかと思ったか知れないが、結局屯所まで運んで帰って来てしまった。比較的足がしっかりとしているので肩を貸すだけで良かったのが大きい。これで歩けないほどに酔っていたら置いては行かないまでも誰かに押し付けていた気がする。

「なあ、なんでおまえおこってんら?」
「怒ってねェです」
「うそつけ」

 酔っぱらいは声量の調整も上手くできないようで、土方さんの声が耳元でわんわんと反響する。先日、素面の時にも同じような質問を投げかけられたが俺はいつも通りだ。嘘をつく理由もない。それなのに土方さんは俺が機嫌を損ねていると信じて疑っていないようだった。自室へ連れていく間に同じ質問が繰り返される。何度否定しても土方さんはその否定を認識しないらしかった。これだから酔っぱらいは面倒で嫌だ。

「ほら、着いたんでさっさと寝て酔い覚ましてくだせェ」

 土方さんの部屋には既に布団が敷いた状態で用意されている。比較的足取りがしっかりしているとは言っても所詮は酔っ払いだ。力を抜くとすぐにふらふらと勝手気ままに傾いでいく。ぐらつきながら離れていこうとする身体を引き寄せ、室内へと踏み入った。勝手知ったる部屋だ。今更躊躇することなど何もない。ぐいぐいと引き寄せ、そうして土方さんを布団へと放り込んだ。支えるために回していた手を離し、土方さんを解放する。自分で身体を支えることすらままならない酔っぱらいがそのまま自重に負けて布団へと落ちていく。そのはずだった。

「う、わっ 」

 俺の思惑は外れた。ただ落ちていくばかりだと思っていたのに、土方さんはそうはならなかった。外したはずの俺の手は土方さんによって掴み取られ、再び繋がる。そんな展開は予想していなかったので身体の力はもう抜いていた。それがよくなかった。落ちていく土方さんに引きずられて身体が傾ぐ。畳を踏みしめて耐える力は今この瞬間にはない。そのため俺はどうすることもできず。ただ引かれるままに布団へと倒れ込んだ。夜も更けているというのにどたばたと騒々しく音が立つ。近くに私室はないので大丈夫だとは思うが、それでも大きな音を立てたことに対して罪悪感があった。いや、しかしこれは俺のせいではない。
 土方さんを下敷きに、折り重なるようにして倒れ込んでしまう。下から苦しげな呻き声が聞こえたが不可抗力だ。これに関しては土方さんの自業自得だろう。同情の余地はない。だが下手に圧をかけて嘔吐されても面倒臭い。何がしたいのかが全くわからないが相手は酔っ払いだ。行動の理由を探るだけ無駄だろう。とりあえず、さっさと退避した方がいい。腕を突いて自重を支える。それから身体を反らして起き上がろうとした。だが遮られてしまう。にゅっ、と下から腕が伸び出てくる。突き出された二本の腕はそれぞれが俺の首の両脇を通っていく。そうして最大限まで伸び切ったところで腕は内側へと寄っていく。関節が曲がり、俺の目では捉えられないところで腕が重なり合う。俺の首に引っ掛かる形で、土方さんの腕が環になる。なにをしているのかと問うより早く、その腕に力が込められた。

「っ、 」

 離れていく身体を引き止めるように、首へとかかった腕が俺を引き寄せる。突き立てていた腕に力を込めたおかげで再び土方さんを下敷きにすることは回避できた。そんな俺の配慮など知らず、土方さんはぐいぐいと俺を引き寄せた。やがて土方さんの上体は俺の首にぶらさがっているような形になり、布団から浮き上がる。普通に重い。

「…………アンタ、マジで何がしてェんですか」

 土方さんは何がなんでも俺を引き倒したいらしく、何度も力を込め直して俺を引き下ろそうとする。本当に何がしたいのかがわからない。酔っ払いの奇行だとしても、今まではこれほどひどくはなかった。ならば何か意味があるのだろうか。そうとも考えにくい。体重をかけ直される度に首がきしきしと痛む。この程度で音を上げるほど軟な鍛え方はしていないが、首へ集中して圧をかけられるのなら話は別だ。鍛えていないとは言わないが、人の体重を支え続ける状況などは想定していない。腕を支えにしているのですぐに潰れてしまうことはないだろうが、先に首が限界を迎えるのは明白だった。
 鍛え抜かれた腕に拘束されているわけだが、いくら土方さんとは言え相手は酔っ払いだ。普段と比較するとその力は随分と弱く、力ずくでこの状況から逃げ出すことは不可能ではない。だがそうしなかったのは迷ってしまったからだ。思えばあれ以来、それらしい接触は皆無だ。だが本当になんの接触もなかったわけではない。土方さんが知らないだけで、夜にはこうして触れている。目的は運搬及び介抱なのでやましい気持ちはないが、触れて全く意識するなというのも難しかった。先日、話はつけたばかりだ。だから余計に意識してしまうのだろう。そこまで自分で分析できていても制御まではできない。
 そうして先日はついに一線を越えた。一度下がってしまったハードルを元の高さまで引き上げることは難しい。首へとかかる腕に力が込められると、筋肉の動きがよくわかる。着流しや肉によって隔たれていても、密着していればそれくらいはわかる。筋肉の動きひとつで意識してしまうなど我ながら初心過ぎて笑えもしない。相手が酔い潰れているので悟られる心配をしなくていいのが幸いと言えば幸いか。だが、ゆえに抑えがきかない。ここで何をしようとも、知られてしまうことはない。そう惑う。だから力ずくで振りほどくことができなかった。その間も土方さんはぐいぐいと力を加えて俺を引きずり落とそうとしている。だが腕に支えられているために俺は落ちない。土方さんはそれに焦れ、苛立っているようだった。ゔゔっ、と唸り声をあげているが半分眠っているような様子で返答はない。思い通りにいかないことが腹立たしいのか、眉間にぎゅうと皺が寄る。やがて土方さんは俺を引き寄せることを諦めた。だがすべてを諦めたわけでもないらしい。一瞬力が緩んだのは単に方針を変更したからだ。
 引き寄せられないのなら自分が寄ればいい。土方さんは俺の首を支えにして本格的にその上体を浮かせた。土方さんの腕と俺の首。たったそれだけを支えに土方さんは一気に距離を詰めた。急激に縮んだ距離に身体が硬直する。そうして完全に固まってしまったのが良くなかった。
 動きを止めたことで土方さんが好きに動くことを許してしまった。土方さんは止まらない。ぐんぐんと距離を詰め続け、やがてすべてを詰めてしまう。唇が薄く開き、俺の唇を食んだ。それだけでも衝撃としては充分過ぎた。だが土方さんはそれでは満足できないらしく、口内へ舌を滑り込ませてくる。初めてのことではない。だが唐突な行動に身体が硬直した。いくら酔っているとはいえ、あの土方さんがこんなことをしてくるとは思いもしなかったのだ。そう油断していたせいでなんの反応もできなかった。

「ちょっと、ひじ……ん、ゔ!」

 一体何をしているのか。とりあえず引き剥がそうと試みるが存外強い力で抵抗を受けてしまう。巻き付いている腕に力がこもり、そこからは決して離れないという強い意思を感じる。入り込んできた土方さんの舌は逃げようと口内で蠢く俺の舌を捕らえ、それだけでは足りないとばかりに絡んでくる。こうなると物理的に距離を取る以外に防ぎようがなかった。色事における経験値は土方さんの方が圧倒的に上だ。同性相手となると経験を活かせないことも多いが、口に性差はない。口付けでは、単純な場数の差で負ける。その差は酔っ払って稚拙になった今でさえも覆すことができないらしい。
 いくら逃げようと藻掻いても無駄だ。上顎にべったりと舌を這わされれば力が抜ける。腰砕けになって倒れ込むことは避けようと腕に力を込めるが、そうすると抵抗に回す余力がなくなる。突き立てている腕がぶるぶると震えた。絡んだ舌が熱い。体温にそれほど差はないはずだが、それでも微妙に違う。酒が入っているせいか土方さんの方が心なしか体温が高い。口内を掻き回す舌から、じわりと熱が伝わってくる。至近距離で吐き出される息は酒気を帯びている。苦味が混じるのは煙草のせいだろう。決して愉快なものではないが、不本意なことに慣れてしまった。じわりじわりと、苦味が広がっていく。不快な味だが、それがこの人のものであると自然に認識してしまうようになっている。それでも苦いものは苦い。ぎゅうと眉間に皺が寄る。距離を取ろうと藻掻くと、阻むように腕に力がこもる。絡んだ舌に吸い付かれれば背中がぞくぞくと震え、身体の力が抜けていく。みっともなく崩折れてしまわないように腕を突っ張って耐えるだけでぎりぎりだ。何がしたいのか問いたいが、隙間ができてもすぐに塞がれてしまう。それに今の土方さんと会話が成立するとは思えなかった。こんな真似をする人ではないのだ。正気ではない。そんな相手と意思の疎通ができる気はしなかった。首に絡む手が、その指先が項を撫でる。ここまで土方さんを運んできたせいか、首筋は薄っすらと汗ばんでいたらしい。指で辿られることによってそれを知る。
 どれくらいそうしていたのかはわからない。抵抗する気は完全に失せ。ただじっと酔っ払いの気が済むのを待つ。終わりに、予兆はなかった。

「……ふ、はっ……」

 腕の力が緩み、それによって土方さんの身体が少しだけずり落ちる。俺の首にぶら下がる形で、土方さんは上がった息を整えた。ひとつ息を吐く度に乱れが弱まっていく。目は開いているしうろうろと視線が動いているので起きているのだろうが、どこかぼんやりとした印象が拭えない。いや、まあそれはいい。それはいいのだが、いつまでもぶら下がられているのは少々体勢的にきついものがある。身体を揺らして振り落とそうと試みるが、土方さんの腕が解ける気配はない。仕方がないので俺の方が屈み込むことで土方さんを布団の上へと横たえた。

「……気が済んだら放してもらえませんかね」

 そろそろ放してもらえるのではないかと藻掻いてみるが、拘束が緩む気配はない。酔っぱらいのくせに力は中途半端に残っているらしい。力ずくで逃げ出そうとすれば抵抗を受けるだろう。こちらは素面なので強行突破できないことはないが、体力の消費を考えると面倒だった。酔っぱらいは気が変わるのも早い。じきに飽きてしまうだろうと思っていたのだが、拘束が解かれることはなかった。

「そーご、もういいだろ」
「……は? 何がです?」

 さっさと寝かせろということだろうか。それなら俺を解放してほしい。アンタががっちりと俺を掴まれているせいでいつまで経ってもここから離れられないのだ。だが話を聞いているとどうにもそういうことではないらしい。寝たいわけではないのか。しかしそれならばなんだ。首を傾げていると土方さんが焦れる。いや、アンタの説明が雑過ぎるのが悪いんでしょうが。

「……だから、」

 俺が察することは諦めたらしい。察しない俺への苛立ちを隠すこともなく、のたのたと説明を続けた。酔いが回っているせいで随分と覚束ないが、亀のような歩みで説明していく。

「お前が、言ったんだろ」

 聞き取るには問題ないが、吐き出される言葉はひどくもたついている。酔っていることだけが原因ではないだろう。土方さんはどうにも口を開くことを躊躇しているようだった。俺が言った? 何を? 問いたいが、それよりも土方さんが喋るに任せた方が早い気がする。

「これだけ準備してりゃ多分……くそ、なんでこんな……」
「は? 土方さん?」

 何を言っているのかが全く理解できない。そんな説明でわかるはずがないのに、困惑している俺を土方さんは睨み上げる。いや、今の説明で理解するのは無理ですって。なんでわからねえんだ、という目で見られても困る。説明するならもっと要点を絞って話してほしい。土方さんが何かの準備をしていることはわかる。だが、何の?
 少ない情報を掻き集めてはみるがてんでばらばらで繋がる気配がない。情報が漠然とし過ぎている。核心にたどり着けないならとにかく情報量を増やさなければ、このままでは何もわからない。もう少し土方さんの言葉に耳を傾けようと、土方さんの言葉を促そうとする。だが俺が口を開くよりも土方さんが動き出すほうが早かった。
 油断していたのだ。土方さんの腕に再び力がこもる。体重のほとんどは布団に預けられていたので、突き立てている腕にはそこまで力を込めていなかった。それがいけなかった。それが良くなかった。土方さんの腕に力がこもり、強い力で俺を引き寄せる。今になってそんな動きをするとは思いもしていなかった。咄嗟に対応することができず、がくりと肘が折れ曲がる。引き寄せられるままに上体が落ち、完全にバランスを崩した。その結果、勢い良く土方さんの胸板に顔を埋めることになる。

「ぶっ!」
「ぐ、え……っ」

 そこそこ筋肉がついているとはいえ、所詮は男の胸だ。打ち付けた鼻先がじんじんと痛む。土方さんは土方さんで頭部が降ってきた衝撃に呻いていた。もう本当にこの人が何をしたいのかがわからない。酔っ払いの奇行だとしても、ここまで意味のわからないことをするだろうか。あまりにも普段の土方さんと行動がかけ離れている気がするのだ。酔っているとしても、こんなことをするだろうか。
 土方さんの腕が解かれていく。拘束を解かれたので土方さんから距離を取ることができる、はずだった。腕は肩へと滑っていき、そこから腕を伝い、俺の手を取った。

「土方さん?」

 思えばこれまで手を取られたことなどあっただろうか。普段喧嘩の延長で取っ組み合いになることはある。だがこうして何の意図もなく、ただ純粋に触れることはなかったように思う。俺も土方さんも他人にべたべたと触れる方ではないから余計にそうなのだろう。ただ手が触れているだけだ。それなのにひどく動揺していることを自覚せずにはいられない。我が事ながら忌々しい。そんなことを考えているのはおそらく俺だけなのだろう。その事実が忌々しさを増長させる。
 俺の動揺や苛立ちなど知らず、土方さんは思うままに行動する。俺の手を取ったまま、手を下へと滑らせていった。土方さんの身体を辿りながら手が落ちていく。手はただ落ちていくばかりではない。土方さんに導かれ、着流しの下へと潜り込んでいく。

「!? 土方さん、ちょっと……」

 ぎょっと目を剥き、されるがままになっていたことを後悔した。酔っているにしたって度が過ぎている。潜り込んだ手を引こうとするが、強い力で引き戻された。身体がべったりと密着しているせいで離れにくい。酔っ払いのどこにそんな力が残っていたのか、俺の抵抗を捻じ伏せて手をどんどん下へとやっていく。土方さんの直に触れた肌は火照っている。酒のせいで体温が上がっているのだろう。全体的に薄っすらと汗ばんでいて、手を這わせるとぺたぺたと張り付いてくる。どうしていいのかわからずに困惑を深めている内に手は更に下へ。そうして布地に覆われた場所へと行き着いた。
 腰から足の付け根よりもう少しいったところまで。その一部分だけがボクサーによって覆い隠されている。手に伝わる感触が変わったことでそれに気付き、それから土方さんの考えていることにもようやく理解が及んだ。

「はあ、アンタ、もしかしてそういう…………」

 土方さんの牽引は止まらないので、引かれるままにボクサーの上を通っていく。そうして気付いた。ボクサーの下は誤魔化しようがないほどに膨張し、ボクサーを押し上げてその存在を主張していた。つまりはあれだ、勃起している。
 土方さんの手は、あきらかにその中へ俺を導こうとしていた。これはあれだ、先日のあれをもう一度というやつだろう。あの時の土方さんは眠っていたわけだが、案外身体の方が覚えているのかもしれない。……まあ、一度やってしまったなら二度やってもたいして変わりはないだろう。

「わかりやした。わかったんで手、放してくだせェ。逃げねえんで」

 掴まれたままでは動きにくい。望まれているのなら応えるのはやぶさかではない。記憶に留まらないのなら拒む理由もなかった。酔いを纏った目が向けられる。泥酔でどろりと溶けてはいるが、それでも胡乱な目だ。腹の中を探るように俺を見上げる。

「……」

 土方さんからの疑いの目は強い。力ずくで振りほどくには場所が悪い。できなくもないが面倒臭さの方が勝った。土方さんに信じてもらうため、身じろぎもせずにじっと決断を待つ。そうして、どれほどの時間が経っただろう。ふ、と土方さんの手から力が抜けた。

「……」

 言葉はない。だが本当だろうな、と言わんばかりの疑いの目が向けられる。信じてもらえたわけではないらしい。それではせいぜい、土方さんの疑いを強めないように動くとしよう。今に限定して言えば、土方さんを裏切ったところで俺に益はない。裏切るつもりはなかった。とはいえ言葉を尽くしても信じてはもらえないだろう。相手は土方さんで、更に言うなら酔っている。
 手が自由になったところでボクサーの縁へと手をかける。ボクサーの中へと潜り込み、それから引き摺り下ろした。着流しが中途半端に開いていて邪魔だ。肌蹴た着流しを手で払い除けつつ、ボクサーを下ろしていく。伸ばされてずり落ち、そうして覆い隠されていた一物が姿を現す。中へと押し込まれていたそれは締めつけから解放されるなり頭を上げ、重力に逆らった。
 最初は少しばかりひるんだが、二度目となれば慣れたものだ。やり方も既に知っている。迷うこともなく、そり立つそれに手を伸ばす。急に触れられたことに驚いたのだろう。土方さんの身体がびくりと跳ねる。だがそれは一瞬のことですぐに力は抜け落ちていく。

「ふっ、ぅ……ふ」

 強弱を付けながら手で扱きあげていくと、先端からぷくりと先走りが零れ出る。指先で掬い上げ、全体へと塗り込むことで滑りを良くしていく。反応を示すほどに先走りはその量を増し、それによって手が滑る。自分で願ったことのくせに土方さんは逃げるようにその身を捻った。押さえ込み、愛撫を続ければ腰がびくびくと波打つ。手の内で打ち震えている。触れ始めてそれほど時間は経っていないはずだが、限界は既にすぐそこにあるらしかった。じとりと下から睨みあげられる。その視線にどんな意味合いがこもっているのか、そのすべてを把握することはできない。だがその視線には非難の色がこもっているように思えてならなかった。アンタが望んだことでしょうに。そう言いたいのを寸前で堪える。相手は酔っ払いだ。言うだけ無駄だ。
 限界が近いのなら、と扱く手を速める。例えば、土方さんの意識がしっかりとしているならそうはしなかっただろう。俺がこの人へ素直に奉仕してやる理由はどこにもない。焦らし、乞わせたかもしれない。だがそれはあくまで土方さんが正気であった場合の話だ。今の土方さんは酒のせいでふにゃふにゃとしていて、正直なところ張り合いがない。何を要求されてもたいして自分で考えることもせずほいほいと応じてしまいそうなところがある。それではあまりにつまらない。だから土方さんには何も求めなかった。だが望まれるまま、乞われるよりも先に導いてやる。
 先端から根元まで指を這わせ、その下へぶら下がる睾丸を揉み込む。そうして遊んでいるとまた先端から先走りがぷくり、ぷくりと。それらは幹を伝って落ちていく。落ちてきたそれらは潤滑油となり、更なる快楽を与えていった。ぎゅうと幹を握り込み、手を上下に動かしていく。手と幹の間で先走りがぬちぬちと音を立てる。土方さんの息は次第に上がっていき、根強かった猜疑もいつの間にか崩れ落ちていた。

「はっ……そ、ご……」

 本当に俺を俺だと認識しているのかは怪しい。そうであるなら、平素のこの人ならばこんな姿は晒さないはずだ。そうわかっているのに、呼ばれるだけでぶわりと熱が上がる。そう自覚した瞬間に己の単純さに嫌気が差す。それを誤魔化すために一層激しく扱くと土方さんの唇が戦慄いた。布団の上で身体は反り返り、背だけが浮き上がる。俺を呼ぶ余裕はない。

「んっ……く─!」

 手の内で熱が爆ぜた。先端からはこれまでとは比較にならないほどの白濁が溢れ出る。どろどろと溢れるそれは俺の手を伝い、布団や下敷かれている布団にまで落ちようとしていた。布団を汚してしまえば証拠が残る。記憶の心配はしなくていい。土方さんは覚えていない。だが物理的証拠が残るのは駄目だ。誤魔化せなくなってしまう。
 どろどろと伝う白濁が落ちてしまわぬうちに、手を離す。さっさと拭い取ってしまわなければ証拠が残ってしまう。そんな俺の焦りを知るはずもなく、土方さんは俺の手を掴んで引き止めてくる。

「ちょっと、土方さん。まだ足りないなら続けてもいいんで、今は放してくだせェ」

 そう話しているうちにも白濁はゆっくりと伝う。まずいまずいまずい。ぐっと手を引くが完全に振りほどくことはできない。纏わりつく白濁を気にかけて思うように動けないせいだ。暴れたせいで零してしまっては本末転倒だ。
 達したばかりで土方さんの息は荒い。吐く息には熱の残滓が混じっていた。それに一瞬気を取られる。その一瞬で手を強く引かれ、どこかへ導かれてしまう。

「土方さん」

 呼んで、振り解こうとする。だが土方さんが俺の手を放すことはなかったし、手を振りほどくこともできなかった。引かれた俺の手は土方さんの股ぐらを通り、背面へ向かおうとする。だが土方さんの目的地は背ではなかった。手は後ろへ回り込まない内に引かれなくなった。それはいい。いや、よくない。止まった場所に問題があった。
 ボクサーを引き下ろしたことで土方さんの下肢はすべて曝け出されている。隠されていたものは性器だけでない。引かれた手は導かれるままに小さな穴へと触れた。
 指先が固く閉じた穴へと触れる。それが何のためにある穴なのかはよく知っている。そして、男同士で身体を繋げるならここを使うしかないことも、知っていた。だから動揺する。酔った土方さんが意識しているのかは知らないが、少なくとも俺は無反応でいることはできない。それに関する話は以前にしたし、土方さんも了承したはずだ。互いの役割ははっきりしている。いつの話になるのかはわからないが、いずれ俺はこの穴に身を埋めることになるだろう。そう意識するだけで身体が強張る。
 俺からの抵抗が完全に止んだのをいいことに、土方さんが再び手を引く。更に後ろへ向かっていくのだろうと、そんな想像は裏切られた。

「ちょっ、アンタ、何して……!」

 土方さんが導いた先は穴の中だった。俺の手を取り、指の一本を掴み、小さな穴の中に埋め込もうとする。何故土方さんがそんなことをしようとするのかがわからない。わからないが、これは阻止すべきだと瞬時に結論を出した。
 そもそもそこは排泄器官だ。出すならまだしも入れることを想定して作られていない。普段から出しているものの太さを考えれば指くらいは入るのだろうが、痛みを感じないとも思えなかった。今この人は酔って判断能力が駄目になっている。放棄されたブレーキは俺が代わりに踏まなければならなかった。
 無理矢理押し込もうとしたところで拒まれるだけだ。それすら捻じ伏せて埋め込んだところで得られるものは快楽ではなく苦痛だろう。指一本であろうとそう簡単に入るはずがない。だから猶予はあるはずだった。証拠がどうと言っている場合ではない。いざとなれば派手に嘔吐したので全部洗ってしまっただとか、そんな風に適当に言い訳をすればいい。それより今は土方さんの暴挙を回避しなければならなかった。何を言ったところでこの土方さんは耳を貸さないだろう。それならばやはり力ずくでなんとかするしかない。押し込まれようとしている手を引こうとするが、動き出すのが遅かった。俺が抵抗を示すよりも早く、指はあっさりと穴の中へと入り込んでしまう。

「……は?」

 肉が押し込まれ、その弾力によって抵抗を受ける。だがそれは一瞬のことで、次の瞬間には滑り込むように指が埋まった。

「え、は? 土方さん、ちょっと」

 指一本とはいえ、こんなにすんなりと入るものだろうか。こんなところに指を入れたことも入れられたこともないが、少なくとも自分の穴に指が入る気は全くしない。もしかするとそれは俺だけの話であって、他の奴は指一本くらい軽いものだったりするのだろうか。いやいやいや、そんなはずは。
 俺がひとしきり困惑している間にも土方さんは俺の手を引く。そのせいで指はどんどん奥深くまで潜り込んでいった。第一関節まで飲んだかと思えば、すぐに第二関まで飲まれてしまう。そこまで来てしまえばすべてを飲むまでにそれほど時間はかからない。指は付け根まで飲み込まれ、土方さんが小さく身体を震わせた。

「……っふ、ぅ」

 眉間には深く皺が寄っている。その表情は間違いなく苦痛を訴えていた。それだというのに土方さんは俺の手を離さない。物理的に不可能なのでこれ以上埋め込まれることはない。それでも俺の手を手繰り寄せ、逃すまいとしていた。

「……土方さん」
「まだ、いける……。指、だから……」

 土方さんの手はのたのたと俺の手を這い回る。蠢く手は俺の指を掴むと、それを穴の中へ導こうとした。そこには既に指が一本埋まり込んでいる。それだというのにそれを引き抜くこともせず、更に指を飲もうと言うのか。暴挙だ。そんなことができるはずもない。呆気にとられてこれまでは土方さんの思うままにされてきたが、流石にこれは放っておくわけにはいかない。いくら土方さんが相手といえど、これは看過できない。
 指が捩じ込まれるよりも先に手を引き、既に埋まり込んでいる指を引き抜こうとした。だが当事者である土方さんから強い抵抗を受ける。半分ほど抜け出していた指は土方さんに引き寄せられ、再び根元まで埋まりこんでしまう。土方さんはふうふうと押し殺した息を零す。根元まで埋まり直したところでまた指を増やそうとするものだから手を引いて抗う。それに土方さんが抵抗し、抜いた分だけ指を埋め直す。そんなことを何度も繰り返し、膠着状態へと入った。抵抗する時にだけ、酔っぱらいとは思えないほどの馬力を出すのはやめてほしい。体勢のせいもあって上手く引き剥がすことができない。

「……土方さん、放してくだせェ。痛いくせになんだってそんな無理すんですか」
「い、いたくね……ッ」

 土方さんの身体が強張る。穴は受け入れるための場所ではない。そのため、勝手に濡れるような機能もない。始めこそ指に纏わりついていた精液でなんとかなっていたのだが、抽挿を繰り返す内に滑りが足りなくなっていった。指を抜き差しすると中の肉が引き攣れるのがわかる。痛みを感じているのだろう。土方さんの身体はびくびくと震えていた。それでも指を抜こうとはしない。意味がわからなかった。そこまで執着する理由はなんだ。
 空いている方の手がのたのたと動き出す。何をするつもりかと眺めていれば、手は土方さんの股間へと向かっていった。そこでは土方さんの息子がくたりと力なく倒れている。痛みで完全に萎えたのだろう。ぐにゃりと力ないそれを手に取り、おもむろに扱き始める。だが痛みの方に気を取られて思うように手が動かないのだろう。手付きはひどく拙く、快楽を上手く引き出せないようだった。

「土方さん」

 何がしたい。せめてそれがわかるなら身の振り方も考えられる。だが未だに土方さんの行動が読めなかった。呼びかけてみても応答はない。俺を解放しようとはしないくせに俺に構うことはなく、一人耽っている。だがどうにも上手くいかないようだった。土方さんは萎えたままだ。

「……手伝いましょうか?」

 解放されないのなら気が済むまで付き合ってやった方がいいだろう。結果的にその方が早く解放される気がする。おそらく、抵抗すればその分だけ土方さんの苦痛が増す。苦しむ姿を見るのは好きだが、この状況は不本意だ。俺が見たいのはこんな姿ではない。今の土方さんは勝手に一人で苦しんでいるだけだ。それに俺を利用されるのは気分が悪い。
 俺がそう提案したことで、土方さんの視線がこちらへ向く。正気ではないのだろうが意識はある。酒のせいでその目はどろんとした淀みを纏っている。それでも俺を捉えた。さて、土方さんはどう返してくるだろう。せめて何かしらの反応は返してほしい。そんなことを思いながら土方さんの様子を窺う。
 酒気を帯びた目はいつもより潤んでいる。表面にはひたひたと水の膜が張っていて目を動かす度、瞬きをする度にゆらゆらと揺れて壊れてしまいそうだった。だがぎりぎりのところでバランスを保って崩れてしまうことはない。少なくとも、これまでは。

「はっ 」

 何の前触れもなく膜が決壊した。剥がれ落ちた水は涙となり、ぼろぼろと落ちていく。土方さんが、泣いていた。この人が泣いている姿など見たことがない。ただでさえどうしていいのかわからないのに、泣き出した原因すらもわからないとなれば困惑するしかなかった。
 やはり痛いのだろう。そう判断して指を引き抜こうとすれば引き止められる。そして落ちる涙は更に量を増したように思えた。涙を流すことで呼吸が覚束なくなり、それに合わせて身体の内もリズムを変えて収縮する。土方さんが泣き止む気配はない。どれだけ声をかけてもそれらしい返答はない。どうしていいのかわからなかった。
 俺が何を言おうと、何をしようと土方さんの涙が止まることはなく。結局、泣き疲れた土方さんが寝落ちるまで膠着状態は続いた。


 土方さんに避けられている。
 時刻は午後の三時を回ったところ。最後に顔を合わせて二十四時間も経っていない。’それなのに避けられていると判断するのはいささか早計ではないだろうか。いや、だがここまで土方さんに会わないのは不自然だ。俺と土方さんの生活リズムはそう差がない。同じ場所で暮らしていて、食堂でさも顔を合わせていないのだ。後で隊士に聞いたところによるといつもと時間をずらして食事に来ていたらしい。あの人は何か外せない要件でもない限り、おおよそ決まった時間に食事をとる。根を詰めなければないような仕事はなかったはずで、そうなると俺を避けているのではという結論が導き出された。しかし理由がわからない。土方さんは酔うとその間の記憶が飛ぶ。だから俺を避ける理由などないはずだ。……いや、どうだろう。昨晩の土方さんは比較的酔いが軽かった。あまり酒が回っていなくて記憶が残っているのだとしたら……? それなら避けられている理由については説明がつく。だが憶測だ。確証はない。こればかりは土方さんに確認しなければはっきりとしない。はっきりしないのだが、単刀直入に問うには勇気がいる。
 土方さんが何も覚えていないのなら藪の蛇をつつくことになる。だが他に避けられている理由など思いつかなかった。何より、周りからの視線が鬱陶しい。どうにも部下達の間では俺と土方さんが仲違いをしている説が濃厚となっているらしかった。いつ爆発するのかと様子を窺われているのがよくわかる。仲違いなどしていない。だが避けられているのだとすれば隊士達の疑いは深まり、更に窺うような視線を向けられることだろう。それが鬱陶しい。何も問題はない。ないはずだ。
 誰の視線を受けることもなく穏やかにサボタージュを決め込むためにも、この問題ははっきりとさせなければならなかった。延々とサボっていても一切咎められないことに不満を抱いたとか、そういうわけではない。断じてない。サボっても咎められない生活は最高と言う他ない。
 土方さんは自室にこもって仕事をしていることが多い、血の気が多く短気なあの人は、実のところデスクワークに向かない。だが真選組副局長という立場上避けるわけにもいかない。不向きなことは苦痛だ。そのためにデスクワーク中の土方さんは喫煙量が増える。元よりヘビースモーカーの節はあるのだが、デスクワークをしている時は特にひどい。もはや呼吸と同義だ。窓を開け放して換気はしているものの、それでも紫煙のにおいが部屋中を彷徨っているのは仕方がない。
 部屋に土方さんがいるかどうかはすぐに知れた。気配もあるが、それ以上に煙が土方さんの存在を証明している。部屋へ溜まり込んだ紫煙は閉め切られた障子の間からすり抜け、廊下へと漏れ出していた。こうなるということは灰皿ひとつくらいは既に潰しているのだろう。

「土方さん、入りやすぜ」

 ノックはしない。障子はそもそもノックするものではないし、気配を隠していなかったので俺が来ていることはわかっていただろう。俺に見られてまずいものがあるなら声をかける前に入室を止められたはずだ。それがないということは入っても構わないのだろう。そう判断して土方さんの許しを得る前に障子を開け放した。
 わかっていたことではあったが、土方さんは机にかじりついていた。家具の配置的に、土方さんは俺に背を向けている。俺の入室には当然気付いているはずだが振り返る気配はない。声をかけるよりも早く、それを阻むように土方さんが声をあげた。視線は相変わらず正面を向いたままだ。

「急ぎじゃないなら後にしろ」

 口にする前にぴしゃりと撥ね付けられた。用件を聞こうともしないあたりよほど仕事が詰まっているのか、はたまた俺と一緒にいたくないのか。

「後っていつです?」
「……これに区切りがついたら俺から声かける」

 ああ、なるほど。不自然な沈黙で確信する。後者だ。少々、その避け方は露骨なんじゃないだろうか。もしやそれで俺を誤魔化せるとでも思っているのだろうか。そうだとしたらなめられたものだ。土方さんの嘘は存外わかりやすい。俺が見抜けないと、よもや本気で思っているのか。

「じゃあ急ぎなんで待ちやせん。別に手を止めなくてもいい内容だからいいでしょ」

 土方さんの背は何か言いたげだった。じゃあ、とはなんだとか。とにかくどうにかして俺の言葉を遮ろうとしていたのだろう。だが聞きたくないのならばなりふり構わずこの場から逃げ出すべきだった。そうしなかった時点でこの人の負けは決まっている。まあ、逃げ出したところで逃してやるつもりはなかったが。

「アンタもしかして、昨日のこと覚えてんじゃねェですか」

 誤魔化す余地はいくらでもあっただろう。土方さんは背を向けていて、表情を窺うことができない。そのために俺が得られる情報はひどく限定されている。俺から見える場所を繕いさえすれば誤魔化すことは可能だった。だが土方さんはそれができなかった。ぎくりと身体が強張る。それでは図星ですと白状しているようなものだ。

「……やっぱりそうですか」
「何の話だ」

 遅れて白々しい言葉が返って来る。いや、もう無理ですって。誤魔化せませんって。
 往生際が悪い。そんな露骨な反応をしておいて誤魔化せるはずがないだろう。咄嗟に誤魔化したはしたものの、土方さんも本気で誤魔化せるとは思っていなかったらしい。じいっ、と抗議の視線を送り続ければやがて観念したように振り返る。眉間にはいつも以上に深く皺が寄っていた。

「……はっきりとは覚えてねえ。夢だと思ってたんだよ」
「ただの夢ならここまで露骨に避ける必要ないでしょうが。理由もなく避けられたら流石に傷付きますよ」
「お前がそんなことで傷付くようなタマかよ」

 ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らす。昨日、ようやく眠りについた土方さんは目の周りを赤く晴らしていた。特に何もしなかったので翌日まで引き摺るのではないかと思っていたのだが晴れは引いたらしい。今の土方さんに泣いた痕跡はない。

「はっきりしてねえだけでだいたいは覚えてるんでしょ」
「…………まあな」

 土方さんの視線が気まずげに泳ぐ。まあ、気まずくもなるだろう。土方さんからすればひどい醜態を晒したことになる。それをネタにからかうことも考えはしたが、それよりも今ははっきりさせておくべきことがある。ここで茶化せば土方さんは口を閉ざすだろう。それくらいはわかる。茶化すにしても聞くことを聞いてからだ。

「迷惑をかけて悪かった。今後しばらく酒は控える。もうあんな真似はしねえから安心して、」
「それは別に構わねェんですがね」

 土方さんは勝手に話を締めくくろうとしている。それは良くない。俺と土方さんでは気にかけている場所が違う。俺が気にしているのはそんなことではなかった。迷惑だなんて今更だ。散々振り回され続けていたのだから度を越えた迷惑をひとつやふたつ増やされたところでどうということもない。いや、先の迷惑を記憶していないからこそ土方さんは申し訳なく思っているのか。記憶にないほど恐ろしいこともそうないだろう。
 土方さんの言葉を途中で遮り、自分の望む方へ話を持っていこうとする。自分が気にかけていたことをばっさりと切り捨てられ、土方さんに動揺が滲んだ。

「どうでもよくねえだろ。あんなもん、下手したら」
「まあ、無理強いはよくねェですけどね。いざとなりゃ突き飛ばすくらいはできましたし、俺がそうしなかったってことは嫌じゃなかったってことだって……そう解釈はできねェんで?」

 動揺。困惑。
 そんなことは考えたこともなかったのだろう。そうだとしたら俺を避けていたのも納得できる。酔って意識が不確かだったとは言え、無理を強いたという罪悪でまともに顔が合わせられなかったのだろう。あまり俺のことを馬鹿にしてないでもらいたい。それならとっくに文句を言いに来ているに決まっているだろう。他でもない土方さんの弱みだ。俺が活用しないはずもない。

「終わったことはいいでしょ。それよりも俺がはっきりさせてェのはなんでアンタがあんなことをしたのかってことでさァ」

 日中の屯所だ。近くに人の気配はないが、いつ誰の耳に届くかわからない。それゆえに口にする言葉はひどく漠然としたものになる。それでも意味を理解するには充分だろう。わからないとは言わせない。そんな苦しい理由で逃げるのならはっきりと口にしてやる。秘めた脅しを実行に移すことはなかった。

「……」

 土方さんはむっつりと口を固く引き結んだ。口を開く様子はない。だが正解は土方さんだけが持っている。俺がいくら予想を立てたところで意味がない。それ以前に、予想もできなかった。一晩経ってもあの時の土方さんが何を考えていたのかがわからない。酔っていたと言われればそれまでだが、酔っていたとしても思い付きもしないような行動はとらないだろう。どんな突拍子のない行動であれ、そこに土方さんの意思が存在していたというのならはっきりさせておかなければならない。
 土方さんは未だ、沈黙を保ち続けている。土方さんからすれば醜態と呼ぶ他ないのだろう。それを掘り起こすことに躊躇いがあるのは理解できなくもない。だが黙したままであることを許すつもりはなかった。土方さんが罪悪を抱いているのならばやりようはある。さて、どう言えばこの人は最も早くに口を割るだろう。最適な言葉を探す。だが俺がそれを口にすることはなかった。

「……ここでは話せねえ」

 今は人気がないが、誰も来ないとは言い切れない。そんな中では話せないと土方さんは言う。時間稼ぎのつもりなのかもしれないし、本当にそう思っているだけかもしれない。どちらでもいい。土方さんの口から真相が聞き出せるのなら多少時間が前後するくらいはどうということもない。

「わかりやした。じゃ、仕事が終わった後で」
「おう……」

 俺があっさり引くとは思っていなかったらしく、土方さんの表情に驚きが浮かぶ。……一度、この人の中で俺がどういう扱いになっているのかを確認する必要があるんじゃないだろうか。いや、とりあえずそれは後でいい。
「部屋は俺が用意しとくんで」
 有無を言わさずそう決定事項を告げると土方さんが猜疑の目を向けてくる。つくづく信用がない。

「心配しなくても変な部屋なんか用意しませんって」

 今回は、という言葉を飲み込み、容赦なく向けられる疑いを和らげることだけに努めた。





  ◇ ◇

「ラブホじゃねえか 」

 部屋のドアが閉じて開口一番、土方さんはそう叫ぶ。予想範囲内だ。有無を言わさずここまで案内してきたのでここまで口を挟めなかったのだろう。ずっとそわそわと何か言いたげにしていたのは気付いていた。表情からして賞賛ではないことも察しはついていた。むしろここまでよくもまあ耐えていたものだと思う。部屋へ入っていくらか警戒が薄れたのだろう。だが外へ漏れてしまわないように声量をやや絞っているのがこの人らしい。そこまでして口にしなければならないツッコミだっただろうか。それだけならさっさと言ってしまえばよかっただろうに。

「場所の指定なんてなかったでしょ」

 ようは人目を気にせずゆっくりと話し合いが持てればいいのだ。それならビジネスホテルだろうとラブホテルだろうと、どこだって構いはしないだろう。ラブホテルを選んだのは土方さんの反応を楽しみたかっただけで、それ以上の意図はない。黙っていた方が面白そうなので言うつもりはないが。警戒心が跳ね上がっているのは見ていればわかる。だが誤解は放置しておく。面白いので。

「……はあ、お前に任せるんじゃなかった」

 心底後悔したという風に土方さんがそうぼやく。土方さんが黙々と仕事をしている間に部屋を探して用意もしたのに、そこまで言うことはないのではないだろうか。不満を口にされることは予想していたが、思わずむっと口を歪めてしまう。

「誰にも聞かれず話ができるんならどこだっていいでしょ」

 この人が求める条件は満たしているはずだ。だから文句を言われる筋合いはない。そう反論すれば土方さんの表情がますます歪む。いやいやいや、と即座に否定が返ってきた。

「隣の部屋からあんあん聞こえてきてんだろうが。ここ、どう考えても壁が薄いだろ」

 ぴ、と右側の壁を指差す。そちらの方向からは確かに喘ぎ声が聞こえていた。ラブホなのだから使い方としては正しいだろう。だがその声がこうもはっきりと聞こえてくるのは確かに問題だ。壁が薄いことを気にしてか、土方さんの声量がいつもより絞られている。確かに防音性は低い。土方さんはそれがひどく気にかかるらしい。意識がちらちらと隣の部屋へと向いている。ろくに調べもせずに立地だけで適当に決めたのがよくなかったらしい。

「あっちはよろしくやってんだからこっちの声なんて気にしやせんって」

 そこまで気にする必要はないだろう。そう返しても土方さんの表情は渋い。納得していません、とその顔に書いてある。そんなに聞かれてまずい話をするわけでもないだろうに、というのは地雷だろうか。俺にとってはともかく、この人にとっては誰にも聞かれたくない話なのだろう。場所を変えようと言い出しかねない雰囲気だ。それは面倒なのでできれば回避したい。相変わらず渋いままの土方さんの表情を眺めつつ、動向を探る。幸いにも土方さんが場所の移動を申し出ることはなかった。

「……まあいい。さっさと話して出るからな」

 安心できないので長居するつもりはない。だが今すぐ出ていくほどでもないと。気がそぞろなのは隠しもしない。落ち着かない様子で煙草をふかし続け、吸い込んでいた煙を吐き出す。濃厚なそれを吸い込んでしまわないように距離を取ると自然とベッドへ行き着いた。この配置には既視感がある。あの時に比べるとベッドは随分と安っぽく、どぎついピンク色をしているが。
 土方さんにとって煙草は精神安定剤だ。ぷかぷかとしきりに吹かすことでなんとか通常状態を保っている。表情には出ていないが常より煙草の減りが早いように思う。緊張しているのだろうか。無理もない。これからのことはきっとこの人が話したくないと思っていることなのだろうから。
 ドSだなんだと言われる俺だが鬼ではない。話し出すタイミングくらいは好きにさせてやろうと口を挟まずにいた。暫くは無言が続くのではないかと、そんな風に考えていたのだが土方さんの切り出しは随分と早かった。

「最近飲み歩いてたのは自棄酒だ。付き合わせて悪かった」

 確かにそれも気になっていた。土方さんはああいった飲み方はあまりしない。何か理由があるのだろうと見当はつけていたのだが尋ねはしなかった。近藤さんにならともかく、俺にそんな話はしないだろう。無駄だとわかっていた、だから聞かなかった。ああ、いや、違う。問うて、答えをもらえる場所にいないことを再確認してしまうのが面白くなかっただけだ。半分ほど自業自得ではあるが。

「はあ、でも介抱に駆り出されたのはあれ一回だけですし」
「外で俺が酔い潰れた時は毎回お前が連れて帰ってたんだろ」
「!」

 隠していたはずの事実を突きつけられて動揺する。隊士への口止めはした。あいつらがそう簡単に口を割るとも思えない。いや、どうだろう。俺より土方さんについた方がまだ望みあると判断したとしたら。……口を割ったのはどいつだろう。とりあえず探し出して灸を据えておかなければ。

「言っとくがうちのじゃねえぞ。万事屋から聞いた」
「は? 旦那?」

 土方さんと旦那は気が合う。馬は会わないのだが行動や思考の根本的なパターンがよく似ている。そのためばったりと出会ってしまうことが多く、ここ最近はその頻度があきらかに上がっていた。飲み歩いていたせいで旦那の行動範囲に寄り過ぎていたのだろう。実際俺が迎えに行った時も何度かは仲良く酔い潰れていた。会えばいがみ合うくせに何故出逢えば一緒に飲むのだろう。……いや、今気にするべきところはそこではなく。

「おう。あんまりお前の手を焼かせるなってな」
「……そりゃあ、清々しいほどの棚上げですねィ」

 酔った旦那を迎えに来るのはだいたいは姉御のところの眼鏡だ。きちんと確認したことはないが俺よりあの眼鏡の方が間違いなく年下だろう。部下に連れ帰られている時点で五十歩百歩ではあるのだが、どちらかと言えば旦那の方がアレなんじゃないだろうか。まあ、土方さんにも非はあるが。
 土方さんが酔い潰れていても旦那はほろ酔い、ということもあったので俺のことを覚えていたのだろう。というか。何回かは旦那に呼び出されたので覚えていて当然か。
 まさかそこから土方さんにバレるとは思いもしていなかった。黙っていてくれと頼んでいなかった俺が悪いわけだが。

「……まあ、あそこまで悪酔いしてたのは初めてだったんで、たいした手間でもなかったのは本当です」

 大の男を連れ帰ってくるのが手間でないはずがない。溜め込んでいた不満をぶち撒けてしまいたいとも思うが、それをすればそれでは何故他へ任せなかったのかと問われるだろう。だから嘘をついた。少し考えれば嘘だとわかる。土方さんだって酔い潰れた近藤さんを連れて帰ってくることがある。自分よりも体格のいい酔っ払いの介抱が楽なはずもないとよく知っている。だが土方さんがそれを指摘することはなかった。そうか、とそれだけ返してそれ以上探って来ようとはしない。ありがたいが、同時にそういうところを腹立たしくも思う。見透かされているような気がして、面白くない。
 深酒については追及するつもりはなかった。だが土方さんは俺のそんな気遣いを無下にし、自棄酒の理由についてぽつぽつと話し出す。その寸前に吐き出された紫煙に巻かれ、表情が窺いにくい。

「慣れねえことやってると苛々してきてな、つい酒に逃げた」
「アンタが苛々してんのはいつものことでしょ。酒じゃなくてカルシウムとれよ」
「うるせえ。それとこれとは話が違うんだよ」

 素直にカルシウムをとる気はなさそうだ。まあ、本気でアドバイスしていたわけでもないので構わないが。

「何に苛々してたかっていうとアレだ……この前の」
「この前?」

 どの前だ。口にすることを躊躇しているのはわかるが、ふわふわとした言い方をされては何の話かわからない。俺が首を傾げれば土方さんが苛立ったのがわかった。いや、いまのだけで理解するのは無理があんでしょうが。

「前にホテルで話しただろ」

 土方さんはなんとしても確かな言葉を使いたくないらしい。それが何故かはその発言で察した。

「……ああ、どっちが女役すんのか決めた時の話ですか」
「ばっ…! 声がでけえ!」

 いや、アンタの声の方がでけえ。よほど隣にカップルが気になるらしい。あっちは俺達のことなど気にもしていないようで、相変わらずあんあんぎしぎしとうるさい。男の名前はカズくんと言うらしい。余計な情報を得てしまった。
 この人はこういうところがある。普段はあけすけとしていた恥じらいなど欠片も持ち合わせていない。そのくせたまにこうして羞恥を抱く。何がポイントなのかはよくわからない。生娘モードに入った土方さんに任せていてはいつまでも話がふわふわとしていそうなので、先を促す。

「で? それがなんですか」
「う……だからその、俺がそっち側なら準備が必要だろ……」
「準備? ケツ穴広げたりすることですか?」
「そっ…… 」

 土方さんの髪がぶわりと逆立つ。猫のようだと思いつつそれを眺めていると、すぐに土方さんは落ち着いた。瞬間的に湧き上がった激情は吐き出されることなく萎んでいく。そうして溜息。紫煙がそれに混じり込む。

「そうだな、まあ、それだ」

 何か言いたげにしているものの、土方さんはそう認めた。他に言いようもないだろう。それなのにもの言いたげな目を向けてくるのは何故なのか。

「つまりあれですか。アンタは抱かれるために一人でケツ穴広げてて、慣れねえことしてるストレスで酒に走った、と……」

 土方さんからの視線が痛い。だがこれまでの情報をまとめるとそうなるだろう。たったこれだけのことをまとめるのに随分と時間を要した気がする。土方さんは相変わらず渋い顔をしている。何か言いたいことでもあるのかと問えば否定を返された。

「……そうなるな」

 ゆっくりと息を吸い。煙で肺を満たしていく。

「お前に任せきりにするつもりはなかったしな」
「童貞に任せてたら血を見そうで怖ェって?」
「……そうは言ってねえだろ」

 気持ちはわからないでもない。他人に身体を預けるなどそうできることじゃない。相手が童貞であることを考えると自分でできることは前もってやっておこうと、そう考えるのも理解はできる。だが面白くないと思うのも事実だ。

「ストレスってことはやっぱ抱かれんのは嫌ですか」

 役割は決まったが、最初の土方さんの希望は抱く側だった。それを同情で捻じ伏せた。それに関して後悔はない。だが酒に逃げるほどのストレス源になるのなら考え直す必要がある。言い包めてねじ伏せることは可能だ。だがそうして我慢を強い続ければ遠くない内に破綻するのはわかりきっている。

「そうだとしたらあんな真似しねえだろ」

 土方さんは不満げにそう口にした。あんな真似とは、どれのことだろう。首を傾げると苛立たしげに「昨日の晩」と付け加えられる。いや、はっきり言わないアンタが悪いんでしょうに。そう思いはするが口にしたが最後、口論になってすべてが流れてしまう気がしたので飲み込んだ。誰か大人な俺を褒め称えてくれてもいいんじゃないかと思う。
 昨晩と言えば、土方さんが唯一覚えている夜のことだ。あの晩の土方さんは異様だった。その行動すべてがらしくなく、理解が及ばなかった。腹の中をいくらか聞いた今でもそれは変わらない。
 煙草を持っていない方の手が落ち着きなく動く。胸のあたりまで持ち上げられた左手は握り込まれ、かと思えば開いて四方へ広げられる。

「三本くらいならな、入るんだよ。だからまあ、いけるんじゃねえかと」

 一人で黙々と進めていた拡張作業は順調に進んでいたらしい。嘘をつくことで土方さんにメリットはないが、その言葉を素直に信じることができない。何故って、実際にこの目で見たからだ。

「指一本でだいぶきつそうでしたけど」

 気持ちよさそうにしろとは言わないが、それにしたってあれはあまりに苦しげだった。あんな様子で指が三本も入るとは到底思えない。不信をあらわにすれば土方さんは「ああ……」と気の抜けた声を上げる。

「そりゃなんの道具もなく突っ込めばな。酔っててそこまで気が回らなかったんだろ」

 他人事のようにそう言って、ベッドに近くにある棚へと手を伸ばす。そこから迷いなく何かを取り出し、ベッドへと放った。
 筒状のそれの中には透明な液体が詰め込まれている。容器の回転に中身も追従するが粘度が高いためかその動きはひどく鈍い。筒の回転が止まり、少し遅れて中身も動きを止める。回転の勢いを殺しきれず、たぷんと波打った。

「……ローション有りなら痛くねェんで?」
「違和感があるくらいだな」

 恥じらいポイントは通過したのか土方さんは堂々としている。これはいいのか。よくわからない。そこまでぼんやりと考えたところでふと思い至る。この状況はいわば据え膳なのではないだろうか。
 土方さんのふてぶてしい態度を見るに、この人は何も気付いていないのだろう。男としてそれはどうかと思わなくもないが、警戒心を剥き出しにされるよりはマシか。

「最近俺を避けてた理由もそれですか」
「……まあ。準備が終わらねえと何もできねえしな」
「だからって極端すぎやしませんか。アンタが不機嫌振りまくせいで隊士共が怯えて可哀想でしたぜ」
「あァ? 不機嫌だったのはお前だろ」
「はあ?」

 先日も指摘されたが、不機嫌になった記憶など俺にはない。土方さんの勘違いだ。一体何を誤解しているのだろう。指摘された時のことを思い返す。あれは確か眠っている土方さんに触れた次の日で……。

「あ」

 思わず挙手をすると土方さんの肩がびくりと跳ねる。急に俺が動き出したことに驚いたらしい。一応発言許可を求めたわけだが、本当に許可を得たいわけではない。土方さんは未だに動揺していて許可を下ろしそうにないので勝手に話し出す。土方さんの言いたいことはわかった。不機嫌に見えたのはあれのせいだろう。

「ついでなんで白状するんですけど、その前の晩アンタに手出しました」
「は 」
「不機嫌そうに見えたのは不完全燃焼だったせいだと思うんですが」

 あの後こっそりと抜きには行ったのだが、上手く熱が抜けきらずに翌日も持て余していたはずだ。その上目の前に本人がいるとなれば平静を装うために神経を尖らせていただろう。土方さんから見ると不機嫌に見えたのだと思う。他に心当たりがない。
 なんだそんなことかと腑に落ちた俺とは反対に土方さんは混乱に落ちたようだった。左手で顔をべたりと覆い隠し、その下で視線をうろうろと泳がせる。手で覆いはしているものの、完全に目が隠れているわけではない。

「え、ちょっと待て。お前、何……俺のことそういう目で見れんのか」
「はあ?」

 何を言い出すかと思えば。……いや、本当に何を言い出したのか。そこからか。何故そんなところでこの人が足踏みしているのかがわからない。何故そこで引っ掛かる。その疑問は根底を覆してしまうものではないのか。むしろその疑問を解消せずに今までよくもまあ拡張を続けられたものだ。思わず頭を抱えたくなるが、それは後にしよう。

「そりゃそうでしょう。でなきゃ抱こうだなんて発想出て来な…………ちょっと、なんでィその顔」

 心底驚いていますという顔だ。口は薄く開き、銜えている煙草は辛うじて唇の上に乗っている。ちょっとした衝撃を与えるだけで取り落としてしまいそうなくらいに危なげなバランスだ。
 情報の処理が追いつかないのか土方さんは固まっている。その反応が俺からすれば不思議で仕方がない。土方さんの再起動には少々時間がかかりそうだが律儀にそれを待つつもりはなかった。しっかり銜えられていないのをいいことに煙草を奪い取る。押し付ける灰皿が手元にないのでとりあえずは手に持ったまま。空いている方の手を伸ばし、土方さんの頭を掴む。ぐいとこちらに引けば、土方さんは抵抗もなく引き寄せられる。腰を折って屈み込む。屈み込んだということはそれだけ顔が近付いたということで、顔が近付いたのなら当然口も近くなる。ベッドに転がり込めば、引き寄せられている土方さんも引きずられた。寝転がった俺の上に土方さんが覆い被さる。そのまま引き寄せられるに任せていては俺を押し潰してしまう。土方さんは俺の肩近くに手を突き、身体が落ちていくのを阻んだ。引き寄せる力を強めれば逆らいきれず、土方さんは突き立てていた腕をがくりと折った。完全に支えを失って倒れてくるようなことはないが、それでも距離は随分と縮まった。だがそれでも少し足りない。摑んでいた頭を支えに身体を浮き上がらせる。そうしてかさついた唇へと食らいついた。

「ん、ぐ……」

 ぎゅうと眉間に皺が寄る。その表情はどういった感情から来るものだろうか。わからないが拒絶ならば押し戻されるはずだ。それがなかったのをいいことに舌を滑り込ませる。苦い。先ほどまで煙草に占領されていただけあって口内は余すところなく苦い。思わず表情が険しくなってしまうが仕方がない。苦い。苦い。苦味を舐めとるようにべたべたと舌を這わせるが苦味は口内にこびりついていて失せる気配がない。苦いのは好きではない。そう訴えたところで土方さんが禁煙することはないだろう。この人の口の中はいつだって苦い。苦いのが嫌なら、苦いとわかっているなら触れなければいい。そうわかっていても生憎俺の中にそんな選択肢はない。実際に今も、表情を歪めはするものの離れる気は更々ない。
 首にぶら下がっている状態であるため、土方さんには負荷がかかっている。しばらくはぶら下がったままでいられたが、そのうちきつくなってきたのだろう。高度が少しずつ落ちていき、やがて俺の身体はベッドに戻った。だが土方さんと離れたわけでもない。土方さんの方が落ちてきたのだ。これまで以上に肘を折り曲げ、己の重みだけを支えている。文句を言い連ねてきてもおかしくないところだが、今のところ振りほどかれる気配はない。
 好き勝手に動き回っているのは俺ばかりで、土方さんの舌は俺に押されるまま、搦め捕られるままにその形を変える。口内で唾液が混じり合って水音を立てる。
 どれくらいそうしていただろうか。腕を掲げ続けていたせいで感覚が少し鈍い。この状態を維持し続けることは可能だが、限界を訴え始めた腕を無理にそのままにしておく必要もないだろう。頭を摑んでいた手をするりと解く。離れた手は土方さんの身体を伝い、重力のままにシーツの上へと落ちた。ぱたりとシーツを叩く音がしたところで土方さんが少しだけ身を起こす。それを捕らえ阻むものはなく、重なっていた唇が離れていく。どちらからともなく篭っていた息が吐き出され、その間で巡った。至近距離でいるために目が合う。そこまできてようやく、これまで思っていたことを口にした。

「ここまでしといてアンタのその認識はいかがなもんかと思うんですがね」

 身体を重ねたことこそないが、この程度の交わりなら幾度もあった。それなのにどうして俺が土方さんのことを対象としていないだとか、そんな発想になるのだろう。土方さんの黒髪が重力に負けて垂れ落ちている。短いために俺にかかってくるようなことはないが、土方さんの顔に影を落とすには充分だった。土方さんの瞳の色は暗い。それが影にあることで一層その暗さを増していた。
 開いた距離をまた縮めようと手を伸ばす。だが俺の手が届くよりも早くに土方さんは仰け反るようにして距離を取った。伸ばされた俺の手は何を掴むこともなく宙を掻く。ばらばらと乱れた指先が掌へと戻ってくる。

「……しねェんで? ラブホ来てやることはひとつでしょ」
「ここ用意したのはお前だろうが」

 何も言わずについてきておいてそのつもりはなかったなんて、そんな言い訳は通じないだろう。そう反論しようとしたところで煙草を奪い返された。

「あ」

 長らく奪っていた煙草は随分と燃え、先端に灰が溜まっていた。今にも割れ落ちてしまいそうだったが、土方さんは構う様子もなくフィルターへ口をつけた。息を吸う。先端がちりちりと赤く燃えた。灰はぼろぼろと崩れ始めていて今にも落ちてしまいそうだ。

「……しねえとは言ってねえだろ。これからしばらくは仕事が詰まりそうだしな」

 逃げられたせいで変な格好のまま固まった俺の頭を撫でる。乱暴に撫でるせいで髪はぐしゃぐしゃに乱れてしまう。

「準備があるんだよ。ちょっと待ってろ」

 そう言って俺から距離を取り、備え付けてあった灰皿へ煙草を押し付ける。積もっていた灰が押し潰され、灰皿の中で舞い上がる。
 すぐに俺へ背を向けたせいで土方さんの表情は窺えない。ただ髪の隙間から覗く耳朶が真っ赤に染まっていることだけは辛うじて確認することができた。




  ◇ ◇

 男の身体は種を植え付けるものとして作られている。そのために受け入れるための機能は備えていない。それでも受け入れることは不可能ではない。手間をかけなければならないが。
 何をどうしなければいけないのかは知識としては一通り知っている。だから浴室へ引っ込んでしまった土方さんが何をしているのかはおおよそ見当がつく。手伝いを申し出てみたが頑なに拒否されたので手持ち無沙汰だ。浴室の気配を探ろうにもシャワーが常に流れ続けており、水音に掻き消されてしまってよくわからない。時折他の物音が混じることがあるので逆上せて気を失っているということはなさそうだ。
 時間の流れが遅い。ベッドでごろごろしていると眠気が襲ってくる。眠ってはいけない。わかっていても退屈に負けて瞼が重くなっていく。重たい瞼を持ち上げ続けるのは難しい。絶え間ない水音も少しずつ遠のいていった。膜がかかったように遠くに。

「おいコラ」

 頭に軽い衝撃を与えられ、瞼が持ち上がる。驚いた拍子に瞼にぶら下がっていた重りはすべて吹き飛んでしまった。顔を上げれば土方さんが俺を見下ろしている。

「何寝ようとしてんだ」
「……起きてたじゃねェですか」
「今にも寝そうだったろ」

 戻ってきた土方さんの格好は変わらなかった。アメニティとしてバスローブが用意されていたはずだがそれには手をつけなかったらしい。

「……まあいい」

 土方さんは追及することを諦めたらしい。その諦念を溜息に混ぜて吐き出す。そうしてベッドの上へ腰をおろした。一見すると何も変わらないように見える。だが湯によって身体はあたためられている。衣服の隙間から覗く肌は熱によって赤く火照っていて、触れればやはり熱い。
 身を起こそうと肘を突く。それによって上半身が立ち上がろうとするのだが土方さんがそれを制した。額に指を押し付けられ、それ以上身を起こすことができない。

「土方さん?」
「そのまま寝てろ」

 額に押し当てられる指は一本二本と増えていき、それによって力も増していく。体勢のせいでそれに抵抗することもできず、起こした身体は再びベッドに転がってしまう。

「寝てろって……」

 そういうわけにもいかないだろう。おおよその準備は土方さんがいましがた済ませて来たのだろうが、それでも何もしなくてもいいなどということはないはずだ。この体勢では動きにくい。それだというのに土方さんは頑なに俺をベッドに縫い付けたがった。俺が困惑している間、土方さんは俺の上へと跨る。身を起こそうとしても阻まれてしまう。そんな俺ができることはそう多くはなく、土方さんの脚へと手を這わせた。跨る土方さんを押しのけようとその脚を押す。だがその程度で乗り上げた身体が押し退けられるはずもない。這わせた手は膝あたりからのぼっていき、付け根へと至る。そうして手を滑らせたことで気付いた。

「アンタ、なんで履いてねェんで?」

 着流し越しだが、それでも触れれば下着を履いているかくらいはわかる。何度触れてみても下着の感触がない。この人は間違いなく下着を履いていない。全く同じ姿をしているという前言は撤回しなければならない。
 困惑のままに問いを投げかけるが土方さんが不思議そうに俺を見返す。いや、そんな顔したいのは俺の方なんですが。

「どうせ脱ぐんだから履き直す必要はねえだろ」

 そうだろうか。そうかもしれないが、そういうものだろうか。いや、それは少々色気に欠けるのではないだろうか。

「そんなこと言うんだったら全裸で出て来るべきだったんじゃないですか」

 土方さんが言っているのは合理性の話だ。どうせ脱いでしまうのだから、という理由でいくなら着流しも同じだ。湯冷めすると言っても室内の温度を調整すればいいだけで、着直す必要はないだろう。着流しは着ているくせに下着だけ履かないというのは不自然だ。いや、自然とか不自然とかそういうことを言いたいわけではないのだが。
 俺がそう反論すれば土方さんが首を傾げる。眉が目へと近づき、険しい表情になった。

「これは脱がなくてもいいだろ」
「…………初っ端から着衣プレイですか」
「お前、そういう俗っぽい言い方するのやめろ」

 俗っぽいもなにも、他に言いようなどないだろう。別に嫌だと言うわけじゃない。ただ意外に思っただけだ。土方さんはノーマルというか、スタンダードな手法を好みそうな気がしていた。実際にこっち方面の話などしたことはないのであくまで俺が抱いていたイメージだ。現実がイメージと違うのは珍しいことでもない。ただ本当に、意外だっただけだ。この人がそう望むなら異論はない。これきりではないのだから己の希望はおいおい叶えていけばいい。だから何気ない発言のつもりだった。だがそれは予想外に土方さんを悩ませたらしい。眉間の皺が深くなり、何やら悩む様子を見せる。

「脱ぐと色々見えるだろ。お前は脱ぎたきゃ脱げばいいけどな」
「? 色々見えるって、アンタなんのこと言ってんですか」

 服を脱いだところで見えるものは変わらないだろう。何を言っているのかがわからなくて思わず言葉を返してしまう。俺の言葉に土方さんが困惑を深めたのがわかった。

「何って、女にあって女にはないもんが色々とだな……」

 ここまで来ても言葉を濁すのか。それでも言わんとしていることは理解した。わかったが、それでも土方さんの主張を根本的に理解することができない。

「女にはないもんって言うとチンコとかですか。そりゃ男なんだからあるでしょ。見られて何か不都合でもあるんで? 皮被ってるわけでもねェでしょう」

 見られるのが恥ずかしいサイズというわけでもない。そもそも露出することが恥ずかしいのかもしれないが、これからやることを考えると今更だ。チンコを見られるよりももっと凄いことをしようとしているのに何を恥じらうことがあるのか。本当に土方さんの言いたいことがわからない。わからないなりに理解しようと言葉を重ねていると、上から深い溜息が落ちてきた。見れば土方さんは手で顔を覆い隠している。その隙間から覗く表情には色濃い疲労が見てとれた。まだ始まってもいないのに何故もう疲れているのか。

「なんでテメーはそうあけすけと……」
「アンタがまわりくどいんでしょうよ」
「誰が回りくど……いや、いい。それよりもさっきの話だ。……見えてたら萎えるだろ」
「は?」

 もう、言葉を重ねるほど土方さんが何を言っているのかがわからない。何かが決定的に噛み合っていない。それはわかるのだが何がどう噛み合っていないのかまではわからない。食い違っているものを正すのは難しい。かける労力を考えると途方もなく面倒になって、投げ出してしまいたくなる。噛み合っていなくてもやることはやれる。放棄は不可能ではない。少しだけ悩んで、結局そうはしなかった。ここで放置すれば食い違いは更に大きくなっていくだろう。遅かれ早かれ面倒だ。それなら少しでも小さい内に片付けてしまった方がいい。

「アンタを女だと思ったことはねェんで、チンコがついてることくらい知ってます。今更それを見たところで何も変わんねえでしょ。……アンタは違うんで?」

 俺とは違い、土方さんには夜伽の経験がある。立場が変わっても、それでも違和感は拭えないだろう。柔らかい肌。艷やかな声。指の間をすり抜けていく水のような髪。どれも俺にはないものだ。これまでの記憶と照らし合わせれば違和感を抱いてもなんの不思議はない。
「むしろ俺としては見えてる方がわかりやすくていいんじゃねェかと思うんですが」

「……わかりやすい?」
「気持ちよくないと勃たねェでしょ」

 男とはそういうものだ。いくら演じたところでチンコは嘘をつけない。何もかもが初めてのことで挙動のひとつにすら不安がつきまとう。判断材料のひとつとしては優秀だと思う。正直にそう口にすれば土方さんの表情が更に困惑で歪んだ。だいたい、その程度で怯むならそもそも抱きたいだなんて言い出すはずもないだろう。そうきっぱりと否定しても土方さんは迷う。一度己の中で出してしまった結論を覆すことに躊躇っている。気持ちはわからないでもないが、いつまでも固まっている姿を見ているだけでは退屈だ。起き上がろうとすると阻まれてしまうが、それ以外の動きは問題なく行える。硬直している土方さんへ手を伸ばし、腰回りへ巻きつけられている帯を引いた。

「っ!」

 しゅるりと布擦れの音をさせ、帯が引き抜かれる。解けたそれをベッドの外へと放る。帯が消えたことで着流しはまとまりを失い、前から肌蹴ていく。身体の前でひらひらと揺れるそれを手で軽く払いのける。

「……お前も脱げよ」
「俺はどこからどう見ても男ですけど、裸なんか見て萎えやせん?」
「あァ? 何意味わかんねこと言って……」

 柄悪く俺に噛み付こうとした土方さんが不自然なところで口を止めた。既視感に気付いた。開いていた口をゆっくりと閉じられる。そう、先ほど土方さんが言っていたのはそういうことだ。立場をひっくり返したことでようやく土方さんにも俺が感じた困惑が伝わったらしい。苦虫を噛み潰したような顔で俺をじっと見下ろす。それから。

「……いい。脱げ」

 無愛想にそれだけ言うと己の着流しへ手をかける。そうして迷いのない手付きで、雑に袖から腕を抜いていく。土方さんが纏っていたのは本当に着流し一枚だけで、それを剥いでしまうとすべてが惜しげもなく晒される。着流しに覆い隠されていてもわかっていたことではあるが、すべてが晒されたことでしっかりと筋肉がついていることを改めて認識する。これまで負った傷が痕になり、身体の至るところへ残っている。いつつけられたものかまではわからない。俺がいない時にできた傷もあるだろう。
 促されるままに俺も己の衣服へ手をかける。着流し一枚の土方さんとは違ってこちらは袴なので脱ぐのに少々手間がかかる。組み敷かれている体勢でいるから余計に。土方さんが上から退くことはなく、脱衣を手伝う気もないらしい。俺の上から棚へと手を伸ばし、ごそごそと何かを探している。さりげなくその動向を窺っていると、土方さんがローションを手に取ったのが見えた。
 一度取り出されてはいたのだが、視界に入っていると落ち着かなかったので元の一に戻してしまっていたのだ。それを土方さんが再び持ち出してきた。必要なものだ。それはわかる。どう扱うべきかも知っている。知っているだけで実践経験はないが。
 土方さんの下でもぞもぞと蠢く。少ない可動域で藻掻いてなんとか袴を解き終える。この体勢でなければもっと早くに脱げるのだが。などと思いつつ、解いた袴を横へ引いて身体から離していく。下敷きになっている袴は少しずつ引きずり出され、なんとか袴をベッドの外へやることに成功した。それとローションの蓋が開けられたのは同時だった。
 ぱくんと音がする。勢い良く蓋が開いたところで土方さんはボトルを逆さにし、その胴体を押し込んだ。容器の中で揺蕩っていたローションが押し出され、どろどろと垂れ落ちていく。そうしてその下で待ち構えていた土方さんの手へと落ちていく。ゆっくりと落ちてくるそれは掌をひたひたと満たしていく。平たな掌はそれほど多くを溜め込んでいくことはできない。溢れてしまう前に容器を離し、元のように蓋を閉じた。ぱち、と噛み合う音。ローションで濡れた手はてらてらと光っている。溜め込んだそれを零してしまわないように慎重に。土方さんの手は落ちていき、そうして下肢へと潜り込んだ。

「んっ」

 土方さんの声が跳ね、身体に力がこもる。体勢のせいでそのすべてを確認できるわけではない。だが手の向かう方向で何をしているのかは予測がついた。ぐちゃりと水が潰れるような音がする。ここからでは見えない。だが音と、表情でどこに手が這わされているのかはわかる。気の進む行為ではないのだろう。浮かべている表情は渋い。不快感と闘っているかのようにその眉間には深い皺が寄る。集中するためか視線は伏せられていたが、そのうちに持ち上がる。そうして目が合うなり俺を睨んだ。息が押し殺されている。

「ぼーっと見てねえで手、動かせ」

 気付けば衣服を剥ぐ手は止まっていた。指摘されたことでそれに気付き、手を伸ばす。寝転んだ体勢で着流しを脱ぐことは難しいので肌蹴させるだけで諦める。そうしてその下へ手を潜り込ませ、トランクスをずり下げた。少しでも脱ぎやすいようにと腰を浮かせれば土方さんにぶつかってしまう。脚を折り曲げて、窮屈な中でなんとか脚を引き抜く。トランクスを剥ぎ取れば兆していた自身が露わになる。それを目にし、土方さんはぱちりとゆっくり瞬いた。

「なんでィ、ここで何の反応もしてない方が問題でしょうよ」

 そう返して睨み上げる。そう、俺は正常。おかしいのは土方さんの方だ。すべてを脱ぎ捨てたおかげで土方さんの反応を窺うことができる。完全に起ち上がっている俺とは違い、土方さんの息子はへたりと頭を垂れている。完勃ちさせていろとは言わないが、全く兆していないのは問題なのではないだろうか。実は乗り気ではないのかもしれない。そんなことを考えて表情が曇る。それに気付いているのかいないのか、土方さんの視線が露骨に逸れた。

「……緊張してんだよ」

 渋々という様子を隠しもせずに土方さんはそう絞り出す。視線が逸れたのは気まずかっただろうか。そんなことを考えながら棚へと手を伸ばす。これからやることはひとつだし、それならばいるだろう。ホテルへ元々備え付けられているコンドームはこれまたどぎついピンク色だ。本体までそんな過激な色合いでは萎えてしまいそうだ、などと考えたのは杞憂だった。包装こそ主張が激しい色合いだったものの、本体の色は随分と淡い。それでもピンクであることに変わりはないが、この際我慢しよう。コンドームというものを本来の目的で使ったことはないが、それでも使い方ぐらいはわかっている。封を切ったそれを少しずつ自身へ被せていく。薄い膜とは言え、何かに包まれる感覚は違和感があった。じきに気にならなくなるのだろうか。
 そうして準備を進めているうちに土方さんの視線が戻ってくる。それはちょうど俺が脱いだトランクスを投げ捨てたところだった。視線が合わない間も見えない場所ではぐずぐずと水音が立ち続けていた。だがそれが不意に止む。後ろへ潜り込んでいた土方さんの手が離れていく。離れた手はシーツへと突き立てられ、それを支えに土方さんの身体が浮き上がる。距離を取ろうとしているのかと思えばそうではないようで、位置を調整しているらしい。左手はシーツへ突き立てられたまま、右手がうろうろと彷徨う。土方さんにとっても死角だ。そのためか右手の動きには躊躇いがつきまとう。それでも止まることはなく、ゆっくりと手探りに俺へと触れた。

「うっ!」

 思わず身体が跳ねるのは急所に触れられたからだ。土方さんの手はそっとではあるが、兆す俺の熱へと触れた。右手の目的に察しはついていたが、それでも実際に触れられれば無反応でいることはできなかった。俺の反応を受けて土方さんの動きが一瞬止まる。だが痛みなどを感じているわけではないのだと理解すると、またのろのろと動きだした。その動きで己の予想が外れていなかったのだと確信する。触れられるのは妙な気分がして落ち着かないが、それでも手を振り払う気にはならなかった。伝播してくる緊張に当てられながら大人しく受け身になる。
 輪郭を確認するように、根元から先端へかけて手がのぼっていく。身じろぎの拍子に揺れるそれを固定するように、そっと手が添えられる。支えがあることで塔は揺れることもなく天に向かって聳え立っている。
 塔を撫でるようにつるりとした双丘がその先端に触れる。右手をごそごそとさせているうちに塗り込まれていたのだろう。その滑りのおかげでスムーズに目的地に向かって導かれていく。導かれるままに双丘の谷間を辿っていく。谷間は徐々に深くなっていき、どこまでも続いていくように思えた。なだらかだった谷間の道が僅かに窪んでいる。そこがなんであるかをわざわざ口で説明する必要はない。緊張か、土方さんの身体がぎくりと強張った。ふうふうと、荒い息を吐く。呼吸を繰り返すことでなんとか落ち着こうとしているようだがその程度で緊張は拭えないらしい。土方さんはそこからまんじりとも動かない。 
 なにせ初めてのことだ。緊張しているのは俺も同じだし、急かすつもりはない。この体勢でじっとしているのは少々辛いものはあるが、耐えられないほどでもなかった。じっと大人しく待ち、ふと疑問を抱く。今更かとも思うが、他に問うタイミングもなかった。

「そういやそのまま突っ込んで大丈夫なんですか」

 土方さんが断固として拒否したため、土方さんが準備をする姿を俺は見ていない。自分の身体に関わることなので適当なことをするとも思えないが、初心者に完璧な準備を要求するのも酷ではないだろうか。土方さんはどうにもこのまま突っ込むつもりでいるらしいが、もう少し時間をかけた方がいいんじゃないだろうか。思いやってそう言ってみたのだが土方さんは眉を吊り上げる。

「できもしないこと、やるわけねえだろ」

 言葉の端々に苛立ちが混じる。何やら地雷を踏んだらしいということはわかったのだが、この人が何に苛立っているのかはわからない、踏み抜いた地雷はとことん良くないものだったようで、じりじりと機嫌が降下していく。

「らしくねえ気遣いしてんじゃねえよ」

 そこまで言うことはないだろう。そりゃあ日頃の行いが良くないのは自覚している。だがそれはそれだ。今この瞬間にこの人を気遣わない理由にはならない。気遣いを乱暴に撥ね付けられて頭に血がのぼる。こんな状態でいがみ合っても滑稽でしかないとわかってはいる。それでものぼった血を瞬時におさえこめるほど俺はできた人間じゃない。土方さんの苛立ちに呼応して俺の苛立ちも湧き上がる。湧いて出るままに吐き出しかけた苛立ちは、結局音になることはなかった。
 押し当てられていた先端が飲み込まれる。熱に包み込まれたかと思うとびりびりとした痺れが伝わってきた。それが快楽だと理解するまでに時間を要した。身体の内から熱が沸き上がり、出口を目指して駆けていこうとする。その衝動を押し込めているうちにもどんどん深くまで飲まれていく。
 土方さんが腰を落とすほど、兆した熱は壁を掻き分けて奥へと入り込んでいく。こじあけられていく肉壁はみちみちと音を立てるが、土方さんがそれを気と留める様子はない。何も感じないというわけではないだろう。歯を食い縛り、それこそ耐える表情をしている。やはり準備が足りていないのではないか。そんなことを考えはするのだが口にはできない、土方さんの様子はどこか鬼気迫るものがあり、その圧に押されていたこともある。それから、与え続けられる快楽に翻弄されて口を開くことができなかった。口を開いてしまったが最後、みっともない声を上げてしまうように思えてならなかった。
 肉壁は俺を包み込み、形に合わせるようにぴったりと吸い付いてくる。呼吸に合わせて壁がうねる。きゅうと締めつけられる度に意識をごっそり持って行かれてしまいそうだった。それに抗うのに必死で口を開けない。抵抗など無きに等しい。そうなればこの場を支配するのは土方さんだ。
 腰を落とし続け、やがてすべてを飲み込んでしまう。圧迫感がひどいのか、表情は歪んでいる。それでも止まらない。ふうふうと荒っぽい呼吸を何度か繰り返した後に腰が浮き上がる。熱い肉壁の中から引きずり出される。中と外の温度差にぶるりと震える。ずるずると擦れ合いながら引き抜かれていき、半分ほど抜け落ちたところでその動きが止まった。ふうふうと荒い息。土方さんが動きを止めているその僅かな間だけ、辛うじて口を開くことができる。土方さんの次の行動には予測がついた。中でびくびくと打ち震える自身は限界を報せている。もう一度包み込まれればあっさりと限界を突破してしまうだろう。それはあまりに早い。一人の男としての沽券に関わる。だから土方さんを止めなければならなかった。

「ひ、じかたさ」

 荒い呼吸に邪魔をされて名前さえも満足に呼ぶことができない。声だけでは足りない。声だけでは、抑止力と呼ぶにはあまりに弱すぎた。辛うじてそれがわかっていたからのろのろと手を伸ばす。だが慣れない快楽を与えられているせいで上手く身体が動かない。土方さんが俺を見下ろしている。歪な口元が、一層歪んだ。笑っているのだと気付いた瞬間にはもう遅い。

「ッッ 」

 声も手も届かなかった。無情にも腰は落とされ、そのすべてを再び飲み込んでいく。四方から甘く締め上げられ、衝撃に息が詰まる。だがぎりぎりのところで耐えきった。

「─っ、ぐ」

 口内に力を込め過ぎているせいで噛み合わせた歯がぎりぎりと軋む。耐えた。だが根本的な解決にはならない。来るとわかっていたから身構えていられただけだ。どちらにせよ長く保たないことに変わりはない。
 土方さんはすぐには動かなかった。のろのろと手を持ち上げる。何をするつもりなのかと窺っていると、手は土方さんの股間へと向かった。土方さんの愚息はくたりと力なく垂れている。土方さんが快楽を得ていないことは一目瞭然だ。力ない自身を絡め取って己の手の内におさめる。そうしておもむろに扱き始めた。
 先ほど纏わせていたローションがまだ残っていたようで、手はするすると幹を行き来する。快楽を得ていなくても、直接快楽を与えられれば反応するようになっている。力なかったそれは直接的な刺激によって緩やかに起ち上がり始める。それはいい。快楽を得ているのはいいことだ。だが問題もある。土方さんが快楽を得ることで、それに合わせて内壁がぐねぐねと蠢いている。既にぎりぎりだというのにこれ以上の刺激には耐えられそうにない。
 一層歯を強く食い縛るがあまり意味はない。本当にぎりぎりのところで耐えているのに容赦なく追い打ちをかけられる。ずるずると肉壁の中から引きずり出され、土方さんの自重をもって再び深くまで飲み込まれる。一度はなんとか耐えきった。だが二度目は流石に無理だ。

「っっ、は─!」

 熱い。どくりと大きく脈打ったかと思うと溜め込まれていた熱が噴き出す。熱が上がったのはその数秒の間だ。それを越せば急速に落ち着きを取り戻す。俺が達したことを察した土方さんは腰を浮かせ、そのすべてを引き抜いてしまう。押し拡げられていた穴が閉じ、土方さんは唇を噛む。

「ふん。案外簡単にできるもんだな」

 鼻を鳴らしてそう言い捨てる。簡単。果たして本当にそうだっただろうか。簡単に繋がったのはあらかじめ準備がされていたからであり、土方さんが半ば無理矢理に強行したからではないだろうか。気持ちが良かったことを否定するつもりはない。だがこれでいいのかと問われれば答えは否だ。こんな一方的にいいようにされているのは納得がいかない。

「交代してくだせェ」
「あ?」
「さっきまではアンタの自由にしたんだから、今度は俺の番でしょう」

 ここに至るまでにこの人にかかっている負荷は大きい。その負担を思うのならここでやめておくというのもひとつの選択なのかもしれない。だが土方さんは何ひとつ快楽を得ていない。勃ってはいるが、それは土方さんが自分の手で育て上げたものなのでノーカウントだ。このまま、こんなところで終わるのは俺のプライドが許さない。
 そう切り出せば警戒が滲む。無理もない。快楽を得ていないのならこの行為はただ身体に負荷をかけるばかりだ。好んで続けたくはないだろう。主導権を譲るとなれば尚更だ。こういった局面で身体を預けてもらえるほどこの人からの信用を得てはいない。なにせ日頃の行いが悪い。それはわかっている。だがこの人に主導権を握らせたままでは繰り返すだけだ。多少強引にでも主導権を譲り受けなければならない。幸いにしてこの人の扱いは心得ている。

「もうきつくて無理って言うんなら無理にとは言いませんけど。俺と違ってアンタもう若くねェですし」

 気遣う素振りで挑発すれば、額に青筋が刻み込まれる。短気なのだ。ゆえに挑発に耐性がない。

「んなわけねえだろ。いくらでも付き合ってやるわ」

 あっさり乗った。毎度思うがこんなに扱いやすくてこの人は大丈夫なんだろうか。まあ、御しやすいのは楽でいい。

「じゃ、アンタは転がっててくだせェ」

 手で軽く押すと、土方さんはおずおずと身を倒す。挑発に乗ってくるのは反射のようなもので、気は進まないのだろう。だが一度言い出したことを覆すことはない。
 土方さんがゆっくりと横たわっている間にコンドームを取り替える。その間も緊張が伝わってくる。ベッドに身を預けはしたものの、力が入り過ぎていて身体が沈む様子はない。跨って好き勝手にしていた時の方がよほどリラックスしていた。
 ドSだ、サディスティック星の王子だと散々言われているが、むやみやたらに怯えられるのは本意ではない。緊張していることを指摘すれば反発し、更に緊張を高めるだろう。優しくすると宣言……はないな。言ったところで気味悪がられるのがオチだ。さて、どうしたものか。案はないがいつまでも固まったままでは不審に思われてしまう。何か早急に案を見つけなければならない。いくら探したところでそもそも引き出しにないのだから見つけようもない。それでもなんとかしなければと、ひたすらに記憶をひっくり返す。すると不意に、土方さんが笑った。
 この人は元の面構えが凶悪に寄っている。笑顔というものは普通見たものを和ませるものだと思うのだがこの人の場合、逆に作用する。柄の悪い人間が良からぬことを思いついた。シチュエーションとしてはそう形容するのが一番近い。まあ、本人は至って普通に笑っているつもりなのだろうが。少なくとも和みはしない。
 形ばかり沈んでいた身体が持ち上がる。ぬっと腕が伸びてきたかと思うと頭を掴んだ。脈絡なく掴まれたことにびくりと身体が竦むが攻撃されているわけではない。困惑を表情に浮かべるよりも早く、ぐわしと頭が揺れた。痛みはない。

「は、え、ちょっ……」

 わしわしと無遠慮に頭を撫で回される。それにつられて頭は右へ左へと揺れた。撫でる手つきはひどく雑で、髪はぐちゃぐちゃに乱れていく。掻き回されて立った髪が前へと垂れ、視界をちらつく。わけがわからなかったのでされるがままになっていたが、時間経過に従って正気を取り戻す。相変わらず意味はわからないがむやみに困惑することはない。ただ土方さんへ視線を送る。この手を払いのけることは簡単だ。だがそうしても元の状態へ戻るだけだ。それならもう少し様子を見てもいいだろう。急に様子を変えた土方さんに戸惑いを隠せない。それは伝わっているだろうに、土方さんがそれに答えることはなかった。
撫でられる度、頭がぐらり、ぐらり。目的を問う視線には気付いているだろうに、土方さんはなかなかそれに答えようとしない。その間にも髪は掻き回され続け、ついには乱れていないところがなくなってしまった。別に撫でられること自体は嫌なわけではない。だがあまり続けられると萎えてしまいそうだ。そんな不安が掠めたところで土方さんがようやく口を開いた。

「眉間の皺、マシになっただろ」
「は?」

 言われて土方さんの顔を見るが特に変わりはない。というか、この人の眉間に皺があるのはもはや普通のことというか。むしろない方が不自然というか。何を意味のわからないことを言い出すのか。眉間に皺のない土方さんなんて土方さんじゃない。俺の髪を撫でた程度であの標準装備に成り果てている皺が消えるはずもない。

「いや、いつも通りがっつり皺入ってますけど」
「俺じゃねえよ」

 土方さんではない? それなら誰だ。そんなことを考えるが答えはひとつだ。土方さんではないのなら。

「……俺、そんな顔してました?」
「してたな」

 淡々とした肯定が返って来る。こんな嘘をつくメリットが土方さんにはない。それならきっと、本当に眉間に皺を寄せていたのだろう。どうにかしなければと考え込むあまり、それが表情に出ていたのかもしれない。そう聞くと土方さんの奇妙な行動に理解が及んだ。俺の眉間に刻み込まれていた皺をなんとか取り除こうとしていたのだ。結果としてその試みは成功したわけだ。それにしても頭をひらすらに撫でるというのはどうなのだろう。子供扱いされているようで面白くはない。それで皺が消えたというのだから行動としては正しかったのだろうが、どうにも釈然としない。だが気が紛れたのは土方さんも同じだ。先ほどまでの張り詰めた空気はなくなっている。それならまあ、いい。萎えることもなかったので細かな不満は水に流しておこう。

「気は済みましたか」

 撫でる手は止まない。そろそろ撫でるのをやめろ。頭をぶるぶると振ってそう主張すれば土方さんの手が離れていく。それから持ち上がっていた上体が再び倒れ込んだ。力が抜けているおかげで身体はベッドに深く沈む。これならいけるんじゃないだろうか。結局土方さんが自力で立ち直ったようで面白くはないが、それは次回までの課題にしておく。
 土方さんの脚を取り、肩へ乗せる。塗り込まれたローションはまだ乾いておらず、擦り付けるとぬるぬると滑る。先ほどまでめいっぱいに押し拡げられて俺を飲み込んでいたのだ。穴は外から少し押すだけでぐずりと崩れて俺を飲み込もうとする。体内へ入り込まれたことでぎくりと身体が強張るが、侵入を阻むほどの効力はない。滲むのは怯えだ。だが土方さんはそれを口にしようとはしない。一瞬だけ浮かび上がってきたそれを深くへ押し込め、挑発的な笑みを貼り付ける。気遣いは徹底的に拒否されていた。気遣っているとは知られない範囲で、ゆっくりと腰を押し進めていく。
 一度すべてを飲んだからか、心なしか窮屈さが薄れている。それでも負荷がかからないわけではない。耐えるように眉間に皺は深くなり、逃げ出そうとするかのように身体が仰け反っていく。身体がずり上がるがその程度で逃げることはできない。待ったがかからないということは拒否しているわけではないはずだ。都合よくそう解釈して、自身を埋め込んでいく。自身は埋め込むに従って大きくなっていき、その太さをもって内側から中を押し拡げていく。一番太いところまで飲み込ませてしまえばあとは比較的楽で、先ほどの記憶を辿ればつるりとすべてを埋め込むことができた。脚の付け根に腰がとん、とぶつかる。

「っ、ふ……」

 噛み締めた口の隙間から息が漏れる。おさまり始めていた気がしたのだが、土方さんからは再び汗が噴き出し始めていた。やはり快楽は得られていないのだろう。放置されていた自身は力を失い始めている。土方さんもそれに気付いたようでのたのたと手を伸ばす。握り、扱く。硬度を失いかけていた自身は少しずつ自立していく。

「う、ごけ……っ」

 このままでいてもこの時間が続くだけだ。さっさと終わらせてしまいたいのだろう。土方さんはそう急かす。それでは先ほどと同じだ。それではあまりに一方的だ。このままでいいはずもない。だがどうするべきかがわからない。にちにちと、土方さんが自身を扱く音ばかりが聞こえる。

「っぐ!」

 びくりと身体を震わせたのは俺の方だった。埋め込んでいたものを強い力で食い締められたのだ。何の身構えもしていなかったせいでその衝撃に振り回される。先ほど出したばかりだというのに身体の奥から熱がのぼってくる。流石にそれは早過ぎる。こみあげてきたそれをなんとか押し込め、抗議の視線を送る。するとそれに負けないくらいの強さで睨み返された。

「はやく、うごけ」

 今にも死んでしまいそうな声で、それでもやめろとは決して言わない。一度言い出したことだという意地もあるのだろうが、それだけでここまで頑なになるものだろうか。何がこの人を突き動かすのだろう。わからない。急かされてこみ上げるのは困惑だ。一向に動き出す気配のない俺に土方さんは焦れる。そうして再び中を締め上げた。身構えていられたので先ほどよりは随分とマシだが、平気ではない。続けられればいずれ暴発する。まだ入っただけだ。そんな醜態を晒してしまうのは避けたい。俺が動き出さない限り土方さんは挑発行為をやめないだろう。中の動きとあっては阻むことも難しい。問いたいことは色々とあるのだが、そうするだけの余力がなかった。
 高まっていく熱に焦って腰を引く。引いた分だけ押し込む。ひくりと土方さんの喉が震える。理性はじりじりと削り取られている。それでも好き勝手に動けば苦痛になるだろうと、その程度の判断はついた。身のほとんどを引き出し、体内には先端と僅かばかりの自身を残す。カリ首あたりまで埋め込んだところで腰を引き、また同じだけ埋める。そうやって浅い抽挿を繰り返した。決定的な快楽にはならないが、こちらの方が負担にならないだろう。体内を出入りされる感覚は心地よいものではないようで、肌は粟立ってざらついている。土方さんの口は固く引き結ばれたままだ。先端を埋め込むとくぷりと音を立てて肉壁の中に沈んでいく。

「っぁ!」

 跳ね上がった声は慣れない高音に対応できずに掠れていた。聞き慣れないそれにぎくりと動きを止める。音の出どころはどこだろう。隣の部屋……ではない。相変わらずあんあんとうるさいが、先ほどの声はもっと近くから聞こえていた。俺じゃない。そうなれば絞り込まれてくる。
 声を発した本人はと言うと俺と同じように硬直していた。己が発したと認識できていないのか、口元に手を当ててその形を確かめている。そんなことをしたところで確認できるわけでもないし、それは本人もわかっているのだろうが。

「……土方さん、今の」
「……」
「確認までに聞くんですが痛かったとか、そういうことじゃねェですよね」
「……ないな」

 声の雰囲気でわかっていたことではあったが、それでも念のために確認しておく。すると戸惑いながらも肯定が返ってきた。この人も何がなんだかわかっていないらしい。俺もわからない。わからないが、先ほどあがった声は聞き逃しようもないくらいに艶を帯びていた。
 少しだけ迷って、腰を動かす。あの瞬間の動きを、記憶を頼りに辿っていく。繰り返せば何かわかることもあるかもしれないと、その程度の考えからの行動だった。結果、それは正しかった。

「っん、く……」

 カリ首をすべておさめたあたりで土方さんが声をあげる。先ほどのように跳ね上がりこそしなかったが、それでも隠しようもなく声には熱が混じっていた。信じがたいのか、土方さんの目が見開かれる。……ははあ、なるほど。

「総悟、ちょっと、待て……」

 制止の声を無視して、引いて押し戻す。張り出たエラがぐぷりと沈み、次いで土方さんの身体が強張る。

「っ」
「ここ、押されると気持ちいいんでしょう」

 言葉にするまでもなくわかっていたことだ。言葉にして確認を取ると殺気のこもった目で睨みあげられた。だがもう一度同じところを擦ると瞳はどろりと溶けて、殺気はその中に飲み込まれてしまう。

「……っは」

 否定はしない。だが肯定もしたくないようで口を引き結んでしまう。口で認めまいと反応を見ていれば答えは明らかだ。だから無理に聞き出すことはしなかった。
 安堵でほうと息を吐く。このまま苦痛ばかりを与える状態が続くのではないかと不安だった。やめろと、いつ切り出されてもおかしくはない。今言われなかったとしてもこのまま終えれば次回はないだろう。そう思っていた。だから安心した。この人もまた、この行為で快楽を得ることができたのだ。それならば遠慮する必要はない。
 自身へ絡みついていた手が解かれる。そうしてシーツにべたりと着いた。腕に力がこもる。突き立てた腕を支えにして身体はずり上がろうとする。土方さんは明確な意思をもって逃げ出そうとしていた。繋がっている状態でそれを許すとでも思っているのだろうか。腰を掴み、身体の奥にまで入り込む。どこを押されるのが気持ちいいのかは掴んだ。擦れるように意識して身を埋める。

「〜っ」

 びくびくと身体が震え、引き結ばれていた口が戦慄く。逃げるために突き立てられていた腕からは力が抜け、べしゃりと崩折れた。身体は硬直と弛緩を繰り返し、肩に担いでいる脚が筋肉の収縮で波打つ。深いところをぐぷぐぷと掻き回している内はまだ耐えられるらしい。だが浅いところで出入りを繰り返すと反応は顕著だった。
 唇が戦慄いて開く。だが嬌声が漏れ出るよりも早くに引き結ばれてしまう。過剰に力を込められた唇はぶるぶると震えているが、それでもいつまでも閉じたままでいることはできない。一点を抉るように掻くと耐えきれないといった風にぱくりと開く。

「っ、ぁ」

 かすかに上がった声は空気に混じって消え入る。口は再び閉じられようとするが、立て続けに抽挿を繰り返すと閉じるタイミングを失う。手は離れたままだが土方さんの熱が萎える気配はない。先端からは先走りが滲み、その身を濡らしていた。
 限界が近いのか、中がびくびくとこれまでになく収縮する。このまま触れずともイけるのではないか。だが土方さんは震える手を再び自身へと伸ばした。緩慢に指が絡む。先走りで手は見る間に濡れ、震える幹を滑る。与えられた刺激が増えたことで息が上がる。肌が火照っているのは先ほどの入浴のせいだけではないだろう。滲み出した汗に濡らされ、項に黒髪が張り付いている。視線は落ち、こちらを見てはいない。目前にある快楽に、上り詰めることに集中しているのだろう。それゆえに目の前の男は無防備だった。何もかもを晒していることをこの人はわかっているはずだ。いや、正気でなくなってそんな判断もつかなくなっているのか。いや、どうでもいいことだ。重要なのは事実だけ。今この瞬間、眼前に無防備な姿がある。
 ぱくりと口を開く。土方さんはこちらを見ていないので不審な行動に対して口を挟んでくることはない。何も気付いていない。それをいいことに牙を研ぐ。新たに流れ出た汗が項を伝う。顔を近付け、舌を這わせてそれを舐めとる。じわりと塩辛さが広がると同時、土方さんがびくりと震えた。そこでようやく俺の行動のおかしさに気付く。だがもう遅い。もう獲物は目の前だ。制止は間に合わない。
 口を更に大きく開く。それから首筋へ歯を突き立てた。皮膚を食い破ってしまわない程度に、だが歯型はくっきりと残る程度に。

「ぁ、ぐっ…!」

 土方さんの身体が強張り、腹あたりでぬるい飛沫が飛び散った。達したことでぎゅうと中が締め上げられる。それに引きずられ、俺も遅れて爆ぜる。
 達した着後に襲ってくるのは倦怠感と虚脱感だ。口を開くのがひどく億劫だった。土方さんもそれは同じだろう。だがそれでも口を開いた。土方さんの方が先だ。

「……痕になってんだろうが」

 先ほど噛み付いたことを咎めているらしい。そう言われて見れば、確かにくっきりと歯型がついていた。これだと数日は消えないだろう。土方さんからは見えないはずだが、触れれば凹凸がついていることはわかる。

「着込んでりゃ見えねェでしょ」

 少なくとも隊服を着ている分には見えない位置にある。着流しは……ぎりぎり見えるかもしれない。悪びれもせずにそう返せば表情が険しくなる。いや、いつも険しいので多少険しさが増したところで今更だが。土方さんに睨まれたところで全くもって怖くない。
「ってか、いつまで挿れてんだ。抜け」
 ぐいと身体を押され、逆らうこともなく身を引く。ずるりとすべてを引き抜けば土方さんはぶるりと身体を震わせた。それから、沈黙。

「……」
「……」

 無事、なんとか初体験を終えたわけだが、ここからどうするべきか。とりあえず風呂とか、そういうことではなくて。勢いでここまで来てしまったのでこの後のことを考えていなかった。一線を越えたところで何が変わるわけでもないのだが、今の今でこれまでと同じ態度でいろというのもなかなか難しい。そもそも、これまで俺はどんな態度でこの人と接していただろう。そんなことすらもわからなくなってきた。ああ、これはまずい。
 とにかく何か言わなければと視線を持ち上げる。その動きはほぼ同時だったようで土方さんと視線がかち合った。その目にも戸惑いが垣間見える。ああ、この人もよくわかんねえのか。何の解決にもなっていないがほっと胸を撫で下ろしたところで、雰囲気が変わった。俺達の、ではない。隣の部屋だ。殺意に敏感に反応してしまうのは職業ゆえだろう。

「ルミ……やっぱりお前、そうだったんだな」
「ユウくん……。ち、違うの! カズくんとはただ!」
「うるせえ! お前ら二人共殺してやる!」

 第三者の乱入によって隣室は一気に修羅場と化した。どうにも乱入してきた男は刃物を持ち込んでいるらしく、どたばたと追い追われる音が聞こえてくる。……本当に、このホテルは壁が薄い。これ以降の利用はやめておこう。

「総悟」
「……俺達もう非番でしょ」
「そうも言ってられねえだろ」

 気は進まないがこのままでは流血沙汰だ。事件を未然に防ぐのも警察の仕事だ。俺達は武装警察なので管轄は違うのだが、まあ放置して死体ができても目覚めが悪い。
 脱ぎ捨てられていた衣服を掻き集めて袖を通していく。余韻も何もあったものではないが、二人揃って余韻を持て余していたのでこれで良かったのかもしれない。
 そもそものパーツが少ないので土方さんのほうが身支度は早かった。そうしている間にも隣室の緊迫感は増していく。隣室の状況が容易に想像できる。ここを建てた奴は何を考えて壁をここまで薄くしたのか。隔ててあればなんでもいいというわけでもないだろうに。

「先に行く」
「土方さん」

 俺を待たずに部屋を出ていこうとするのを呼び止める。その直後に女の悲鳴が上がった。どうにもカズくんが腕を切られたらしい。

「次は壁の薄くねェところにするんで」

 このまま有耶無耶にはならないだろうが、それでも次への確約が欲しかった。そんなことを思うのは女々しいだろうか。それを聞いた途端に土方さんは表情を曇らせる。次なんてないだとか、そんな答えが返ってくるのかと身構えていたのだがそうではなかった。

「……次は俺が用意する」

 それだけ言い捨てるとさっさと部屋を出てしまった。土方さんの姿が消え、ドアが閉じられる。言い捨ててから土方さんはこちらを見なかった。だから真っ赤に染まった顔は見られていないはずだ。だが身支度を整えるまでには熱を冷ましきてしまわなければならない。そんな真似ができるものだろうか。不安に襲われながら、冷静になるべく息を大きく吸い込んだ。























  ◇酔いどれ中毒◇

「よお~、沖田くん」

 俺を呼び止めた声は酒のせいでふわふわとしている。声をかけられるままにカウンター席へ寄っていけば、隣の隣で土方さんが突っ伏していた。今回は旦那の方が勝ったらしい。酔いは相当に回っているらしく、土方さんは俺がやって来たことにも気付いていないだろう。うう、と唸りながら時折動いているので生きてはいるらしい。

「旦那もいたんですねィ」
「後からきたのはコイツだけどな」

 ダウンしている土方さんを指差してそんなことを主張する。どっちが先にいたのかなど果てしなくどうでもいいのだが、旦那からすれば重要な問題なのだろう。相槌は随分と適当なものになったが旦那は気にしていないようだ。勝負に勝ちはしたものの、判断力が鈍る程度には酒に飲まれているらしい。だがそれでも酒を口に運ぶ手は止まらない。酔い潰れるまで飲み倒すつもりだろうか。そんな金があるのかと考えはするが口には出さない。パチンコで大勝ちして懐が潤っているのかもしれないし、そうでなければ身ぐるみを剥がされるだけだ。どちらにせよ俺には関係がない。

「そりゃあうちのがすいやせん」

 迷惑の度合いで考えるとお互い様だとは思うのだが一応謝罪しておく。迷惑をかけていることに間違いはない。代行して俺が謝る必要もないとは思うが。

「ほら、土方さん。帰りやすぜ」

 土方さんは旦那よりも奥側に座っているので俺からだと旦那の影に隠れてしまっている。覗き込むように身体をずらし、それから歩み寄る。声をかけてみても呻き声ばかりでそれらしい反応はない。呻き声だって俺に反応しているわけではないだろう。
 土方さんに悪癖がついた。どういう悪癖かと言えば、端的に言うと酒に逃げるようになった。何に対してもというわけではない。大抵の不満や苛立ちはこれまで通り溜め込んだり、まわりへ当たり散らすことで発散している。土方さんが酒を逃避の手段として使うのは俺に絡んだ事象だけだ。俺に関する、といっても範囲はひどく限定されている。それはそうだろう。俺に対する不満が溜まる度に酒を煽っていてはアルコール依存症待ったなしだ。そうではないのだ。
 揺り動かしても起きる気配はない。酒で完全にやられている。それを確認してからその頬へ唇を寄せた。頬は酒で火照り、赤く染まっている。そこへ口付けをひとつ落としたところで痛いほどの視線が刺さることに気付いた。

「……沖田くんってそういうことするんだね。意外だわ」

 なみなみと酒が注がれているグラスを手に、旦那が硬直している。驚きのあまりいくらか酔いが飛んだらしく、声が幾分かはっきりとしていた。唐突にぶっこんできたことに関してはツッコまないらしい。次いで黒髪を掻き撫でれば旦那の表情が歪んだ。おお、引いてる。その反応が面白くてつい常以上に土方さんを構い倒したくなる。こうも露骨に引かれたことがないので逆にテンションが上がる。

「いや、いいんだよ。そういうのは個人の自由だから。でも目の前でイチャつかれんのはきついっていうか、他でやってくれます?」
「ばっさり言いますね」

 そういう関係だと明言したわけではないが旦那は正確に読み取ってくれたようで何よりだ。別に日頃から人目も憚らずこんなことをしているわけじゃない。今は土方さんが酔っているから好きにできるだけだ。やめてもいいが、旦那があまりに苦い顔をするので面白くなってきてしまった。投げ出されている手を取ってその甲へ恭しく口付けを落とす。旦那の顔が更に歪む。

「その顔、好きですよ」
「俺にまでドS発揮するのやめてくんない 」

 口元が引き攣っている。わかりやすく引いているところがいっそ清々しくて、もっとその顔を歪ませたくなる。どう追撃してやろうかと考えていると取っていた手を振りほどかれてしまった。急に手が持ち上がったことが不満だったのか土方さんは呻きながら手をしまいこんでしまう。胸の下あたりにしまい込まれてしまったので引き出すことは難しい。髪を撫でると唸られる。今は触られたくないらしい。中途半端に目覚められても面倒なので大人しく手を引き、触れるのは一旦やめておく。

「部下ってだけで毎回夜に呼び出されて可哀想になーって思ってた俺の同情を返してほしい気分だよ今は」
「いや、付き合ってても酔っ払いの世話すんのは普通に嫌でしょ」

 淡々と返せば旦那はおかしな顔をする。……なんですか、自分から突っ込んできたくせに俺が返事するだけで動揺すんのやめてくだせェよ。

「……なんか、沖田くんキャラ違わない? いつもそんなだっけ?」

 いつもと違う俺が気味悪いのかそろそろと様子を窺ってくる。やけにびくびくしていると思ったらそんなことか。おかしいと言われてしまえばまあ、確かにおかしいのだろう。最近はこれが通常運転な上に指摘してくるような人間もいなかったのですっかり意識しなくなっていた。おかしいという自覚はあった。少し前までの話だが。

「誰にも見られてねェのに繕っても仕方ねェでしょ」
「いや、俺いるんだけど。銀さんめっさ見てるんですけど」
「人の逢瀬を覗き見とは、旦那も随分と趣味が悪いですね」
「お前が勝手に目の前でおっ始めたんだろうが!」

 勢いのままに怒鳴ると身体が傾ぐ。酒のせいで上手くバランスが取れなくなっているらしい。それでも椅子から落ちてひっくり返るようなことは流石になかった。

「別に誰が見てようがこの人が知らなきゃ問題ねェんで」

 土方さんが起きていればこんな真似はしない。悪癖がついてしまったのは土方さんだけではなかった。俺とのこの関係に何かがあると土方さんは酒に逃げるようになった。ほぼ毎回その回収に向かうのが俺だということはわかっているだろうに、それが止む気配はない。その逃避はいかがなものかと思う一方で楽しんでもいた。ここまで見事に意識も記憶も飛ぶ土方さんなどそう滅多にお目にかかれるものじゃない。感知されないところでこうして土方さんをべたべたに甘やかすのが癖になってしまっていた。普段なら見栄や照れでできないようなことも、土方さんが感知しないとわかっていればなんの抵抗もなくできてしまう。今度は一体何を溜め込んでいるのだろうか。最近の出来事を掘り返してみるが心当たりがあり過ぎて逆にない。
 旦那は旦那でそう露骨に反応するなら触れなければいいのに、何故か突っ込んでくる。酔いで判断力が死んでいるんだろうか。いや、しかし考えてみれば旦那は元から余計なことに首を突っ込んで自滅するタイプだった。じゃあこれは元からか。随分と難儀な性格をしている。やめておけばいいのに旦那の口は閉じない。

「あ、じゃあ首にあった歯型ってもしかして沖田くん?」

 首筋の左側をとんとんと指で叩く。言われてみると、噛み付いたような記憶が薄っすらとある。ほぼ毎回うっかり噛み付いてしまうのであまり明確には覚えていない。そんなところに噛み付いていただろうかと土方さんを覗き込むが、首筋はちょうど手で覆い隠されていた。剥がして覗き込もうとするが強めに拒絶されたので諦める。

「まあ、そりゃあ、俺でしょうね」
「そいつ、歯型のこと指摘したら滅茶苦茶機嫌悪くなってたけど」

 女の歯型にしちゃでかいと思ってたんだけど沖田くんかーそうかー、なんて納得しながら酒を煽る。……ああ、今回はそれか。そういえば歯型をつける度に文句を言われていた気がする。最近はすっかり耳タコになってしまっていたので気にも留めていなかったが。

「そりゃすいやせん。この人シャイなもんで」

 普通にしていれば着流しでもぎりぎり見えない位置にしか噛み付いていないのだが、そんな細やかな配慮はこの人には伝わらなかったらしい。こうして酒に逃げるくらいなら真っ向から文句を言えばいいものを、なんて思ったところで土方さんからの毎度の文句を聞き流していたことを思い出す。……いや、それにしたってらしくもなく溜め込みすぎだろう。まあいい。この人の酔いが覚めてから話せばいい。
 土方さんの懐に手を突っ込んで財布を引っ張り出す。そうして勘定を済ませてから土方さんの手を取った。

「帰りやすぜ」
「ん〜」

 生返事。これは背負って帰るしかなさそうだ。地味に疲れるのでできれば肩を貸す程度で済ませたかったのだが、ここまでぐだぐだに潰れていては歩行できないだろう。無理に歩かせると巻き添えを食らって俺まで転んでしまいかねない。

「ほら、今だけでいいんで起きてくだせェ」

 ばしばしと身体を叩いていると土方さんの意識が少しだけ浮上する。億劫そうに開いた目は惰性で動くのみだ。重たい腕を持ち上げて引けば。つられて身体も動き出す。酔いで身体はゆらゆらと安定を欠いていた。だがここまでくればもういつもの流れだ。
 土方さんを背負うために身を屈めようとして、旦那からの視線が変化したことに気付く。

「旦那?」

 引かれようと笑われようと気になりはしないが、旦那の反応はそのどちらでもなかった。

「沖田くんってそんな顔もするんだねえ」

 感心といった雰囲気を帯びたその言葉に揶揄は感じられない。

「はあ……」

 そんな顔、と言われてもどんな顔をしているか自分ではわからないので反応に困る。それなら鏡で確認すればいいのだろうが、なんとなくそれはしない方がいい気がした。






  ◇ ◇

 ばちん、と大きな音がした。
 威力はそれほど強くない。ただ、発生源がひどく近かったために耳にきた。一気に通り抜けた音の残滓が奥の方に残っている気がする。きんきんとして聴覚が鈍っているのがわかる。
 叩かれたのは顔。正面から叩かれたので直撃を受けた鼻先がじんじんとする。だがどうにも叩こうという意図はなかったらしい。その手を退ければ相手の顔を窺うことができる。その顔にはしまった、とでかでかと書いてある。まあ、故意にせよそうでないにしろ、唐突に拒絶されたことは間違いない。今更こんなことで傷付きはしないが今度は一体なんだ。
 動きが止まってしまうのは当然のことで、開きかけていた口を閉じる。俺を叩いた手は未だ俺の顔面近くにある。ぐっと力がこもり、また手が押し当てられた。顔を押しのけることで距離を取られる。叩くつもりはなかったが距離は取りたいらしい。押しのけようとしたところを勢いあまって、といったところだろうか。

「土方さん?」

 押し当てられている手に邪魔をされて視界がいくらか遮断されている。それでも何も見えないというには遠く、目の前の表情を窺うことくらいはできる。土方さんの視線がうろうろと彷徨いながら落ちていく。それにつられるように押し当てていた手も落ちていった。頬から顎へ伝い、それからぱたりとシーツの上へと落ちる。少し迷う素振りを見せて、それでも土方さんは結局口にした。

「お前、それやめろ」
「それ?」
「また噛もうとしただろうが」

 そういえば、あれから話ができていなかった。そういえば土方さんは俺の噛み癖に対して不満があるのだったか。いや、しかしそうだとすると解せない。話し合いはしていないが、何の対策もしていないわけではない。

「見えにくいところにしてんでしょうが」
「動きようによっては見えるだろうが」
「……じゃあどうやっても見えないところを噛むとか、痕がつかない力加減にするとかはどうです」
「なんだってそこまで噛みたがるんだテメーは」

 何故。そういえば考えたことはないが何故だろう。いや、そもそも噛み付くのに理由など必要だろうか。無防備に目の前に晒されている急所に噛みつかない理由を逆に問いたい。誰だって噛み付くだろう。目を奪われるのだ。惹きつけられるままに歯を立ててしまう。むしろアンタは何故俺に噛みつかないでいられるのかと問いたい。逆に疑問だ。それに、疑問はそれだけではない。

「アンタこそ、なんだってそんな嫌がるんですか。噛まれんの嫌じゃねェでしょ」
「は?」

 土方さんが硬直した。図星を突かれて動揺しているんだろうか。まさか俺が気付いていないとでも思っていたのだろうか。
 噛まれることを土方さんは嫌がっていない。少なくとも身体は悦んでいる。噛み付くと中がぐねぐねと蠢く。吐き出す息にはそれまで以上の熱が孕み、頂上へ至るまでの時間も短くなる。俺は知っている。だから土方さんが噛まれるのを拒絶する理由がわからない。気持ちいいのなら拒絶することもないだろう。見えるのが気になるのかと譲歩してみたが、そもそも噛まれたくないと主張しているようだし、それだと事実と噛み合わない。身体はこんなに正直なのに? と問えば重い一撃を見舞われそうなのですんでのところで飲み込んだ。
 図星だ。土方さんは否定せず、黙り込む。ここで否定するのはあまりに白々しいからだろうか。違うなら間髪入れずに否定してくるだろう。沈黙がなによりの肯定だった。見透かされていることはわかっているはずだ。だが素直に認めることもできないようで、黙り込んだまま口を開こうとしない。しかし土方さんが何か言わなければ状況は動かない。何を思って拒否しているかがわからないのだ。理由がわからないままに噛み付くのをやめるのは難しい。一度や二度自制をきかせたところですぐにまた噛み付くようになってしまうだろう。噛み付くのをやめるためには確固とした理由が必要だった。
 じっと土方さんの言葉を待つ。俺が待っていることはわかっているのだろう。戸惑いがちに口が開き、だが結局何も発さないままに閉じてしまう。そんなことを何度か繰り返すうちに口を開いている時間が長くなっていく。よほど言いにくいことなのか。茶化すこともなくただひたすらに待っているとようやく土方さんの口から音が発される。どれくらい待ったのかはよくわからない。状況が状況だけに途方もなく長い時間だったような気がするが、実際にはほんの数分の出来事なのだろうとは思う。

「…………変な癖がつきそうなんだよ」
「変な癖」

 かなりの勇気をもって絞り出した言葉だということはわかる。だがそれだけでは意味がわからない。説明があまりに不足していた。この調子では次の言葉はすぐには出てこないだろう。手っ取り早く次を引き摺り出すために鸚鵡返した。すると眉がきりりと吊り上がる。

「お前が毎回変なタイミングで噛み付くせいで!」

 沸き上がった感情のままに怒鳴りつけようとして、その途中で我に返った。中途半端なところで口を閉ざすが言わんすることは理解できてしまった。

「ははあ……」
「…………なんだよ」

 バレたことはわかっているだろうに、それでも土方さんは強気の姿勢を崩さない。それはつまりあれだ、噛まれないと物足りなくなりそうだからこれ以上噛まれたくないと。そんなことを言われて素直に引き下がる奴がどれほどいるだろうか。少なくとも俺は引き下がる気を完全になくした。
 ぱくりと口を開いて、開いていた距離を詰める。すると土方さんは後ずさり、再び手で俺を押しのける。だがその行動は予測済みだ。押し退けられながらもじりじりと距離を詰めていく。

「どうせ毎回噛むんだからいいでしょ」
「開き直ってんじゃ、ねえよ!」

 手にこもる力が強くなる。土方さんは首を守ることに必死だ。だから他の場所へのガードはひどく緩い。その中でも特に無防備なのは、手。
 更に大きく口を広げ、押し当てられている掌へと歯を立てた。そこでようやく無防備に手を差し出していたことに気付いたのだろう。

「っ!」

 慌てて手を引く。その手を捕まえて自分の方へ引き寄せる。土方さんは完全に油断していた。だから手につられて身体もこちらへ引き寄せられる。手に意識が集中していて、今度は首への警戒がひどく薄くなっていた。口を寄せる。そうして歯を立てた。

「っ、ぅ 」

 ぎくりと身体が強張る。痛みはあるだろう。だがそれだけではない。押し殺した声には確かに悦楽が混じっていた。だからもう一度噛みつき直す。のたのたと持ち上げられた手が俺を押しのけようとするが、その力は先ほどと比べると随分と弱々しいものになっている。指先が前髪をくしゃりと乱す。がぶりと勢い良く噛みつき直せば絡んだ指先がびくりと跳ね、それから間もなくして力をなくした。

矜持と酔いどれ

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