※R18
 水を被ると淫魔になってしまうようになった土方さんの話





 ここ最近、土方さんの機嫌がすこぶる悪い。あの人が不機嫌なのは今に始まったことでもないので最初は特に気にしていなかった。どうにもおかしいと、最初に言い出したのは山崎だった。

「機嫌が悪いって言っても限度がありますよ。いつまでも引き摺るような人じゃないし、原因も思い当たらないんです」

 真っ先に煙草とマヨネーズは確認したがストックに問題はない。銘柄が違うなどといったこともない。他に考えられるとすれば仕事のストレスあたりだが、それもないだろうと山崎が断じた。監察方という立場もあり、山崎は最も土方さんと情報を共有している。山崎が言うのなら仕事の線は消してもいいだろう。山崎にさえ知られないように独断で動いていたのだとしたらそれこそ知りようもない。

「何か悩みがあるんじゃないのか?」

 そう案じたのは近藤さんだった。悩み。果たしてあの人に悩みなどあるのだろうか。いや、違う。悩みくらいあの人にだってあるだろう。だがあの人は悩みをそういつまでも引き摺るような人間だっただろうか。どうにも自分の中の人物像とその仮説が一致しない。しかし他に心当たりがない以上はその線で考えるしかない。しかしあの人の悩みなど想像もつかない。
 悩みがあるのなら相談相手は近藤さんが適任だろう。異議があがることもなく、近藤さんが送り出された。
 結果は惨敗。何も聞き出せずに戻ってきた近藤さんは、それでも何故か確信だけは持ち帰っていた。

「俺には言えない悩みがあるらしい」

 それから数日様子を窺ってみたが機嫌は依然として最悪。最後の手段とばかりに場へ引っ張り出されるのは不本意だが、近藤さんに頼み込まれれば無碍にすることもできなかった。

  ◇ ◇

 だいたいにして、近藤さんで駄目なら俺という発想が安易だ。
 俺ほど相談相手として向かない人選もないだろう。何故って、あの人にとって俺は弱みを見せたくない存在だからだ。付き合いは長い。だが俺は近藤さんとは違う。気さくになんでも話せるような間柄でもない。そんなことは奴等もわかっているだろう。それでも送り出されたのはもうひとつ付属している関係性を考慮してのことだろう。
 土方さんは俺にとって気に食わない相手であり、昔馴染みであり、上司であり、ついでに言えば恋人でもある。恋人ならば打ち明けられる悩みがあるのでは、と望みをかけたのだろう。近藤さんは知らないので他の奴等が、だが。しかし甘い。あまりにその考えは甘い。だがそう訴えたとしても聞き入れられはしなかっただろう。俺達の常など奴らが知るはずもない。自分を基準に考えてもらっては困る。俺と土方さんはそういう共有はしない。
 俺にしか言えない、いわゆる痴話喧嘩の種的なものがあったとしよう。それならとっくに俺に伝わっているはずだ。あの人は不満があればすぐ口にする。様子がおかしいと言われて二週間ほどが経つが、それらしい発言はなかった。俺に不満がある状態でこれほどまでにあの人が黙り込んでいるとは思えない。つまり俺絡みではない。よって俺に頼るのはお門違いだ。俺が絡まない悩みを俺に打ち明けるはずがないだろう。それが弱みになってしまうからだ。
 それでも断りきれなかったのは見返りが肉だったからだ。自分の金でも肉は食えるがそういうことじゃない。人の金で食べることに意味がある。こうなったらさっさと解決して、肉を高い順に上から頼んでやろうと思っている。金がなければ姉御に身ぐるみを剥がされるまで貢ぐことも減るだろうという気遣いだ、多分。
 副長室へ訪ねてみれば土方さんはちょうど縁側で煙草をふかしていた。小休憩と言ったところか。部屋は窓や扉がすべて開け放されていて、煙草のにおいが漏れ出している。閉め切ってすぱすぱと煙草を吸いまくるせいで副長室だけ黄ばみが早いと、訴えていたのは確か山崎だ。家屋管理は奴の仕事でもないだろうに。どうにもあれからちくちくと喫煙に対して物申されたらしい。たまにでも換気をするようになっただけマシだろう。吐き出した煙が中庭へと向かっていく。

「土方さん」

 二人分ほどのスペースを空けたところで立ち止まる。そうして声をかければ目だけがこちらへ向いた。ぎょろりと睨むような目が俺を見返す。いつものことながら凶悪だ。
「なんだ」
 アンタ最近機嫌悪いみたいですけど何かあったんですか。俺で良ければ聞きますけど。……脳内シミュレーションしてみたが土方さんは口を割らない。それはそうだ。この程度なら近藤さんがとっくに解決している。近藤さんでも駄目だった時点で敵がとてつもなく手強いことはわかっていただろう。しかし改めて目にすると億劫さが先立つ。さて、どうしたものか。

「最近、痩せました?」

 探りを入れるにせよ、不審に思われない程度に会話を続けなければいけない。会話の出だしとして「髪切った?」はあまりにポピュラーだが、それをそのまま口にしてしまうと怪しまれそうだったので変化を加える。しかし適当に口にしたわけではない。ここのところ土方さんは痩せている気がする。隊服を着ている時は衣服の分厚さに邪魔をされてよくわからないが、上着を脱いだ時や私服でいる時はわかりやすい。全体的に肉が少なくなっている気がする。

「痩せるわけねえだろ。飯はちゃんと食ってるし、鍛錬もいつも通りやってる」

 栄養はとっているし、筋肉量が落ちているわけでもない。だから痩せてなどいないと土方さんは反論する。確かに土方さんの姿を食堂で見かけることもあったし、日課の鍛錬もほぼ決まった時間に続けているようだった。嘘はない。だがそれらをきちんと行っているからといって体重が落ちていない理由にはならないだろう。体重が落ちる原因は他にもある。例えばそう、ストレスとか……。
 思考が元の場所へ戻ってしまった。痩せている気がするのはストレスがかかって本当に痩せているからだろうか。少し距離を詰めて、それからその場に屈み込む。膝を抱えるようにして丸くなると土方さんと目線が合った。
煙草をふかしながら怪訝そうに俺を見る。警戒されていないのをいいことに手を伸ばした。ベストとシャツに阻まれるが、それでもその下にある身体の線を確認することは容易だった。腹に押し当てた手を滑らせ、腰へやる。ぎくりと土方さんが身体を強張らせた。

「……やっぱ、痩せてんじゃねェですか」

 腰を摑んでみると、いつもより心なしか身体が薄い。二、三キロは落ちていると見た。警察の仕事は不規則だ。事件が起きれば真夜中だろうと跳ね起きて現場へ向かわなければならないことだってある。そんな環境で体重を維持し続けるのは難しい。俺も体重が増減することは当然ある。それ自体は仕方のないことだ。問題は土方さんがそれを隠そうとしたことだ。自覚がないとは思えない。二、三キロでも減れば身体の感覚が変わる。俺達はその身体のすべてが仕事道具だ。その変化にこの人が気付かないわけがない。それだというのに土方さんは痩せていることを否定した。痩せていては何か不都合なことがあるのか。心配させまいとして、なんて殊勝な気遣いをこの人が俺に見せるとは思えない。何か知られてはまずいことがあるのだ。先ほどの反応でますます確信を深める。だが土方さんはまだ誤魔化せると思っているらしい。口を割る気配はない。

「触っただけでなんでわかる」

 適当なことを言うなと土方さんは苛立つ。適当なことなど言っていない。何故だと。そんなものはわかりきっているだろうに。本気で思い至っていないらしいその鈍感さに呆れ返る。

「なんでって、しょっちゅう触ってりゃ感覚でわかるでしょうよ」

 それを聞いた土方さんは露骨に表情を歪める。煙草を離し、何か言いたげに口を開くが結局何も口にすることはなかった。だがそんな反応をされれば気になる。

「なんでィ」
「いや…………」

 おかしなことは言っていない。毎日とは言わないが土方さんの身体には触り慣れている。それはそうだろう。先にも述べた通り、俺と土方さんは恋人だ。子供でもあるまいし、清く正しいお付き合いしかしていないわけではない。だから触れた感触を知っているのは当然のことだ。何もおかしなことはない、はずだ。あまりに土方さんの反応が妙なので自信がなくなってきたが、何もおかしなことはない。再度自分にそう言い聞かせる。

「痩せたからなんだってんだ。そのうち戻る」

 面倒になったのか、それとも逃げ切れないと踏んだのか。土方さんはそれ以上否定することを諦めてそう反論した。それもそうだ。一時的に体重が落ちていたとしてもそのうち戻るだろう。気にすることは何もない。俺は別に体重の減少自体を案じているわけではないのだ。
 そうして話を引き伸ばしている間も土方さんの様子を窺ってははいるがなんら変わった様子はない。機嫌は確かに悪い。だがやはり原因は見つけられそうもなかった。これ以上会話を続けるのは些か不自然だ。だが何もわからないままに引き下がるわけにもいかない。何故なら肉がかかっている。収穫がなくても食べさせてはもらえるだろうが、それはどうにも据わりが悪い。どうせならきちんと成果を上げた上で遠慮なく高い肉を貪りたい。

「土方さん、土方さん」

 この場でこれ以上聞き出すのは無理だ、それなら別の機会を作るしかない。その手段は限られている。先にも述べた通り、俺達は気さくな仲ではない。付き合ってはいるがそれはそれ。普段とは違う方法で機会を作ろうとすれば不審を抱かれるだろう。だからいつものように。

「今夜どうですか」

 主語はあえてぼかした。そうしろと普段の土方さんが口うるさく言うからだ。土方さんには見えない主語まできちんと伝わっている。その証拠に嫌そうに表情が歪んだ。

「……明日は」
「今日がいいです」

 土方さんは渋るが俺が食い下がると早々に折れた。土方さんは俺に甘い。どうしても無理な場合以外はわりあいすんなりと俺の我儘は通る。

「…………はあ、わかった。部屋は取っておく」

 渋々といった体ではあるが了承は確かに取った。成果は何も得られていないがまたその時にでも聞き出せばいいだろう。時間を置けば口も少しは緩くなるかもしれない。
 短くなった煙草が脇に置いてあった灰皿に押し付けられる。休憩は終わりか。土方さんが身を起こし始めたところで飛び退くように距離を取った。

「何か用件があったんじゃねえのか」
「いえ、別に何も」
「はあ?」

 怪訝な顔で俺を見る。最後の最後で不審に思われてしまったがまあいいだろう。

「それじゃ、また後で」

 未提出の報告書だとか、そんなことを土方さんが思い出すよりも早くに元来た道を戻っていく。幸いにして土方さんに引き止められることはなかった。
 さて、どうやってあの人の本心を引き摺り出そう。


  ◇ ◇

 セックスをする時は決まって部屋を取る。取るのは俺だったり、土方さんだったり。特に決めてはおらず、同じところばかり利用するのは避けている。
 この関係を隠している。隠す必要はない。だが公にすれば我らが大将に知れてしまうのは間違いなく、それに二人して躊躇した。あの人のことだから反対したりだとか、そういうことはないとは思う。多少動揺することはあれどお前たちが決めたのならと、なんなら祝福すらしてくれそうな気もする。わかっている。そんなことを心配しているわけではない。ただどうにも居心地が悪い。ひどくむず痒くてきっと話している途中で逃げ出したくなるに決まっている。いつかは言うのだろうが、何も今でなくてもいいはずだ。そうしてずるずると隠してきた。
 だからこうして場所を用意する。なんのために、なんて決まっている。屯所では決してできないことをするためだ。
 腰を押し込んで、内壁をごりごりと擦る。押し拡げるとも圧迫ともとれる動きは快楽として認識され、管がぐねぐねと淫靡に蠢いた。自身を包んでいる肉壁が波打つことで締め上げられて息が詰まる。止まった分の呼吸を取り戻すように大きく息を吐く。

「ん゛……はっ」

 飛び出すはずだった嬌声はすんでのところで押し込められ、濁ったものに変わる。吐き出されずに体内へ燻る熱は息に混じり、少しずつ吐き出されていった。

「はっ……は、ぁ」

 目の前に晒されている胸板が忙しなく上下している。肌は火照り、うっすらと汗に濡れていた。シーツが真っ白であることもあいまってその赤みは一層強調されている。
 中を抉れば組み敷いている身体がびくりと跳ねる。それから無意識に逃げを打とうとするので担ぎあげている脚を引き寄せた。シーツの上で身体が引きずられ、下敷きになっている髪が広がる。引き寄せたことで繋がりは深くなり、ぎくりと身体が強張った。唇が戦慄く。だがそこから漏れ出る声はあまりにか細く、下肢から立つ音に掻き消されてしまう。
 この人は基本的に静かだ。何も漏らすまいと頑なに口を閉ざしている。そうやって何もかもを押し込めようとしているせいで眉間の皺はいつもより深く刻まれている。さも屈辱ですと言わんばかりの表情は全くもってこの場にそぐわないのだが、それを指摘したことはなかった。指摘したところで改善は望めないだろう。それに何より、不満に思ったことがない。指摘すればより頑なになるのだろうと思えば、指摘するのも悪くない気はするが。
 いつまで経っても組み敷かれることに、喘がされることに抵抗があるらしい。むっつりと無愛想な顔でいるくせに、それでもやめるとは言わない。この部屋だって用意したのはこの人で、どう使われるなんてとっくにわかっている。屈辱に塗れ、それでも己の意思で許容している。プライドの人一倍高いこの人が。その事実だけで高揚を得るには充分だった。吹っ切れることができずに表情や態度がちぐはぐになる程度、可愛いものだ。
 自身を抜き挿しし、深くまで何度も食わせる。固く引き結ばれている口元が少しずつ緩んでこじ開けられていく。この人が一等好きなところへ狙いを澄ませると声が跳ね上がった。

「ぅ、ぁっ」

 押さえ込みきれなかった嬌声が漏れ出る。一瞬遅れてそれに気付くと目がかっと見開かれた。口がまた固く引き結び直され、睨みあげられる。口をほとんど閉じているせいで息がし辛いのだろう。漏れる息はふうふうと荒っぽい。
 撥ね付けるような態度でいてもそれが本心ではないことは見ていればわかる。脚も腕も自由だ。本気でその気になればいくらだって抵抗できる。だがそれらは緊張や快感で強張るばかりで動き出す気配はない。許されている。そう認識すると欲は際限なく膨らんでいく。この人は一体どこまで許すのだろう。そんな疑問を確かめずにはいられない。脚を掴んでいた手を離して伸ばす。固く引き結ばれた唇へ指先を押し当てれば困惑の視線を向けられた。ぐっと唇を押せば意図を理解し、更に固く閉ざされてしまう。そうなることは予測済みだ。指を叩き落さないあたりこの人は甘い。
 ごりごりと抉るように内壁を擦れば城塞はあっさりと陥落した。

「っ、ひ…!」

 守りが緩んだところですかさず指を押し込む。異物が入り込んだことで口は閉ざすができなくなった。口を閉じていたいのなら異物を排除するしかない。舌が指を押し出そうとするが構わず口内を掻き回す。飲み込むことができなくなった唾液が溢れ、口端から伝い落ちた、内壁を掻き回せば口からどろりと嬌声が零れる。

「ぁ、ぁッ、ぅ……」

 忌々しげに睨みつけられる。
 本気で追い出したいなら手を掴んで引き剥がせばいい。指に歯を立てればいい。そのどちらも選択しないのは許しと同じだ。プライドの高いこの人の捻れた許容に、胸の内が満たされていく。だがまだ足りない。
 すべてを満たそうと抽挿を増せば、漏れ出る嬌声が溶け始めた。それとは裏腹に表情は相変わらず歪んでいる。まるで無理矢理組み敷いているかのような錯覚を起こし、酩酊する。くらくらと酔った意識はただひらすらに許容を貪り続けた。


  ◇ ◇

 目を開くと知らない景色が広がっている。警戒が跳ね上がるが、状況に頭が追いつくと力が抜けていく。外に部屋を取ってそこで眠ったのだから知らないのは当然だ。馴染みのない景色であることに変わりはないが、自分の意思で身を置いているのだから警戒する必要はない。
 外に部屋を取った時はそのまま泊まってしまうことが多い。それから時間をずらして出て行って、朝のうちに屯所へと戻る。そこまでする必要はない気もするが、一緒に帰ってきたところを近藤さんに見られれば苦しい言い訳を披露する羽目になる。二人揃って外泊している時点で充分に怪しいわけだが、幸いにして近藤さんは気に留めていないらしい。
 朝、先に出て行くのはたいてい土方さんの方だ。土方さんのも大概朝に弱いのだが、俺がいつまでも眠っているのであっちの方が起きるのが早い。さっさと身支度を整えて声もかけずに出て行く薄情者だ。
 目覚めたばかりで時間がわからない。土方さんはもう出て行ったのだろうか。寝起きで身体を動かすのが億劫で、目だけをきょろきょろと動かす。
 土方さんはまだいた。ベッドの縁に腰掛け、俺に背を向けている。やって来た時と同じ着流しを身に着け、身支度は整っているようだった。出て行く一歩寸前というところか。煙草はちょうど吸い終わったところなのか色濃くにおいだけが残っている。
 目覚めたことを知らせるべきだろうか。顔を合わせたところで小言を言われるのはわかりきっている。このまま狸寝入りを決めてしまうべきか。そう考えて、どちらを選ぶこともできなかった。ふと、土方さんの様子がおかしいことに気付いたからだ。
 そわそわと落ち着きがない。その落ち着きのなさは外に漏れ出ていて、足は忙しなく貧乏ゆすりを繰り返していた。視線が右へ左へと行き来するのが背中越しに見ていてもわかる。振り返ることはない。俺からでは見えないが手には何かを持っているらしく腕がもぞもぞと動いている。手元で弄んでいるというところか。一体何をしているのか。わからないが黙ってただ様子を窺う。土方さんの様子は不審という他なく、何をしようとしているのか気になった。起きていることに気付かれないように身じろぎもせずじっと気配を殺す。
 土方さんが俺の起床に気付く様子はない。珍しい。それどころではないらしい。うろうろと視線を動かす様は何かに迷っているようだった。一体何に。わからないまま動き出すのを待つ。ここからでは何をしようとしているのかがわからない。些細な行動のひとつも見逃してしまわないように目を凝らす。背中によって覆い隠されているせいでこのままでは何もわからない。
 散々に悩んだ土方さんはようやく動き出す決心を固めたらしい。ごくりと喉が大きく鳴る。次いで右手が持ち上げられた。その手は頭よりも更に高いところまで掲げられる。そのおかげで土方さんが手にしていたものを視認することができた。

「……!!」

 咄嗟に声を殺した自分を褒めてやりたい。土方さんが手にしていたのは使用済みのコンドームだった。色形からして昨晩俺が身につけていたものだろう。コンドームの中には精液が詰まっていて、下部が不自然に膨らんでいる。確かごみ箱に捨てたはずだ。それを何故この人が持っているのか。そしてそれを一体どうしようというのか。
 掲げたコンドームが揺れる。土方さんが身体をやや後ろへ倒した。背が仰け反り、それによって目線も上を向く。何をしようとしているのかは未だにわからない。コンドームを摘んでいる土方さんの手が蠢く。指はぞろぞろとゴムを伝って下へと落ちていく。落ちた指は精液が溜まっている下部へと添えられる。下からコンドームを支えたかと思うと、ぐっと下からコンドームを押す。押し上げられたことでゴムは内側へのめり込み裏返ろうとしている。それに構うこともなく土方さんの指はぐいぐいとコンドームを押し込んでいく。下部から少しずつコンドームが裏返ってき、行き場をなくした精液が上へとのぼっていく。掲げられたコンドームが傾く。傾いたそれはゆっくりと土方さんの方へ。影に隠れて見えなくなってしまったが、腕の位置から推測するに土方さんの手は口元にある。そんなことをしては、そんな体勢でいればどうなるかはわかるはずだ。それでも土方さんは止まらなかった。そんなまさか。信じられない。現実を受け入れられずに瞠目していれば無情に現実を突きつけられる。
 ごくり、と喉が鳴った。俺の喉ではない。鳴ったのは土方さんの喉だ。何かを嚥下した音だ。この状況で飲むものなどひとつしかない。だがそれを理解するのを頭が拒否している。だってそんなことはありえない。
 持ち上げられていた右手がだらりと垂れてベッドに放り出された。その手の先にはコンドームが摘まれている。だが先ほどまであった膨らみは失せ、ゴムがぺったりと張り付いている。中に溜まっていた精液がどこに行ったかなど、答えはひとつしかない。

「はあ……」

 不意に吐き出された息にびくりと肩が跳ねる。聞き間違いでなければその吐息は恍惚に満ちていた。ここまでどろどろに蕩けた声は滅多に聞くことができない。完全な不意打ちで身体が跳ねてしまった。失態だった。そのせいで、土方さんが気付いた。

「!?」

 土方さんがばっと勢い良く振り返る。かち合った目は驚愕に染まっていた。

「おまっ……いつから起きて……!」
「そわそわ貧乏ゆすりしてるあたりから」
「ほぼ最初からじゃねえか!!」

 叫びは悲痛な色を帯びていた。土方さんは腰を浮かせて距離を取ろうとする。そうはさせまいと手を伸ばしたが間に合わなかった。伸ばした手は宙を掴み、土方さんは勢いよく姿勢を正した。手にしていたコンドームはごみ箱へと叩きつけられる。

「土方さん、アンタさっき俺が出したやつ飲「じ、じゃあ俺は先に出るから。二度寝するんじゃねえぞ」

 俺の言葉を強引に遮る。こんな状況であっても小言は忘れないところがこの人らしい。いや、そんなことをのんびり思っている場合じゃない。止める間もなく土方さんはそそくさと部屋を出て行ってしまう。

「ちょっ、待てや土方ァ!」

 このまま有耶無耶にするつもりだ。何のつもりであんな真似をしていたのかをはっきりさせなければならない。常の土方さんなら精飲など絶対にありえない。要求されても断固として拒否するはずだ。それなのに俺の目を盗むようにこそこそと精液を飲んでいたのは何故だ。絶対におかしい。理由を問いたださなければならない。最初に捕まえ損ねたのは痛い。土方さんは部屋を出てしまっている。すぐにホテルからも出てしまうだろう。追いかけようにも俺はまず着替えなければいけない。

「っ、くそ!」

 眠気はとっくに吹き飛んでいる。転がるようにベッドから出て乱暴に衣服を剥ぎ取った。逃げ切られてしまう前に捕まえなければならなかった。

「ぜってー逃さねェ……」

 執念に満ちた声はどろどろと地を這っていく。この程度で俺から逃げられると思っているなら随分となめられたものだ。絶対に捕まえてやる。そう決意を固め、慌ただしく己の服へと袖を通した。


  ◇ ◇


 土方さんは昼頃からの出勤だったはずだ。ゆえに真っ直ぐに屯所に戻るとは考えられない。屯所に逃げ帰ったところでそこは安全地帯ではない。人目があるからと手加減をするつもりはないし、土方さんもそれはわかっているだろう。それならわざわざ衆目に晒される選択はすまい。ぎりぎりまでどこかに身を隠しているはずだ。仕事になれば俺との接触を断つこともできるが、それまでは逃げ回るしかない。
 土方さんの行きそうなところはどこだろう。出勤時間を考えるとそこまで遠くには逃げないはずだ。あの人が行く場所は多くはない。行きつけの場所はたいてい居酒屋か定食屋で、朝早くからそんな場所に逃げ込むとも思えない。ならばどこに行った。
 街を駆けずり回りながら考えを巡らせる。あの人は身を隠す場所ならいくらでも知っている。隙あらばサボタージュを決め込もうとする俺の隠れ家をあの人はことごとく見つけ出した。この街には身を隠す場所が多くある。だが土方さんがそこを利用するかは微妙なところだ。俺が開拓した隠れ場所だ。俺が知っている場所にはたして隠れるだろうか。場所はひとつやふたつではないので時間稼ぎくらいにはなるだろうが。
 いつもは俺が隠れる側で土方さんが探し出す側だった。立場が入れ替わるだけで行動の予測ができなくなる。とりあえず隠れ場所のひとつへ向かいながら街へ視線を巡らす。日が昇って間がないせいで表に出ている人は少ない。あの人が紛れていればすぐにわかる。だが視界にその姿を捉えることはできなかった。一体どこへ逃げた。舌打ちを零しながら黙々と足を進める。これでもかと苛立ちを振り撒いているせいか、数少ない通行人からことごとく避けられている気がする。窺うような、好奇の視線が鬱陶しくて仕方がない。しかしそれらに逐一噛み付いている時間も惜しく、極力意識に留めないように努めた。
 早朝から他人の不機嫌に当てられたくなどないだろう。街行く人々は視線が合ってしまうよりも先に俺から目を逸らす。だが全員というわけでもない。

「お」

 家屋を出てすぐのところに男がぽつんと佇んでいる。俺の探し人ではない。
 着崩した着物と、その下にはレザージャケット。傍から見れば傾奇者のようにも見えるが、全体から放たれる気怠げな雰囲気がその印象を掻き消している。どうしてこんなところに、と声をかけそうになったところで別になんらおかしくはないのだということに気付く。朝方なので一階は閉め切られている。二階へは外付けの階段から上がれるようになっていて、階段を登りきって少し行ったところへ戸口がある。そこから視線を上げると「万事屋銀ちゃん」と書かれた看板がでかでかと掲げられていた。どうやら俺は知らぬ間に万事屋へやって来てしまっていたらしい。本当に偶然だった。旦那を頼ろうとしていたわけでもない。だがそんな偶然はそうあるものではない。少なくとも旦那は俺の訪問を偶然とは捉えなかった。

「なんですか。こんな朝っぱらから依頼ですか。面倒事じゃねえだろうな」
「違いまさァ。偶然です、偶然」
「偶然〜?」

 疑惑の目が俺を見る。そんなに疑われても本当に偶然なので何もない。ああ。でもしかし。依頼はないが、尋ねてみるくらいはしてもいいかもしれない。

「依頼ではねェんですが、土方さん見てねえですか」

 見ているなら俺が問う前に話題に出してきそうなものだが、それがないということはおそらく見かけてはいないのだろう。無駄だろうとは思いつつも一応確認してみる。ホテルを出て向かった方向すらわからないのだ。こっち方面にいるのかもわからない。事はそう上手く行くものではなく、旦那は緩やかに首を振った。

「いや、見てねえな。何かあったのか?」
「いえ、別に」

 何かはあった。だがそれがなんであったかがわからない。それを問いただすためにこうして土方さんを探しているのだ。土方さん何故あんなことをしたのか。何かあったのか、などこちらが聞きたい。
 問いを露骨に躱したが旦那が追及してくることはなかった。それほど興味がないのだろう。今の状況について問わないが、その代わりとばかりに別の問いを向けてくる。

「最近土方くんどうよ。生きてる?」
「は? そりゃあ、生きてますけど……」

 生きているからこうして捜している。旦那の言わんとすることがわからない。最近元気? くらいなら世間話としてありがちではあるが生きているかとはどういう問いだ。いや、旦那なら元気にしているかどうかすら聞きはしないだろう。発言があまりに旦那らしくない。珍しい物言いに首を傾げると、その反応を見た旦那が首を傾げた。

「食事どうしてんの? 銀さんそろそろやべえんだけど、一週間はかかるんだっけ?」
「……なんのことです?」

 全体的に旦那の言っていることがわからない。質問の意図を正確に汲むことができずに首を傾げた。すると旦那にも疑問符が飛ぶ。

「あれ、もしかして聞いてない?」
「何をですか」

 しまった、と旦那の顔に書いてある。うろりと視線を泳がせて悩む素振りを見せたものの、結局は口を開いた。気が乗らないのか、口に乗った言葉はひどく緩慢で重い。

「俺と土方くん、色々あって淫魔になってんだよ」

 旦那が完全に理解できない言葉を発する。淫魔が……何と言ったか。全くもって意味がわからない。わからないままとりあえず何かを問おうとする。だがそれも上手くいかず、開いた口は何も音にしないままに閉じてしまった。



  ◇ ◇

 旦那から全部聞きやした。屯所中にアンタの失態をばらまかれたくなかったらすぐに俺の部屋まで来い。
 そう脅しの文言をメールで書き連ねて屯所へと戻った。メールを土方さんが読むのかは怪しいところではあるが、電源を落としていることは流石にないだろう。すぐに気付いて戻ってきてもらうのが理想ではあるが、とりあえず俺が旦那から洗いざらい聞き出したことを知っていればそれでいい。
 旦那から聞いた話ではこうだ。旦那は依頼、土方さんは非番。きな臭い場所でばたりと出くわし、いつもの口論になった。口論は次第にエスカレートしていき、手や足が出るようになっていった。周りが見えなくなっていき、近くにあった樽を派手に壊して二人揃ってその中身を被ってしまったのだとか。幸い違法性のないものではあったが、面倒な代物ではあった。なんでも淫魔が溺れたという逸話のある泉の水であるらしく、その水を被ってしまった者は淫魔となるのだそうだ。解決策はあるにはあるが少々時間がかかるそうで旦那も土方さんも淫魔のままであるとのこと。そんな話は一切聞いていない。
 土方さんがメールを読んでいるかは五分。素直に戻ってくるかどうかも五分。それらの確率を併せると土方さんが要求通り俺の部屋へやってくる可能性は低い。まあしかし、来なければあの人の仕事が終わってから捕まえてくればいいだけの話だ。同じ場所で生活しているのだから攫ってくる隙はいくらでもある。そこまで考えていても足は真っ直ぐに自室へと向かう。時間が許す限りは待っていよう。そんなことを考えながら障子を開け放したところで思わず硬直した。
 黒い塊。咄嗟にそう認識して警戒してしまったが、よく見ればそれは待ち人に違いなかった。待つまでもなく土方さんは既に俺の部屋にいた。

「……帰ってたんですか」

 屯所には戻らないだろうと予測を立てていたがそれは外れていたらしい。俺がそう予測すると考え、それを逆手にとってあえて戻って来ていたのだろうか。もしくは早くに仕事を始めて俺を遠ざけるつもりだったか。おそらく後者だろうなと思う。ホテルを出た時の土方さんは着流し姿だったはずだが、目の前の土方さんは隊服を着込んでいる。スカーフもしっかりと巻かれていて今すぐにでも仕事に入れそうだ。まだ出勤までには時間があるはずだが。

「どこまで聞いた」

 俺の問いには答えない。そのくせ俺には問いかけてくる。それに応じなければ話が進まなくなる。俺だけが答えるのは癪だったがこんなところで意地を張っても仕方がない。旦那から聞いたことを簡潔に伝える。

「水を被ると淫魔になって、元に戻るためには湯……じゃなくて硫酸を被らないといけないからアンタも旦那も淫魔のまま。水を被ると男になる泉の水を取り寄せてるけど審査やら距離やらの関係で少なくともあと二週間はかかる、ってとこですかね」

 淫魔はインキュバスではなくサキュバスの方。精液が主食で、牛乳などの白いものでも気休め程度にはなるが、菓子のようなものだ。空腹への根本的な解決にはならない。人間としての食事は娯楽に分類されている。水を被ったのは二週間前。旦那は自家発電といちご牛乳で凌いでいるが土方さんがどうしているかは不明。

「ちっ……べらべら喋りやがって……」

 旦那に向けての言葉だろう。舌打ち混じりのその声には苛立ちが込められている。旦那に悪気はない。土方さんが隠しているとは思いもしなかったので話題にしてしまっただけだ。そう旦那を庇ったところでこの人の機嫌が悪くなるだけなので余計なことは言うまい。ただでさえ今この人は気が立っている。ここ最近のこの人の不機嫌は異様だった。あれこれと理由を考えてみたが、原因はもっと単純なものだった。

「ここ最近の機嫌が悪かったのは腹が減ってたせいだったんですか」
「…………」

 沈黙。否定しないということは肯定と同義だろう。人間、腹が減れば気も立つ。

「朝のあれは空腹に耐えきれずについ……って感じですかねィ」

 土方さんの表情が歪む。図星か。
 おかしいとは思っていた。あまりにこの人らしくない。そういう理由なら納得はできる。淫魔がどれくらいの頻度で食事を必要とするのかはわからないが、二週間まともに食事をとっていないのはきついだろう。

「……悪かった。もうあんな真似はしねえよ」

 精飲がよほど不本意だったのだろう。土方さんの口調はどこまでも苦々しく、視線は下の方へ向いていて俺を見ていない。

「もうしないって、あと二週間はそのままなんでしょう。その間絶食して大丈夫なんで?」

 まさか硫酸を被るわけにもいかないだろう。二週間で自制が利かなくなるほどに飢えた。あと二週間を耐えられるのか。決してこの人のことを案じているわけではない。ただ、この状況に少しばかり楽しさを見出した。それだけのことだ。

「なんとかなるだろ」
「そうですかねィ。腹減ると判断力も鈍るし指揮に影響が出ると思うんですが」
「ぐっ……」

 この二週間、仕事に支障をきたすことはなかった。だがここからの二週間もそうだとは言い切れない。真選組にとって自分がどれほど重要な位置にいるのかはわかっているだろう。司令塔は常に万全でいなければならない。それはわかっているはずだ。だから言葉を詰まらせた。

「俺は協力したっていいですよ」

 セックスついでに土方さんの食欲を満たすだけだ。手間もないし、むしろ拒否する理由がない。だが土方さんはそうは思わなかったのだろう。俺が土方さんの益になる行動を取ることが信じがたいらしい。一気に警戒心を剥き出しにして俺を見る。ううん、つくづく信用がない。

「何企んでやがる」
「やだなあ、何も企んでやせんって。嫌々俺の精液飲んでるところが見たいだけです」

 嘘ではない。嫌がっている姿に高揚する。俺の捻れた嗜好はとっくに知られていて、土方さんはそれを聞いて納得したようだった。嫌そうに眉間に皺を寄せたが。

「いらん」

 魅力的な提案だと思うのだが土方さんはぴしゃりと撥ね付ける。まあ、そう来ると思っていた。精液を飲むなど屈辱でしかないのだろう。あの時零していた吐息には間違いなく恍惚が含まれていたが、理性と本能は別物だ。淫魔としての食事を理性が強く拒んでいる。押すだけではこの頑なな態度を崩すことは難しい。

「こんなこと言いたかないんですがね、これでも心配してんですよ」

 押すばかりではいけない。引くことも時には必要だ。押して駄目なら引いてみろ。この作戦に土方さんは存外弱い。今回もいっそ哀れなほどに狼狽えている。まだ押してはいけない。更に引く。

「ま、いつでも声かけてくだせェ。餓死されんのは御免ですから」

 困惑が強く滲み出る。どう答えるべきか結論を出しかねて結局何も言えずにいる。そこまで手に取るようにわかる。さっきまで頑なだったくせに少し引いただけであっさりと揺さぶられている。

「……話はそれだけなんで、仕事頑張ってくだせェ」

 あまり畳み掛けても警戒されてしまうだろうからこれくらいでいいだろう。返事を聞く前にさっさと部屋を出てしまう。軽く思考が止まっていたのだろう。
 お前もこれから巡回のくせに他人事みたいに言ってんじゃねえぞ、だとかそんな怒声が飛んでくることはついぞなかった。



  ◇ ◇

 言われてみれば土方さんの様子は空腹時のそれだった。ここに至るまでにそれに気付かなかったのは、土方さんが気取られまいと気を張っていたからだろう。だがそんな緊張をいつまでも保ち続けるのは難しい。一度飢えが落ち着いたことで気が抜けてしまったのか、もしくは俺が事情を知ったことで力が抜けたのか。どちらにせよ気が緩んでいることは間違いない。
 戦闘中は問題ない。一瞬の油断が命取りになる場所だ。それはあの人もよくわかっていて、常になくぴりぴりとしている。だがそうやって気を張っているから無駄にエネルギーを消費してしまって空腹が増す。完全な悪循環に入っているわけだが、土方さんは気付いているのかいないのか。まあ、どちらにせよ態度は変わらなかっただろう。刀を交える場での油断は死に直結する。わかっているのだ。そのくせ油断のそもそもの原因を取り除こうとしないのがわからない。

「あ、お疲れ様です」

 帰還して一番に視界に入ったのは山崎だった。俺達を見るなり、眉間に皺を寄せる。

「また派手に汚れましたね」

 山崎が顔を顰めるのも無理はない。職業柄血を被ることは珍しくないが、今回は特に酷かった。狭い路地で何度か相対したため、避けようもなかったのだ。俺や土方さんだけでなく、今回参加した隊士は軒並み血でどろどろになっている。べったりとまとわりついた血は肌にも張り付き、乾き始めていた。慣れたものだと言えばそうなのだが、やはり気分のいいものではない。さっさと洗い流してしまいたかった。戦果だとか、そんな細々としたものをまとめるのは後日でもいいだろう。

「制服早めに出してくださいよ。落ちなくなるんで」
「オメーは母ちゃんか」

 山崎の言葉を流しつつ、靴を脱いで屯所へとあがる。全身血塗れだがほとんど乾いているので廊下が汚れる心配はしなくてもいい。俺達を待っていたというわけでもないようで、小言を言うだけ言って山崎は別室へと消えてしまう。俺達は俺達で目的地へ向かって歩き始めていたので互いの姿はすぐに見えなくなってしまった。遠く離れ、気配を拾えなくなったあたりでついに気になっていたことを話題へあげた。

「土方さん、さっきからやけに静かですけど起きてます?」

 俺の後をついて歩く。動いているので起きてはいるのだろうが、やけにその動きは緩慢だ。気が抜けて疲れが一気にやってくる、なんてこと珍しくはないが今日はそれほど疲れる内容ではなかったように思う。

「起きてる」

 寝てるわけねえだろうが、などと強めの否定が返ってきそうなものだが、土方さんの言葉は実に穏やかなものだった。普段からそう素直に応えられないものか、とかそんなことを考えている場合じゃない。土方さんにしては随分とらしくない。こんなに棘のない物言いをするのは機嫌がいい時くらいだ。そして仕事明けで疲れている土方さんが上機嫌であるとはどうにも思えない。
 応答に滲む僅かな違和感だけが何かがあると俺に告げている。そうだろうか。根拠はない。強いて言うなら年季の入った付き合いの長さによる経験則だろうか。やはり、何かおかしい。
 足を止め、くるりと振り返る。俺も土方さんも目指す場所は同じだ。血を洗い流さなければならない。だから俺が止まれば土方さんの行く手を阻む障害になる。そのために土方さんも足を止めた。

「どうした」

 苛立つでもなく、怪訝そうに問う。これはやはりおかしい。土方さんは短気だ。こういう時、この人ならば苛立ちが先に来る。心配もするにしても、苛立ちの後だろう。

「それはこっちの台詞でさァ」
「はあ?」

 見たところ、怪我をしているわけではない。外傷のないダメージを負っているとも考えにくい。此度の敵はガス系の武器は備えていなかった。だから怪我をしていれば外傷が残る。怪我ではない。それならなんだ。

「……行かねえんなら先行くぞ」

 俺がそれ以上何も言わないことで土方さんが焦れた。俺を押し退け、先へ進もうとする。これはおかしくない。いつもの土方さんだ。俺は何に引っ掛かっているのか。
 土方さんの手が肩へかかり、ぐいと押し退けられる。その瞬間に原因があちらからやって来た。
 きゅるるる……。
 音が聞こえた瞬間、土方さんの表情がこれ以上ないほどに歪む。随分と聞き覚えのある音だ。

「土方さん」
「違う」

 先へ行くことで逃げようとするので手を掴んでそれを阻んだ、動きを止めることに成功はしたが、土方さんは俺を見ようとしない。

「まあ、気張ってりゃ腹も減りますって」
「減ってねえ」
「いやいや、腹の虫が思い切り鳴ってたでしょうが」

 言い逃れるには無理がある。それは土方さんもわかっているようで、それきり渋い顔で黙り込んでしまう。反応が鈍かったのは空腹のあまり省エネモードに入っていたせいか。きゅるきゅると腹が鳴る。よほど空腹なのだろう。身体がそう訴えている。それなのに土方さんは頑なだった。

「まだいける。ほっとけ」

 己の状態を素直に受け入れようとしない。この人なら本当に意地を貫きとおしてしまう気もするが、それでも無闇に隙を作らないに越したことはない。決して、この人の身を案じているわけではない。この人に何かあれば真選組、ひいては近藤さんにとって不利益になる。それを避けたいだけだ。他意はない。

「あくまで平気だって言い張るつもりですか」
「言い張るも何も、事実だ」

 なるほど、これでは埒が明かない。無理矢理食事をとらせることは不可能ではないが、本気で抵抗されると面倒だ。できれば穏便に済ませたい。

「わかりやした。アンタがそのつもりなら近藤さんに全部報告してきます」
「!?」

 土方さんの手を放し、一人で近藤さんの元へ向かせようとする。すると今度は逆に俺が捕まった。立場が逆転し、土方さんが俺を引き止めている。

「なんですか」

 交渉は決裂した。これ以上話すことなどお互いにないだろう。近藤さんの名を出した途端、これまでにない動揺を見せた。近藤さんに知られたくないのだろう。それはわかっている。だからこそあえて近藤さんの存在を持ち出してきたのだ。動じてもらわなければ困る。

「近藤さんに話すって、なんでそうなる……」
「自分の状態もまともに判断できねえくらいやばいなら近藤さんに頼るしかねェでしょう。アンタ、俺の話なんてきかねえんだから」

 今しがた助言を撥ね付けたばかりだ。その口で否定することは流石にできなかったようで言葉を詰まらせる。

「事情話しとけば様子も気にかけてくれるでしょうし、一時的にでも負担の少ない仕事の振り方だってできるでしょ」

 いつもとは違うのにいつもと同じだけ仕事をこなそうとするからエネルギーが枯渇するのだ。
 咄嗟に口にしたにしては名案ではないだろうか。近藤さんの言うことならわりあい素直に聞くだろう。
 ぎゅうと手を更に強く掴まれる。行く手を阻もうとしているのだろうか。この場で留めたとしても根本的な解決にはならないが。よほど知られたくないのだろう。

「報告されたくねえなら自己管理くらいはしてくだせェ」

 正論を口にしているのは俺の方だ。それは土方さんもわかっているようで反論はしてこない。自己管理が危うくなっている自覚はあるようだ。それくらいは自覚しておいてもらわなければ困る。近藤さんの名前を出すのは少々卑怯だとは思うが、こうでもしなければいつまでも折れないのだから仕方がない。

「ってわけで、今晩どうですか」

 なんの誘いかわからないほど初心ではないだろう。淫魔になった土方さんの食事についての話をしていたのだ。行く着く先はひとつしかない。

「……今日はお前も疲れてんだろ」
「まだ若いんで全然いけまさァ。……ああ、でも土方さんは疲れて無理ですかね」
「この程度で疲れるわけねえだろ。……げ」

 反射的に言い返してから自分で退路を断ってしまったことに気付いた。この人のこういう迂闊なところはわりと好きだ。御しやすくていい。

「じゃ、今晩。場所見つけたら連絡するんで」

 渋い顔をしている土方さんにそれだけ告げて方向を戻す。浴びた血がべったりと張り付いて肌を覆っている。早く洗い流してしまいたかった。
 近藤さんの元へ行くつもりがないとわかったからか、手はあっさりと振り払うことができた。

「ちなみに、ビビって来なかったら近藤さんに報告するんで」

 保険としてそう告げれば、背後から痛いほどの殺意を向けられた。



  ◇ ◇

 セックスの時にはホテルを利用する。同じホテルを繰り返し使うことはあまりしなかった。俺も土方さんも、一部界隈では有名だ。そんな人間が頻繁に出入りしていると知られることがあれば面倒になるのは目に見えている。だから同じ場所を連続で使用するのはせいぜい二回。継続的に利用したいなら最低でも一ヶ月は間を空ける。面倒極まりないが、必要なことだと言って土方さんが譲らなかった。
 今回利用するホテルは初めて利用する場所だ。ベッドに横になってあたりを見渡すが、やはり初めての場所は落ち着かない。
 設置されているテレビを点ける気にもなれずただ時間を持て余す。浴室から絶えず流れ続けていた水音は止んだ。ドライヤーの吹かす音も止んで久しいのでそれほど待つことはないだろう。そうわかっていても落ち着かない。こうして待っている時間はあまり好きではない。壁を隔てた向こうで何が行われているのかは知識では知っているし、時間がかかるのもわかっている。手伝うのを拒否されているのだから待つしかない。それでもやはり退屈なのだ。時間を持て余してしまい、じっと壁の向こうの気配を窺う。
 確かに居るということくらいはわかるのだが、何をしているのかまでは流石にわからない。ごとごと、と音がする。先に浴室を使ったので間取りはわかっているが、それでも物音の予測がつかない。ざっと湯を浴びただけですぐに出てしまったので何が置いてあったかなど記憶に留めていなかった。想像をのろのろと巡らせ、遅々として進まない時間を手繰る。元々我慢強い方でもないのだ。まだかまだかと忍耐をすり減らし、早々に限界が迫ってくる。声をかけて催促してやろうかと、そんなことを考えたところでようやく目の前のドアが開いた。
 浴室に向かった時の土方さんは真っ黒な着流しを身に纏っていた。だが今は対照的に真っ白なバスローブを着込んでいる。この部屋の設備として用意されていたものだ。先にシャワーを浴びた俺もこれと同じものを着ている。フリーサイズなので土方さんの方は少し丈が短く見える。わかってはいたことだがこうして目にしてしまうと少々面白くない。
 土方さんは土方さんで俺を見た途端、眉を吊り上げた。何かが気に障ったらしい。

「お前、髪ちゃんと乾かしとけって言っただろ」

 洗い流された髪はタオルで水気を拭っているだけで、全体的に湿りを帯びている。そういえばそんなことを言われていた気もする。完全に忘れていた。

「脱衣所にドライヤーがあるんだから使えねェでしょ。覗き見する趣味はありやせん」
「俺がシャワー浴びてる間に使えば良かっただろ」
「まあ、そうですね」

 忘れていただけなので反論はすぐに打ち破られてしまう。というか女でもあるまいし、髪など放っておけばいいのではないか。キューティクルが傷むだとか、そんな些事は億劫さに勝てない。

「それ、ベッドも濡れてんだろ」

 湿った頭でごろごろと転がっていたのでベッドにも多少移っている気はする。ぺたぺたとベッドに触れてみるが気になるほどではなかった。そんな確認をしていると土方さんがくるりと踵を返す。向きを反転すれば正面は浴室へ続くドア。たった今、ようやく出てきたばかりだというのに何故また元来た道を戻ろうとしているのだろう。などと考えたところで理由は明白だった。ドライヤーを取りに行くつもりなのだ。俺に髪を乾かさせるつもりなのだろう。

「土方さん」

 そうはさせるかと呼び止める。散々待ったのだ。これ以上は待てない。例え原因が己であったとしても。
 呼ばれたことで土方さんがこちらを見る。だが身体の向きはあちらに向いたままだ。言葉なく手招きすれば眉間の皺が深くなった。言わんとすることは伝わったらしい。

「風邪引くだろ」
「もう乾いてきてるんで大丈夫ですって」

 もう片方の手でばんばんと手を叩く。子供じみた仕草だがなりふり構ってはいられない。幸いにして効果はいくらかあったらしく、土方さんの動きが止まる。その僅かなチャンスを逃すまいとベッドを更に激しく叩いた。勢いをつけ過ぎたせいで手は弾き返されて高く跳ね上がる。その様子があの人の目にはどう映ったのだろう。昏い瞳が呆れの色を浮かべ、口からは深く溜息を吐き出される。それに合わせて身体の力が抜けて肩の位置が下がる。くるりとまた踵を返し、俺の方へと向き直った。それから足を踏み出す。土方さんがいる場所からベッドまではそう距離がない。あっという間に距離は詰まり、触れられるまでに縮む。目の前までやってきた土方さんが身を屈め、俺へと手を伸ばす。伸ばされた手の、その指先は俺の髪を絡め取る。常なら巻きつけた程度ではすぐにすり抜けてしまうのだが、湿っているために滑りが悪くなっていて、すぐには指から離れていかない。ずるずると指のまわりをゆっくりと這い、ぺたりと落ちる。ドライヤーは諦めたものの、やはり髪のことは気になるらしい。

「お前の髪質、将来ハゲそうだよな」
「このタイミングで不穏なこと言うのやめてくだせェ」

 土方さんはどうにも俺の髪をいたく気に入っているらしい。接触を好む人ではないので触れられることはあまりないが、一度触れると妙にしつこい。髪に触れて何が楽しいのかさっぱりわからないのだが、まあ許そう。だが不穏な発言を混ぜるのはやめてもらいたい。何が悲しくて十代でハゲる心配をしなくてはいけないのか。放っておくといつまでも髪を弄り回されていそうだったので頭を振って拒否を示す。するとようやく手が髪から離れた。
 振り払われ、行き場をなくして手が宙に浮く。その手を掴み、思い切りこちらへと引き寄せた。急なことで対処しきれなかったのだろう。土方さんは引かれるままにバランスを崩し、俺の上へと覆い被さる形になった。俺の好きにさせてくれるようで、逃げ出す素振りもなく力が抜ける。目の前にある首筋へと噛み付けばびくりとその身体が跳ねた。

「いっ…! てめっ、毎回噛むんじゃねえよ」

 何度も甘噛みを繰り返していると、土方さんの手が俺へと伸びてくる。手は額に押し当てられ、俺を押しのけようとしていた。
 完全に押し退けられてしまう前に身体へ手を這わす。バスローブはごわごわとしていて、逆立った繊維が肌をちくちくと撫でた。外から内側に向かって手を這わせていく。土方さんの意識がそちらへ向き。押しのけようとする力が緩んだ。その隙にバスローブの合わせ部分から手を滑り込ませる。
 風呂から上がったばかりの身体はまだ火照りを帯びている。手を深く潜り込ませていけば結び目がとけ、だらりと前が肌蹴た。その身体は筋肉にびっしりと覆われ、ところどころが大きく隆起している。鍛え方にさほど差はないはずなのだが、身体つきは俺よりもしっかりしている。硬い身体を辿り、手を上へと滑らせていく。筋肉によって膨らんだ胸部の、その中央近くはぷくりと小さく出っ張っている。そこへ爪を立てれば目の前の肩が震えた。

「っ……」

 声はなく、口内で噛み殺されてしまう。小さな頂に指を乗せ、その上でくるくると軽く回転させる。声は相変わらず漏れて来ないが腰がびくびくと震えている。無理に声を押し殺しているせいで眉間には常より深い皺が寄る。固く引き結ばれた口は何を言ったところで解けないだろう。だから説得は諦め、強く爪を立てる。

「っ!!」

 土方さんが息を詰める。この程度で綻ぶとは俺も思っていない。踏み留まった土方さんを横目に見やりつつ、同じ場所へ顔を埋めた。邪魔なバスローブを鼻先で押し退けると視界のおおよそは肌色になる。指を乗せているほんの一部だけが薄紅色をしていた。己の指をそこから離し、口を寄せる。口を開いて歯を剥き出し、その控えめな頂きへと歯を立てた。

「っ、ぅ」

 痛みが混じれば流石におさえがきかなくなるらしい。僅かでも声が上がったことに気をよくし、角度を変えて何度も歯を立てる。その度、怯えるようにびくりと肩が跳ねるので見ていて飽きない。噛み直す度、怯えたように身体がぴくりと跳ねるのが楽しい。噛み千切る気はないのでそんなに怯えることはないだろう。そんなことを言ってもこの人は信じないのだろうが。

「……っ、い、つまで噛んでんだテメー」

 どうやらしつこ過ぎたようでぐいと頭を押し退けられる。そうして顔を合わせれば土方さんの目には涙の膜が張り始めていた。いつもより水気を多く含んだ目はその動きに合わせてゆらりゆらりと揺れる。今にも泣き出しそうだ。決して泣きはしないのだとわかってはいるが、そんなことを思う。
 俺の動きが止まったことで溜飲が下がったのか、土方さんはふんと小さく鼻を鳴らす。それから今度は土方さんが俺に向かって手を伸ばした。結び目へと手をかけ、片手だけであっさりと解いてしまう。それから、開いたバスローブの間に手を滑りこませた。手が俺の肌へと触れる。ごつごつとして無骨な手は癒やしとは無縁のはずだが、ほうと息を吐いてしまう。触れるか触れないか、そんな微妙な加減で指先が身体を辿る。そして俺とは対照的に土方さんの手は下へと落ちていった。
 腹筋の小さな割れ目を辿っていくと布地に行く手を阻まれる。それに土方さんが動きを止めたのはほんの一瞬のことで、すぐに指先は動き出す。ゴムの部分を引っ掻き、引っ張ってゴムと肌との間に空間を作る。その中へ指を滑り込ませ、何事もなかったかのように降りていった。降りていけば当然その中央部へと行き当たる。興奮を具現化するように硬度を帯びたそれに、指が絡んだ。わかっていたことではあるが、急所に触れられることに慣れることはない。それでも何をするかは知っているので力は徐々に抜けていく。指は何も纏っていない。それなのにぬるりと滑るのは兆した己が先走りを零していたせいだ。上下に揉みしだかれ、硬度は徐々に増していく。先端を押し潰されると強い快楽が襲ってきて思わず腰を引いてしまう。だがいつの間にか腰は土方さんに抱き込まれていて、うまく逃げることができなかった。

「っは……はぁ…っ」

 上下に扱き上げられたかと思うと今度は裏筋を辿るように撫で上げられる。同じ男だけあってどこをどうされると気持ちいいのかはよく知っていた。相変わらずの仏頂面だが、そこに愉悦が混じっているのがわかる。己の手によって俺を好きにしていることに対する愉悦。その楽しさはよくわかるのだが、いつまでもされるがままでいるつもりはなかった。主導権を譲ったつもりはない。
 潜り込んでいる手を掴むと土方さんの表情が不満げに歪む。このまま最後まで手で弄ぶつもりだったのだろうが、それは却下だ。不満を感じているのはわかっている。土方さんはそれを隠すこともなく、まっすぐ俺へぶつけてきた。瞳の中に、ぎらぎらと雄の色が宿っている。

「別に一回イったって余裕あんだろ」
「そりゃそうですがね。一回イかせとかないとアンタの方が保ちそうにないですか?」

 土方さんを動かすのに最も有効なのは挑発だ。プライドを逆撫でする言葉に土方さんはあっさりと冷静さを失った。こうなれば売り言葉に買い言葉だ。

「んなわけねえだろ」
「じゃ、いいでしょ」

 ぐっと肩を押す。未だ不満げな顔をしているが、逃げ道は今しがた自分で塞いだのだ。上手い言い逃れも思いつかなかったらしく、身体は緩慢ながらに倒れていく。頭が枕へ埋まったところで険が増した。原因はわかっている。土方さんは組み敷かれた時の風景が嫌いだ。単に馴染みがないせいだろう。いい加減不機嫌な顔ばかりするのはやめてもらいたいところだが。
 バスローブを左右に撥ねのければ肢体のすべてが露わになる。いかに不機嫌を撒き散らしていても本気で嫌がっていないのは見ればわかった。慣れもあるが、何より男は雄弁に語る部位がある。
 ボクサーはそのシルエットを強調するようにぴたりと身体へ張り付いている。その中央部分が内側から布地を押し上げていた。元々多少なりとも膨らみはするが、その盛り上がり方は通常よりも大きい。土方さんもまた興奮していることは明らかだった。
 伸ばした手はその身体へ届く前に叩き落されてしまう。ここまできてそんな拒絶はないだろう。抗議の視線を送ると土方さんは土方さんで抗議の視線を送り返してくる。一体何が気に入らないというのか。首を傾げていると、土方さんが身を捻る。逃げ出そうとしているわけでもなさそうなのでその様子を眺めていると、手が何かを掴んで戻ってきた。そうしてこちらへ放られる。

「わっ、と……」

 ぺし、と軽い音を立てて掌へ張り付く。何かと目をやれば手の内にはコンドームがおさまっていた。これをつけろということらしい。意図を理解して、思わずげんなりとした声を上げてしまう。

「……言われなくてもつけますって」

 つけずにヤったことなどないだろうに、何故今更そんなことを改まって要求してくるのか。疑問をぶつけてみるが土方さんは答えることを拒絶した。土方さんの視線は俺から逸れ、下肢へと向かう。それから伸ばされた手はボクサーの下へと潜り込んだ。俺がしようとしていたように内側からボクサーを押し上げて無理矢理隙間を作る。そうして指に引っ掛かったボクサーをそのままずるずると引き下ろしていった。俺の手でやろうとしていたことがそのまま土方さんの手で行われている。
 脱ぎやすいように足が折りたたまれ、その上をボクサーが滑っていく。体勢のせいで身体の動きは制限されている。そちらに意識をやっているので視線は合わない。それゆえにいくら見ていたところで咎められることはない。窮屈そうに身を捩りながらもなんとかボクサーを足から引き抜いた。そうやって正真正銘すべてを晒した状態で手がまた何かを探す。
 近くの棚へ挿し込まれた手がごとごとと物音を立て、すぐに戻ってくる。その手にはボトルが握り込まれていた。つるりとしたそのボトルの中で、液体がたぷたぷと揺れている。土方さんは一瞥することもなく、キャップを指先で弾く。そうしてボトルの中身をぶち撒けた。押し出された潤滑油が垂れ落ちる。手が汚れていくことも構わず、そうして絞り出された潤滑油は掌におさまりきらずに溢れてしまう。過剰に絞り出された潤滑油が肌を伝い、落ちていく。そうしたところでようやく土方さんは手を止めた。そうしてぬかるんだ手は下へ向かっていく。緩く起ち上がった中心部を通り過ぎ、その身体の下へと潜り込む。
 足の付け根近くにある後孔は通常ならば固く閉ざされている。そこへ侵入するのは、それこそ事前に拡張でもしていない限りは困難だ。ひたりと、濡れた指があてがわれる。閉じ合わされている指は二本で、普通ならまずそんな質量は入らない。ふう、と肩で大きく息を吐く。それから指が蠢き、縁をなぞった。爪先から、指が埋まっていく。無理矢理押し込んだといった様子はなく、指はそれこそ吸い込まれるように根元まで埋まった。指が根元まで飲み込まれると、乱暴に中を掻き回し始める。拡張は既に済ませてあるので土方さんの目的はそれではない。指に纏わせた潤滑油を体内にすり込もうとしているのだろう。潤滑油だけは流石に前もって仕込んでおくことはできない。
 明後日の方向を向き、黙々と指を蠢かせている。指が動く度に穴がぐにぐにとその形を変えた。思わずその様子を眺めていると軽く肩を蹴られる。

「いてっ」
「いつまで、見てんだ……っ」

 射殺さんばかりの殺意を向けられて溜息。いや、だからこんな時に殺意はどうかと……まあ、この人なりの照れ隠しなのだろうから何を言っても仕方がないのだろうが。

「へいへい、わかってますって」

 これ以上機嫌を損ねられる前に素直に従う。包装紙を千切り、中のコンドームを取り出す。先端から少しずつコンドームを被せていくと、ぴちぴちと張り付く音があたりへ反響した。破れてしまわないようにゆっくりと身をおさめていく。そうしてコンドームが根元まですっぽり覆い隠したところで目線を上げた。
 ばちりと目が合う。俺には見るなといったくせに土方さんは俺の様子をずっと見ていたらしい。それはいささか不公平ではないだろうか。じっと抗議の視線を向ければ、返す言葉がないのかついと視線を逸らされる。それにつられるように、埋まりこんでいた指がずるずると引き抜かれていった。抜けていく感覚にふるりと身体を震わせ、ゆっくりと息を吐いた。もう準備はいいらしい。

「痛かったら言ってくだせェ」

 毎回の台詞を今回も吐けば、土方さんの表情が盛大に歪む。気持ち悪い、とその表情は雄弁に訴えていた。慣れない言動をしている自覚はあるので気持ちはわからないでもない。毎度のことではあるが、人の気遣いに対してその反応はいかがなものかと思う。まあ、この反応を見たくてわざと言っているところが大きいので構わないのだが。文句を言ったところで改められないのはわかっている。
 こんなことをいくら言ったところで土方さんは素直に苦痛を訴えはしないだろう。キレて攻撃を仕掛けてきそうではある。予想に違わぬ反応に心がいくらか満たされたところで足首を掴んでその身体を引き寄せる。下敷きにされているシーツが一緒に引きずられ、深く皺を刻んだ。
 先ほどまで指が埋まりこんでいたそこに、ひたりと先端を押し当てる。土方さんが強張ったのはほんの一瞬だけで、息を共に力は抜けていく。強張りが解け、引き寄せる前の状態に戻ったところで穴の中へと潜り込んだ。
 身体は異物を押し返そうとするが、ぬかるんでいるためにすぐに押し負けてしまう。出張った先端が一気に潜り込み、土方さんが息を詰めた。

「っ……ふ」

 詰めた息を意識してゆっくりと吐き出していく。肺の中へ溜め込んだ息を吐き出しきったところで、更に深く身を沈めた。土方さんの身体は逃げ出すように少しずつ反っていく。突き出された喉仏が絶えずひくついている。声を吐くように口は開閉しているものの、実際に声が聞こえることはほとんどない。土方さんの意地によって声は胸の深くに押し込まれている。だが身体まで制御することは流石にできないらしく、挿入が深くなるほどに震えが増していく。反応のすべてを押し殺そうとしているせいか、その様子は苦しげだ。
 手がシーツを手繰り、上へ逃げようとする。制御できないらしいささやかな抵抗は、普段の馬鹿力を思えば弱々しいものだ。捻じ伏せながら繋がりを深くしていく。耐えるように細められた目がぐしゃりと歪んだ。
 どれだけ上辺を取り繕おうと、快楽は経験として身体に刻み込まれている。それに抗うことはとてつもなく難しく、特にその瞳は雄弁だった。土方さんの目は、深く昏い色をしている。それをもってしてもどろどろと、纏わりつくような情欲を隠すことはできていない。息が上がるのは高揚しているからだ。熱っぽく吐き出された息は己のものか、はたまたこの人のものか。そんな境界線すらひどく曖昧になってしまっている。
 そんなことを考える余力も次第に削り落とされていく。熱い内壁がすべてを包み込み、不規則にきゅうと締めつけてくる。その度に土方さんが戦くように瞳を揺らす。己の意思ではなく、身体が勝手に反応し蠕動しているのだろう。己の身体を制御できず戸惑う姿はいつ見ても心を擽られるものがある。ひたひたと、優越感に満たされていく。そうして浸っていると、藻掻いていた手が不意に異なる動きを見せる。のたのたとシーツの上を這い、それから俺の手へとのぼってきた。ただじっとそれを眺めていると、手の甲へ爪を立てられる。職業柄、爪はいつだって切り揃えられてはいるが、それでも痛いものは痛い。ちくりとした痛みに眉根を寄せ、土方さんへと視線をやる。何のつもりだろうか。投げかけようとしたそんな問いはすぐに吹き飛んでしまった。
 そんなもの、問うまでもなかった。つい先ほどまで強く根ざしていた理性は、瞳の中で頼りなく揺蕩っている。押し流されて沈み、時間をかけて浮き上がり、また沈む。

「……なんて顔してんですか」

 珍しい、と真っ先に思う。この人は自制心の塊のようなもので、こんな早々に落ちかけるようなことはまずない。普段の土方さんならありえないことだ。それならば俺が取るべき行動は心配だったのだろう。隅の方の、冷静な頭はそんなことを考えるのだが、生憎、衝動の方が随分と強かった。

「っひ、……ぅ」

 衝動に任せて腰を引けば、土方さんからは引き攣れた声が上がる。それもまた珍しい。だが湧き上がるのは不審ではなく劣情だった。
 熱が引きずり出されたことにより、密着していた内壁が擦れる。その刺激が快楽を生むようで、土方さんの喉がひくひくと震えた。俺を掴んでいた手は浮き上がり、随分とか弱い力でシーツを掻く。ようやく、といった様子で吐き出される息は熱を孕んでいた。熱を半分ほど引き抜いたところでまた押し戻していく。先端のエラで内壁を引っ掻くように意識しつつ、再びすべてを埋め込んだ。びくびくと体が震え、背が反っていく。

「んっ……ん゛あッ」

 固く噛み締められた歯の隙間から声が漏れ出す。与えられる快楽に耐えるように瞼は固く落とされている。

「土方さん」

 びくりと身体が震えた。普通に呼んだつもりだったのだが、吐き出された声はひどい熱を孕んでいた。腹をすかせた獣のようだ。己でそんなことを考えて笑えてくる。的外れな想像ではない。
 呼びかけをどう捉えたのかのかはわからない。ただ無視されるだろうとは思っていた。そんな予想はあっさりと打ち砕かれる。固く閉ざされていたはずの瞼はあっさりと、応じるように持ち上げられた。そうして俺を見る。目を閉じていたからといって宿る情欲が消えるはずもない。小さな瞳には俺の姿が映りこんでいるが、どろどろと揺れるせいではっきりとその姿を捉えることはできない。だがそれでも、この人の意思をもって捉えられたのは事実だ。いつもの険しさは揺蕩う熱によって薄められ、随分と穏かな印象を与える。いいや、違う。穏やかなのではなくぼんやりとしている。
 常の土方さんなら攻撃的な言葉のひとつでも飛んできそうなものだが、それもない。ただ呼ばれたから応じた。そんな様子でぼうっと俺を見ている。俺が何の反応も示さないことを不審に思ったのだろう。瞳の中に困惑が浮かぶ。困惑したいのは俺の方だというのに、土方さんには伝わらない。

「……総悟?」

 訝しみ、俺を呼ぶ声はひどく拙い。ぎりぎり漢字表記に留まっている。そんな様子にひどく違和感と倒錯を抱く。目の前にいるのは土方さんでもなく、もっと年若い、自分よりうんと若い何かであるような、錯覚。

「……どうした」

 抵抗のように俺の手を掴んでいた手が外れる。そうして案じるようにゆるゆると俺の顔へと向かって伸ばされた。ああ、違う。普段のアンタはもっと無愛想だ。用事がないなら呼ぶなとばかりに睨み付けてくるのがいつものアンタだ。そんな普通に、素直に俺を案じるなんてアンタらしくない。こうして固まっている俺もまた、らしくない。何もかも違うことだらけだった。それがひどく落ち着かず、いつもの調子を取り戻そうと足掻く。
 びくっ、と伸ばされた手が震えて止まる。俺に向けられていた意識が飛び、そのまま下肢へと向けられたのが気配でわかった。手は再び動き出すでもなく、その場でぴくぴくと震えている。
 引いた熱を引き止めるように、内壁がきゅうきゅうと絡み付いてくる。戦慄く唇を観察しながらまたすべてを埋める。それに土方さんの反応が追いつくよりも早くにまた腰を引いた。仕込まれていた潤滑油によってずるずると中が滑る。勢いをつけて奥まで押し込めば肌がぶつかり、ぱちんと軽い音を立てる。うっすらと掻き始めていた汗によって、肌はどちらからともなく張り付く。離れがたいと訴える肌を無視し、律動を開始した。

「ッ、ぅ……ん、ぅ゛」

 びくびくと身体が震える。唇は噛み締められ、反応を見られることを厭うように視線が逸らされる。いつもの反応だ。そう、そうだ。この人のこういうところが俺を一層煽る。懸命に押し込もうとしているものをすべて引きずり出してやりたい。そうしてやった時にどんな反応をするのかが気になって仕方ない。自分だけが落ちているのが気に食わない。
大きく身を引き、浅いところにだけその身を残す。深い挿入も嫌いではないのだろうが、それよりも浅い挿入の方がこの人は好きだ。腹側の内壁に狙いを定め、出張ったエラでごりごりと擦る。すると目が見開かれ、泣き出す寸前のようにゆらゆらと揺れた。

「はっ、ぁ……ッぁ」

 腹側の内壁の、その中に小さなしこりがある。押し潰すように、引っ掻くように、揉みこむように擦ると一層いいのだと知っていた。

「ぃ、ぁ……ぁッ」

 噛み殺し損ねた声がぼろぼろと零れ出てくる。その声は普段より随分と高い。元々の声が低いせいで声は思うように高くはならず、上の方は掠れてしまっている。声が漏れたことに気づき、再び唇が噛み締められるが中を擦ると解けてしまう。

「ぅぁ…ッ」

 大きく、忙しなく呼吸が繰り返される。絶え間なく与えられる快楽はその身を焦がして追い詰めていく。問わずとも反応を見ていればわかる。余裕のなさを伝えるように締めつけは強く、その間隔を狭めていった。宙に置かれていた手はじきに落ち、強くシーツを握り締めていた。

「土方さん」

 きゅうと中が締まる。

「土方さん」
「……ぅ」
「ちょっと、中で返事するのやめてくだせェ」

 呼ぶ度にぎゅうぎゅうと締め付けられる。そのくせ返事はしない。これでは声の代わりに身体で返事をしているようだった。それを揶揄すれば土方さんの目が見開かれる。そうして俺をきっと睨み上げた。隠れつつあった険しさが立ち戻ってきたことに安堵を抱いてしまう。そう、その調子だ。いつものそれを崩されてしまうと俺の方まで調子が狂う。

「その言い方、やめろ」

 ぎらぎらとした、攻撃的な目を向けられる。ああ、まだ生きていた。まだ落ちていないことに悔しさを、そしてそれ以上の歓喜を抱く。まあ、落としたことなどそれこそ数えるほどしかないのだが。

「じゃあ返事してくだせェよ、土方さん」

 浅いところを擦るばかりだった動きから一転し、深いところまで一息に刺し貫いてしまう。

「ッ、ゔ!」

 土方さんが息を詰めた。詰まった息が吐き出されるのを待たず、今度は奥の方で抽挿を始める。与えられる衝撃に耐えることに精一杯で応える余力はないだろう。わかっているが、かといって先ほどのやり取りを忘れたわけでもない。身を引き、埋める。その合間に名を呼んだ。

「土方さん」

 きゅう、と内壁が応える。それを揶揄されたことは土方さんもしっかりと覚えていて、再び揶揄はされまいと口を開く。余力を掻き集め、なんとか声としての形を取り繕う。

「ッ、なん、だ……」

 合間で混じりそうになる声を噛み殺し、ようようといった様子でそれだけを返す。たった三音搾り出すだけでもかなりの力を消耗したようで、その表情には疲れが見えた。そんなに気張らなければ返事もできないのならばいっそ、潔く認めてしまえばいいのだ。だが土方さんは決してそれができない。そういう頑なさがどうしようもなく愚かで、だがそれでこそこの人だと思う。意地を捨てた土方さんなど土方さんではない。その気力が残っているうちはどうか存分に足掻いてほしい。

「……いえ、別になにも」

 用件があったわけではない。強いて言うなら嫌がらせだろうか。そんなことはこの人だってわかっていただろうに、そう白状すると瞳が怒りに染まる。

「用事がなくても呼んだっていいでしょ」

 そりゃあ、赤の他人にそんな真似をされれば鬱陶しいことこの上ないのだろうが、俺達に付随している関係を考えれば許容される範囲だろう。柄ではないとは思うが。
 ぱちん、と音がして肌がぶつかる。押し寄せた快楽によって怒りは流され失せてしまう。腰を打ち付ければ息があがる。きゅうと予期せぬタイミングで締め付けられて息が詰まった。そろそろ俺にも余裕がない。だがそれを悟られてしまわないように口元には笑みを浮かべた。

「土方さん」

 返事はなく、殺意をもって睨み上げられる。付き合ってはくれないらしい。

「ははっ、怖ェ顔」

 中を擦れば殺意は消えて、熱が揺り戻ってくる。瞳を満たす感情を俺が制御しているように思えて、それがひどく楽しい。

「土方さん」

 呼ぶ。土方さんは応えない。応じるつもりはないという意思表示なのか、視線すらも合わなくなった。それでも構わずに呼ぶ。絡みつく内壁を掻き分けて開く。時折思い出したように浅いところもごりごりと抉って、その隙間を縫うようにして。

「土方さん」

 これが何度目かは自分でもわからなくなっていた。土方さんは無視することに努めているが、それでも身体が反応するのは止めようがないようだった。相変わらず呼ぶ度に中がきゅうと締まる。返事がなくともその反応だけで充分だった。時折悔しげに歪む顔を眺めながら呼ぶ。悪趣味だが、今更だ。屈辱、羞恥、怒り。そんなもので歪む顔を眺めるのがひどく楽しい。何度目になるのかわからない。飽きもせず呼ぼうとしたところで土方さんの手が伸びてきた。
 長くシーツを握り込んでいたせいで掌には痕がついてしまっている。痕ででこぼことした手が、俺の口を覆った。

「……よ、ぶな」

 搾り出された声は小刻みに震えている。押し当てられた手も、普段を思えば随分と頼りがない。呼ぶな、など弱点を自白しているようなものではないか。そんなことも考え付かないほどにぎりぎりなのだろうか。口を塞がれているので応とも否とも答えることができない。見下ろした土方さんはふうふうと肩で息をしている。放置されているにも関わらず中央部は力強く反り立っている。先端からはしどしどと先走りが溢れ出し、その身を濡らしていた。さて、どうしたものか。呼ばれなくなったことで少し調子を取り戻したのか理性の色が戻ってくる。それは少々面白くない。
 掌へ舌を這わせると土方さんがびくりと震えた。それから薄く歯を立てると手が飛びのく。

「……あら、塞いでおかなくていいんで?」

 ねぶられ、噛まれた手を庇うように胸へとやる。抗議するように睨み付けられたが、構うことなく笑みを返した。そうして挑発されても再び手を伸ばしてこようとはしない。呼ばれるよりも舐められるほうが嫌なのだろうか。

「……ああ、アンタ噛まれるの好きですもんね」
「!? 好きじゃねえ!」
「はー、またそんなことを」
「噛むのが好きなのはテメーだろうが!」

 余程不本意だったのか土方さんは声を張り上げる。そんな気力などなかっただろうに。そこまでか。

「まあ、確かに噛むのは好きですがね」

 だが噛まれると反応がいいのも事実だ。話題に上がったことで警戒されたらしく、土方さんの手が首筋を覆い隠す。俺がよく噛み付く場所だ。噛まれまいとしているのはわかる。だが頭が回っていないのだろう。そんな真似だけで完全に防げるはずはないだろうに。

「……土方さん」
「呼ぶな」

 身体は相変わらず良い反応をするのに口では冷たく撥ね付けられる。これ以上呼ぶと本格的に機嫌を損ねてしまいそうだ。引き際は見極めなくてはいけない。これ以上は諦め、迫った頂上へ至ることに集中する。
 潤滑油が掻き回され、ぐちゅんと淫猥な水音が立った。徐々に激しさを増していく律動に、土方さんはじっと声を殺して耐えている。身体を引き寄せられることによって起ち上がっている自身も揺れる。中へ埋め込んでいる熱がどくどくと脈打ち、解放されるのを今か今かと待ちわびている。早く出してしまいたい。その衝動に抗う理由もなく、快楽を追いかけて腰を打ちつけた。ぱちん、と音が聞こえたところでようやく限界がきた。ぞくぞくと腰が震える。腰のあたりに溜め込まれていた熱が出口に向かって流れ出し、間もなくして噴き出した。
 吐精する瞬間はひどく心地が良く、頭がろくに回らなくなる。ぼうっと目をやり、首筋へ視線が吸い付く。土方さんの手によって首筋は覆い隠されていたが、度重なる快楽によって手は剥がれかけていた。指先が気持ちばかり首筋に乗っている。そんなもの、ないものと同じだ。
 いける、とそう思った瞬間には身を屈めていた。ぱくりと口を開く、ほぼすべてが晒されている首筋へ、その歯を突き立てる。

「ゔッぁ……ぁ…」

 土方さんが一際大きな声をあげた。そこから不自然に呼吸が乱れる。不審を抱いて見れば、下肢には白濁が散っていた。

「……アンタ、噛まれてイ「それ以上言ったら殺す」

 吐精したことで、互いの声音には隠しようもない倦怠感が滲んでいる。指ひとつ動かすのも億劫だがいつまでもこうしているわけにもいかない。腰を引き、埋め込んでいた自身を抜き去る。自身へ被せてあったコンドームの先端はぽってりと膨らんで白濁を溜め込んでいた。
 じいっ、と視線を注がれているのがわかる。普段ならばこれは用なしのゴミだが、今の土方さんにとってはそうではない。今の土方さんにとっては食糧だ。この人にこれがどう見えているのかはわからないが、釘付けになっているところからしてうまそうには見えているのだろう。一度口にしたのだから、味はよく知っているはずだ。想像しているのかもしれない。

「さて、と」

 セックスをして終わりではない。むしろ土方さんとしてはここからが本番だろう。次の段階へ移行すべくそう口にすれば、土方さんはベッドの上から逃げ出そうとする。咄嗟にその足を掴んでそれを阻んだ。達したばかりでその動きは鈍い。阻むのは容易だった。

「何、今更怖気づいてんですか」

 精液を飲むだけなのだから数秒で終わる。うまそうに見えているのなら嫌悪感もそれほどないはずだ。そう難しいことではない。それなのに何故ここまで頑なに嫌がるのかがわからない。

「そんなに近藤さんに知られてェんで?」

 ここでこの名を出すのは卑怯だが、他に手段を知らない。土方さんを留めるにはこれしかなかった。ぴたりと土方さんの抵抗が止む。また逃げ出そうとしないうちにその身体をベッドへと転がした。
 近藤さんを盾にされたせいで土方さんの機嫌は悪い。近藤さんに負担をかけたくないのだろう。一変して土方さんは大人しい。楽でいい。面白くないという気持ちを押し込めて、やるべき作業へと取り掛かる。
 コンドームを底から持ち上げていく。下部へ溜まっている白濁が押し上げられる。コンドームの中からのぼってきたそれをもう片方の手で受け止める。白く濁った液体からは独特なにおいがたちのぼっていた。まさかこのまま掌を押し当てるわけにもいかないだろう。指でいくらか白濁を掬いとり、唇の割れ目へと押し当てる。唇へ白濁がべったりと張り付いた。

「……ちょっと、土方さん。口開けてもらえませんか」

 土方さんは頑なに口を開こうとしなかった。逃げ出すことは諦めたものの、それでも抵抗しないというわけではなかったらしい。往生際が悪い。もうここまで来てしまえば、飲んでしまった方が手早く楽になれるだろうに。
 唇をなぞり、口を開くように促すが土方さんは頑として応じない。塗りつけられた白濁がてかてかと光り、淫靡な雰囲気を放っている。

「……土方さん」

 呼びかけにも応じない。さて、どうしたものか。近藤さんの名を出せば早いのだろうがそれではあまりに芸がない。それにあまり多用はしたくなかった。口を開かせる手段は他にもいくつかある。近藤さんは最終兵器だ。

「……どうしても嫌だってんなら構いませんがね」

 そう言いつつも唇を撫でるのはやめない。押し続けていた俺が突然引いたことで土方さんは不審を剥き出しにする。信用がないが間違ってはいない。引いて見せるのは次に打つ手のためだ。いや、実際は引いてすらいないのだが。

「別に経口摂取にこだわる必要はねェと思うんですよ」

 食事だと思うから経口摂取にこだわっていたわけだが、そこはこだわらなくていいのかもしれない。

「口から飲むのが嫌だってんならここに直接入れりゃいいんと思いやせんか」

 そう言って手を滑らせていく。先ほどまで身を沈めていたそこへ手が近付き、土方さんがようやく理解した。淫魔は性交によって精液を搾り取り、それを食糧とする。摂取場所が口だけというのはいささか効率が悪いだろう。ならば中でも受け取ることができるのではないかと思うのだ。それなら土方さんの意思は関係ない。そのまま突っ込んで中に注いでしまえばいい。だが土方さんがそれを嫌がるだろうことはわかっていた。だからこうしてまどろっこしい手順を踏んでやっていたのだ。だがそれを拒否するのなら慈悲をかけてやる必要はないだろう。

「俺はそれでも構いませんよ」

 あくまで俺は譲歩してやっているのだと、言外にそう滲ませる。近藤さんを出してこなかっただけ優しいだろう。

「ッ!」

 土方さんは狙い通りに動揺した。この人にとってどちらの方がマシかはわかりきっている。吐いた言葉がはったりではないことを示すため、唇を撫でていた手を引く。実際はったりではない。本当に土方さんが拒否を続けるのならそちらの手段を試す気でいた。そんなことにはならないだろうとも思っていたが、
 唇から離れた手はすぐに引き戻される。手首を掴まれたかと思うと元来た道を戻らされた。そうしてその先にある唇は割り開かれ、赤々とした中身を晒している。その中へ塗れた指先が挿し込まれる。それからぱくりと口が閉じた。

「ん……」

 べたべたと舌が這い、指に絡んだ白濁を舐め取っていく。その舌使いはとても丁寧だった。皺ひとつに至るまで丁寧に舐め尽し、纏わりついている白濁のすべてを舐めとろうとしている。一本一本丁寧に舌を這わせ、そうしてもう舐め取る場所がなくなると、舌に指を押し出される。最初こそおそるおそるといった様子だったが、すぐに積極的な動きへと変化した。押し出す動きも拒否からくるものではないと、目を見ているだけでわかる。
 足りないのだろう。視線はもう片方の手へと向いている。もう一度掬い取って与えるべきだろうか。そんなことを考えていると、そちらの手を取られた。

「お?」

 されるがままにしていると手を引き寄せられ、舌がぺたりと張り付いた。まさかそんな動きをするとは思いもせず、反応できなかった。

「ん、んん……」

 ぴちゃぴちゃと音を立て、舌が手を這い回る。白濁を舐め取っているだけだ。そこに他意はない。わかっているのだがそうして愛撫を施されているとおさまっていたはずの情欲が再び熱を持ち始める。見下ろす視線は隠しようもなく情欲を孕んでいたが、土方さんは夢中でそれに気付かない。一度口にしてしまえば止められないらしく、一心不乱に白濁を舐め尽くしていく。その様は堕ちた時のそれにひどく似ていた。そんなことを考えついたと同時、熱がぶわりとあがる。やはりそれも気付かれることはなく、舌が絡む。指先に纏わりついた白濁を舐め取るべく、口内が吸い付く。口内はひどく熱く、中によく似ている。そう意識してしまうと身体が震えた。

「……土方さん」

 聞こえているのかいないのか返答はない。それでも構わず続けた。そんなことを確認している余裕はなかった。
口内が指へと吸い付く。そして惜しむように吐き出されていった。それに混じる息はひどく熱を帯びていて、拒絶の色はどこにもなかった。



  ◇ ◇

 ああ、やってしまったと、つくづく思う。今更後悔したところで過去の行いは取り返せない。どうしようもないことだ。そうわかっていても毎日のように後悔に襲われる。日々思うのだ。やはりあの時、なんとしてでも逃げておくべきだったと。
 廊下を踏み荒らす足音がひどく大きい。これでは不機嫌であると表明しながら歩いているようなものだ。そうわかっていても改める気にはなれない。機嫌が良くないのは事実だ。当り散らすわけでもないのだから歩行が少し荒くなるくらいは構わないだろう。どすどすと廊下を乱暴に踏みしめ、目的地へと向かおう。いや、厳密には目的地ではなく目的人物か。そこに絶対いるとも限らないがかなりの確率でいるだろうと踏んでいた。屯所を一旦出て、敷地内を歩く。
 真選組屯所には少し離れたところに道場が建てられている。業務の中に稽古は定期的に組み込んであるのでその際にはそこを使う。それ以外でも鍛錬が足りないと感じている者は自由に使っても構わないことになっている。人の増える春先にはそこそこ賑わっているのだが、今時期は熱心な者はそう多くなかったはずだ。そのため人が少ない。つまり、サボるにはこれ以上なく向いている。
 靴を脱いで道場へあがれば、その中には予想に違わない人物がいた。身を隠す気すらないようで道場のど真ん中に堂々と転がっている。
 俺が探しているということは当然、奴は勤務中だ。独特なアイマスクによってその目元は隠されているが起きているだろう。気配どころか物音すらも隠していなかったのだ。気付いていないはずがない。だが気付いていないかのように奴は身じろぎひとつしない。足を力強く踏み込めば床が軋む。ぎしぎしと音を立て、目の前へと立った。

「狸寝入りこいてんじゃねえぞ」

 頭を蹴り飛ばしてやろうかと考え始めた頃になってようやく沖田が身じろいだ。のたのたとひどく干満にアイマスクを押し上げる。起きていたのは俺がやってきたからであって、それまでは本当に寝ていたのだろう。蘇芳色の瞳は眠たげにとろとろと微睡んでいる。

「なんですかィ、人がせっかく気持ちよく寝てたってのに」
「勤務中だろうが」

 何度叱り付けてもコイツのサボり癖がなくなることはない。おまけに巧妙に手を変え、場所を変えてサボるので見つけ出すのはなかなか骨が折れる。おかげでコイツを探し出せる人間はひどく限られていて、半ば専属になっている始末だ。

「でも今日は探しにくんの遅かったですね」

 さっきまで眠っていたくせに頭は普通に回るらしい。痛いところを突いてくる。沖田がサボるのはもはや日課のようなもので、それを探しだして通常勤務に戻らせるのは非常に不本意なことに俺の日課になっていた。探し出せる奴が少ないのだから仕方がない。日課と化しているせいで時間帯もだいたい決まっている。予定があると探しにいけないこともあるが今日はそうではない。

「今日はそんなに予定もなかったはずだし、見つけやすい場所でしたし、こんな時間まで見つからねェのはおかしいですね」

 いつものように探していたのならもっと早くに見つけ出せていただろう。見つけ出すのに手間取っていたわけではない。ただ単に探し出す時間がいつもより遅かっただけだ、だがそんなことは言わなければわからないことだ。不思議がっているが、理由にまではたどりつけないだろう。
 それほど興味があったわけではないらしく、沖田の追及はすぐに止んだ。不自然なのはわかっている。探しに行くことをつい先刻まで躊躇っていたのだ。より厳密に言うのなら、コイツに会う時間を少しでも後へ回したいと思っていた。そんな風に思考が転がる原因はわかっている。それもこれも、今のおかしな体質のせいだ。
 コイツの精液を飲んだことで飢えは鳴りを潜め、当面の問題は消失したかのように思えた。だが結果から言うなら事態は悪化した。少なくとも俺はそう思う。味を覚えてしまったのだ。それまでは知らなかったから耐えられた。だが今は違う。飲み下す精液がどれほど芳醇で甘美なものであるかを舌が覚えている。一度知ってしまえば欲望に際限はない。飢えているわけではないのだ。だが欲しいと絶えず思う。それが行動にまで透けて、気付けば沖田を目で追うようになっていた。
 やたらうまかったのは精液ならすべてそうなのか、それとも沖田のものだけなのか。真偽はわからないし、どちらにしても沖田以外にあてはない。目が追うのは沖田ばかりで、それがひどく嫌だった。どれほど言い繕おうとこれでは沖田を食糧として見ているのと同じだ。いくら否定しても気付けば目は沖田を追いかけている。甘美な味を舌で転がしたいと夢想する。そんな忌々しい考えが浮かび上がってくることが耐えられず、自然と沖田から距離を置くようになっていた。根本的な解決にはなっていないが、それでも何もしないよりはマシだ。こんなことを考えているとは知られたくはない。これ以上負担をかけるつもりも、弱味を見せるつもりもなかった。もう少し耐えれば、そうすれば元の生活に戻れるのだ。

「……なんだ」

 見上げてくる視線がやけにしつこい。右へ左へと身体を動かして視線から逃げてみるがぴったりとついてきてしまう。それに耐えかねて思わず訊ねてしまった。すると沖田は珍しく、曖昧に言葉を濁す。何を言うべきか決めかねている。そんな様子だった。もしや考えていることがバレてしまったのだろうか。そんな想像をして身体が強張る。その疑いをどう否定してはぐらかすかをぐるぐると考えていれば、沖田からは予想もしない言葉が飛んできた。

「や、一発ヤりてェなと思って」
「はあ?」

 思いもしなかった発言に、意味をなさない言葉を返してしまう。人が真面目に頭を悩ませていたというのにコイツは一体何を考えているのか。コイツを責めるのは筋違いだとわかっているが、それでもつい非難がましい目を向けてしまう。だが沖田は気にした風もなく続けた。不意打ちに弱いだけで普段のコイツは超合金のようなメンタルをしている。非難の目などダメージにならない。

「なんだって聞くから答えてやったんでしょうよ」

 なんでもかんでも口にすればいいというものでもないだろう。いや、しかしこうして意思を確認するようになっただけでも成長したのではないだろうか。

「別に無理にとは言いませんって。ここんとこ間隔空いてねェし、アンタがきついなら何もしませんよ」

 逐一気に障る言い方をしてくる。神経を丁寧に逆撫でしてくるこの物言いが、いつも気に入らない。それがコイツの戦略であることはわかっている。だがわかっているからといって受け流せるわけではないのだ。

「きついとは言ってねえ」

 間髪いれずに否定を返して己の逃げ道をひとつ塞いでしまった。乗り気にはなれない。行為自体が嫌なわけではない。ただ、今はタイミングが悪い。今セックスをすれば沖田は精液を飲ませようとしてくるに違いない。俺の身体を案じて、ではない。俺が嫌がっているからだ。俺が態度を改めれば無理に飲ませようとはしてこないだろう。だがそれができれば苦労はない。
 精液はこれまでに二度飲んだが、回数を重ねるほどに堪え性がなくなっているように思う。これ以上はなんとしても避けたかった。セックスに持ち込まれれば沖田はなんとしても精液を飲ませようとするだろう。使える手はすべて使ってだ。既に弱味は握られている。そんな状態で抵抗を続けられるとは思えない。だから精液の摂取を避けるには行為自体を避けるしかない。だから誘いは断るとして、だがどうやって?
 忙しくはない、時間を作るだけの余裕はある。頻度が高すぎる、という理由は先ほど自分で潰してしまった。厳密には先回りして潰されたことになるのだろうが。他に何か理由はあっただろうか。頭を巡らせてはみるがうまい案はない。そして欲に抗いきれず心の隅の方から囁いてくるのだ。
 いっそのこと乗ってしまえばいい。沖田は精液を飲ませようとしてくるだろう。それを拒絶すればいいのだ。望んでやったことではない。そんな風にしてしまえばとりあえず心の平穏は保つことができる。飲んでしまえば堪え性は更になくなるだろうが、数日くらいは目で追わなくなるだろう。このままでは気付かれてしまう恐れがある。それを回避するためには誘いに乗った方がいい。そう、これは合理的な判断だ。決して、己の欲に負けたからではない。

「……部屋はお前が用意しろよ」

 苦し紛れに沖田へそう負担を押し付ける。部屋の用意は、たいていは言い出した方がするものだ。その流れでいけばわざわざ言うまでもなく沖田が用意をすることになる。俺に用意させようとは沖田も思っていなかっただろう。だからこの発言はどうしようもなく不自然さを纏っていた。口にしてしまってからそう思い至る。何かに感づかれてはいないかと内心で冷や汗を流した。だが沖田の様子は常と変わりがない。

「へいへい、わかってますって」

 気だるげな返事と供にそう応じ、こちらの発言に不審を抱いた様子はない。それに内心でほっと息を吐く。そんな思考を気取られてしまわぬよう、常と同じ様子を演じることに努めた。

「おら、そろそろ仕事に戻れ」

 そう追いたてれば沖田はのたのたとその身体を起こしていく。今にも止まってしまいそうなほどに緩慢なそれを、声をかけ続けることで動かす。身を起こし、出口へと向かっていく。それをつい目で追ってしまうのはなんら不自然なことではない。
 そうわかっていてもそこから何かを読み取ってしまわれるのがひどく恐ろしく、気付かれてしまう前に視線を逸らした。






  ◇ ◇

 前言撤回。やはり誘いには乗るべきではなかった。今更後悔しても遅いのだがそう思わずにはいられない。
 沖田の様子は至っていつも通りだ。おかしいのは俺だけで、だが幸いにしてそれを気取られてはいない。流れはいつもとなんら変わりがないのに、心情はいつもとは驚くほどに違っていた。とにかく、沖田の気配を追いかけてしまう、気を抜くとすぐにそんな調子になってしまうので気取られてしまう目にさっさと浴室へ逃げ込んでしまった。根本的な解決にはなっていない。むしろ問題はこれからだった。だが沖田に気取られていないだけでも今は良しとするべきか。

「……あら、今日は随分と早いですね」

 大きな瞳をぱちりと瞬かせ、沖田は驚きを示す。沖田は先に入浴を済ませていたが、髪は乾ききっており、さらさらと流れていく。入れ替わる時にはまだ濡れていたので俺が入っている間に乾かしたのだろう。普段は言ってもなかなか乾かさないくせに今日は珍しい。そんなことを考えながら髪を凝視すれば沖田の表情が歪む。

「そりゃあ毎日口うるさく言われたら流石にやるでしょ。アンタの小言長ェし」

 その言い方ではこちらに非があるようではないか。思わずそう噛み付きそうになるのを堪えた。動機がなんであれ、身の回りのことに手をかけるのはいいことだ。喜ばしいことだ。いや、まあ、それはいい。それに関してはこれ以上のコメントは差し控えようと思う。俺はコイツの親ではないのだから、そんなところまで構うのもおかしな話だろう。それに何より、それどころではない問題が目の前に差し迫っていた。

「そういうアンタこそ、ちょっと濡れたままになってません?」

 目ざとく気付いた沖田にそう指摘されてしまう。ああ、そうとも。確かに髪は手早く乾かしたせいで薄っすらと湿り気を帯びている。気になるほどでもないだろうと放置していたのだが間違いだった。自分の髪をきちんと乾かしたことによって、俺の髪にもいつも以上に意識が向くようになっていたのだろう。思わず舌打ちをしそうになるのをなんとか堪える。

「気のせいだろ」

 苦し紛れに素っ気無く返すが沖田の手が髪に触れる。触れられてしまえば誤魔化すことは難しい。普段はそんなこと気にも留めないくせに、なんだってこんなときに限って目ざといのだろうか。嘘は既にバレているが、それでも手を払いのける。

「気にすんな」

 たいしたことではないのだ、本当に。だがあまり深いところまで突っ込まれてしまうと知られたくない事実が露呈してしまう。準備にかける時間すら惜しかったのだ。別にセックスがしたいわけではない。セックスはそれに伴うおまけのようなもので、渇望しているのはもっと形のあるものだった。白くとろみのある体液を啜りたくて仕方がない。常ならありえない心の動きに怖気が走るが、自分ではコントロールがきかない。できるのはせめて沖田に気取られないように取り繕うくらいのものだろう。
 ああ、早く早く。今こうしている時間すら惜しいと思う。普段は目的であるはずのセックスがただの手段と成り果てている。そんなことがあってはならない。そんなものは間違っている。内心で己はそう訴えるのだが渇望に歯止めがきかない。
 ベッドで寛ぐ沖田を押し倒し、その上へと覆い被さる。突然の行動に驚き、沖田は咄嗟に反応を示すことができないでいた。ようやくぱちりと瞬きをひとつだけした。

「……土方さん?」

 表情が見る間に訝しげなものになる。不審に思われている。なんとか取り繕わなければ。そう思うのに、実際にとる行動は心が伴わない。内心で何を思おうと行動には反映されない。問いに答えることはなく、身ぐるみを剥がしていく。沖田の動揺が伝わってくるが黙殺した。
 部屋に用意されているものは私服に比べると随分と脱がせやすい。ろくな抵抗もないものだからあっさりと服を肌蹴させることができた。驚きのあまり抵抗を忘れているだけなのだろうが、細かいことはどうだっていい。事を押し進めるのに障害にならなければなんだって良かった。
バスローブをがばりと開けば沖田がぎょっと目を剥く。

「ひ、土方さん……?」

 戸惑っているのが声で、表情でわかる。それはそうだろう。普段こうして積極的に物事を進めるのは沖田の方で、俺は消極的だった。こんなことをするのは不自然でしかないと、違和感を抱かせてしまうばかりだとわかっている。だがそこまでわかっていても止まれなかった。理性よりも、植えつけられた本能が強い。足掻くには呑まれ過ぎていた。まだ触れ始めたばかりだというのに、頭ではその先のことしか考えられない。手を止めることなどできるはずもなかった。抵抗があったところできっと止まることはできていなかっただろう。
 剥き出しになった肌へ手を這わせる。触れられたことで身体が強張るが、構うことなく手を滑らせていった。肢体には薄く筋肉がついている。でこぼことした道をたどり、そうして目的地へ早急にたどり着いた。
 びくりと身体が震え、また強張った。腰より少し下へゴムがぐるりと巻きついている。緩いそれは引っ張るだけで簡単に浮き上がり、その中身を覗かせる。摘み上げた布地をそのまま引っ張ると中に押し込まれていたものが姿を現す。唐突に始まったからだろう。剥き出しになった中央部は緩やかに起ち上がり始めているところで、完全な硬さを持つにはもう少し時間がかかりそうだった。その姿を目にしただけで口内にだくだくと涎が溢れる。あっという間に口内が満たされてしまい、あわてて飲み下した。ごくり、と嚥下の音が思いのほか大きく響いてしまった。もしかすると聞こえてしまったかもしれない。そう思いはするものの、それを確認する勇気はなかった。何も気付いていない風を装って、正気とは思えない行動を続ける。事実、正気ではなかった。それくらいは辛うじて自覚している。

「え、ちょっ、土方さん?」

 戸惑う声を聞くのはこれで何度目になるだろうか。普段あまり聞くことがないので珍しいと純粋に思う。動揺の原因が己であるなら尚更だ。だがその動揺を胸に刻みこむような余裕はない。沖田が声を上げたのは俺が身を屈めたからだ。その場にうずくまるように、身を丸くして下部へと身体を潜り込ませる。手を添えている腿が緊張で強張った。
 沖田はなんとかして逃れようと身を捻るがそれよりもこちらの動きの方が早い。薄く開いた唇へ、起ち上がりかけた一物を押し当てる。べたりと落ちてしまいそうなそれを舌に乗せ、舌の上を滑らせて口内へと導いていった。

「ぎゃっ」

 随分と色のない声が上がって、思わず眉間に皺が寄る。もっととるべき反応はあるだろうに。そう思いはするものの、口が塞がっていて喋ることができない。口で包み込んでしまえば熱は一気に硬度を増し、自立せんばかりの硬さとなる。興奮して来たのか、その先端からはじわりと苦みが滲む。精液とはまた少し違うが、それでも甘美な味であることに違いはない。吸い上げて啜れば沖田がまた声を上げた。

「あ、アンタ、ほんとに何して……」

 ばたばたと足を動かし、ベッドをずり上がって逃げようとする。逃がしてたまるものかと、逃げられた分だけ追い縋って距離を詰めた。困惑が増し、沖田は窺うような視線を向けてくる。それはわかるのだがその問いに答える気はなかった。何より、咥えこんでいるものを放す気になれなかった。口内に苦みが広がっていく。これでは足りない。もっとだ。もっと濃厚で味わい深いものを知っている。それを口にするまで放すわけにはいかなかった。
 これ以上を得るにはただ吸い付いているだけでは駄目だ。意識してその身に舌を這わせる。沖田の身体がびくりと震え、腹筋に力がこもる。強張るということは感じているという証拠だろう。口淫などろくにしたこともされたこともないので勝手がよくわからない。ちらりと沖田の様子を窺い、間違っていないことを確かめながら舌を這わせていく。舌を這わせるだけでなく、吸い付きながらも熱を引き抜いていく。口内と熱が擦れ、その刺激によって快楽が生まれる。口裏が擦れているだけなのにぞくぞくと背筋が震えた。

「んっ、ふぅ……」

 鼻から甘ったるい声が抜け、ぞっと怖気が走る。思わず動きを止めるが、口に含んでいる熱が萎える様子はなかった。聞こえていなかったのかもしれない。それならいい。気を取り直し、口内の熱を育てることに集中する。カリ首あたりまでずるりと引き抜き、それから咥え直す。吸い付き、舌を這わせてそれからまた熱を引き抜く。何度かそれを繰り返し、徐々にその速度を早めていった。先端からはじわじわと苦みが広がっていく。口淫を繰り返しているとだんだん顎が疲れてくるが、やめようとは思わない。苦みが増していくにつれて興奮も増していく。苦いが甘い。矛盾を気にかけることもなく吸い付く。
 息に混じり、噛み殺した呻き声が聞こえてくる。絶えるようにシーツを握り締めていた手はやがて持ち上がり、俺の頭を掴んだ。くしゃくしゃと髪を掻き乱される。その力はあまりに弱く、引き剥がしたいのか更に催促しているのか判断しかねた。力はほとんどこもっていない。それをいいことに都合のいいように解釈をして抽挿を早めた。唾液と先走りが混じり、ぐずぐずと音を立てる。

「はっ……ひじかたさん…ちょっと…」

 爪がかりかりと頭皮に立てられる。どうやら引き剥がしたがっているらしい。ようやく意図を汲むことができた。だが理解できたからといってそれに従うつもりはない。
 沖田の息は上がり、余裕が剥がれ落ちた目は潤んでいた。もうそれほど長くは保たないのだろう。そこまでわかっていて、こんなところでやめるはずもない。拒否を示すように強く吸い付けば頭皮に爪が食い込んだ。痛みはするが、すぐに気にならなくなる。

「ほんとに、馬鹿……ちょっ……ぅっ!」

 先端の窪みに舌を挿し込む。潜り込もうとするように擽れば身体全体に力がこもった。頭を掴む手にも力がこもり、これまで異常の強さで頭を押しのけようとしてくる。それに逆らって頑なに吸い付いたままでいればついに、沖田の方が負けた。

「ッ!!」

 咥えこんでいる熱が大きく膨らんだ。一気に爆ぜて先端から噴き出してくる。
 わかっていたことだ。構えておく余裕はあったはずなのだが、あいにく行為自体に慣れていない。喉の奥へ吐きつけられたことで対処しきれず、進入を阻むように大きく咳き込んでしまう。口内へ注ぎ込まれていた白濁がその勢いで外へ出ていこうとする。慌てて熱を引き抜き、それから手で口を覆って吐き出すのを阻んだ。

「ゔっ……ぐっ、けほっ」

 噎せた拍子に吐き出した白濁が掌にべったりと張り付く。妙なところへ入ってしまったようでなかなか咳がおさまらない。咳を繰り返しているうちに目に水分が溜まっていく。何度目かの咳を吐き出した拍子、一緒に涙がぼろりと零れ出た。口元を覆う手の上を伝っていくが、そんなことは気にしていられない。咳がなんとかおさまったところで口内に残っている白濁を飲み下していく。
 決して喉ごしがいいとは言えないそれは、当然ながら喉へ引っかかる。唾液に混ぜて何度も小刻みに飲んでいく。口内すべてを飲み干したところで掌へ舌を這わせた。掌には吐きつけた白濁がべったりと張り付いている。それを丁寧に舐め取って舌へ乗せ、先ほどと同じように飲み干していった。

「んっ、ぐ……」

 苦い。常ならそれは表情を歪めてしまうようなものであるはずだ。だが今に限ってはひどく甘美な味をしていた。思わず表情が緩む。
 目的を達したことでこれまで身を支配していた思考が薄れていく。正気に返るとはこういうことを言うのだろう。それまでの記憶がなかったわけでは当然ない。ただ夢の中の出来事であったかのように朧げな記憶に成り果てていた。だが本当に夢だったわけではないと知っている。口内をいっぱいに満たしている苦みが何よりの証拠だった。腹も満たされている。夢であるはずがない。
 我に返った。そのせいで顔を上げることができない。視線が痛いほどに注がれているのがわかる。顔を上げれば間違いなく視線がかち合うだろう。それはわかっているがそれを回避する方法は思いつかなかった。視線を下げたまま後ろへ下がって距離を取ろうと試みる。だがそれは失敗に終わった。
 髪をわし掴まれ、そのまま上へと向かって引っ張り上げられる。髪が引かれたせいで頭皮が引き攣れて痛むが、そんなことを気にしている場合ではない。強制的に上を向かされたことで否応なく視線がかち合ってしまう。

「……や、違うぞ。これはその、迷惑料、というか……」
「迷惑料」
「迷惑かけてるわけだし、多少はいい目を見せてやろうと思っただけで深い意味はだな……」
「全部飲みましたよね」
「ゔっ」

 すべて見られていたのだから言い逃れはできないだろう。普段は精飲などまかり間違ってもしないのだ。先ほどの暴挙は淫魔に成り果てた末の行動だと断言できる。だがそれは認めがたかった。後から植えつけられた本能に負けたなど、そんなことを認めるくらいならおかしくなって奇行に走ったのだと思われるほうがまだずっとマシだった。あれは己の意思で行われたものだ。プライドを守るためにはそう主張せざるを得ない。過去は取り消せないのだから、それに合わせて取り繕ってぎりぎりのところで自分を守っていたかった。

「そりゃあ、いつまでも避けて通るわけにもいかねえだろ」
「はあ、そういうもんですかね……」

 釈然としない様子ながらも沖田はそれ以上追及してこようとはしなかった。

「アンタがそう言うんなら迷惑料として受け取っておきますけど」

 発言に妙な引っ掛かりがある。本当の理由を理解した上で、それでもこちらの言い分を飲んでくれているようにも聞こえた。だが沖田がそんな真似をするはずがない。メリットがないのだ。メリットもなくコイツが俺の都合のいいように動くはずがない。だからそんな風に感じるのはおそらく勘違いだ。
 わし掴まれていた髪が解放され、ぱらぱらと降り注いでくる。解放されたことで沖田と距離を取ることができるようになった。すかさず身を引こうとするが、それよりも沖田の動きの方が早かった。今度は肩を掴まれ、後ろへ傾けられる。

「おい」
「いや、俺ヤりたいって言いましたよね」
 そんなやり取りをしている間にも肩を押され、仰向けになってベッドに転がってしまう。顎のだるさに気を取られて抵抗するのが遅れた。
「……いや、今出したろ」
「ヤってはねェでしょ」

 それはそうだが、一度射精したことに変わりはない。一度出したことですっきりはしただろうし、ヤったかどうかなど重要視するほどの問題だろうか。

「迷惑料だってんならこっちに入らせてくれたほうが嬉しいんですがね」

 手は肩から外れ、下へと滑っていく。身体の曲線をなぞり、腰を撫で、それから服の中へと潜り込んだ。

「っ、テメーは迷惑料でヤんのか」
「先に言ったのはアンタでしょ」

 返しは淡々としているが、意趣返しをしてきたということは気に入らなかったのかもしれない。怒らせるつもりはなかった。言葉の綾だ。悪かった、そんなつもりじゃなかった。そう謝罪すればいいだけだ。だがそれはできない。それをしてしまえば、それならどういうつもりだったのか追及される羽目になる。それは避けたい。それならば返せる言葉は限られていた。

「……好きにしろ」

 どういう括りにせよこれからやることは同じだ。迷惑料という括りは大変不本意ではあるが、気にしなければいい。そう無理矢理己を納得させてそう言い捨てる。ひどく投げやりな言い方になってしまった自覚はあるが、こればかりはどうしようもなかった。


  ◇ ◇

 土方さんは嘘が下手だが、いまひとつその自覚がない。職務として必要な嘘なら顔色ひとつ変えずにさらりとつけるくせに、それ以外となるとてんで駄目だった。特に今回はわかりやすい。あれこれと言い繕おうとしているようだったが、まったくもって隠せていない。
 極めつけはその表情だ。一心不乱に自身を啜り、白濁を吸い出した後の、その表情。おそらくは自覚がないのだろう。その目は恍惚でうっとりと細められ、常にはない色が滲んでいる。食欲が満たされたのだろう。思わず息を呑むほどの凄絶さは、すぐに引いていった。
 淫魔がどの程度の頻度で食事を必要とするのかはわからない。旦那が生きているうちは死なない範囲なのだろうが、忍耐はそれとは違う次元にあるらしい。精液を飲み干すまでの土方さんはどこかぼんやりとしていた。食事のことだけに意識が持っていかれていたのだろう。だが土方さんはそれを頑なに認めようとはしなかった。見え透いた嘘をついて、追及されないのをいいことに誤魔化しきれたつもりでいる。下手な嘘に付き合う必要はないのだが、今回に限るなら付き合ってもいい。
 既に許可は得ているので断りなく衣服を寛げていった。律儀に履き直されたボクサーを引き下ろして触れる。いつもより短い時間で戻ってはきたが、準備はきちんと済ませていたらしい。準備に俺の手が入るのを極度に嫌がるので当然と言えば当然か。目先の欲に眩んでおざなりになってはいないかと期待もしたのだが、そこまで現実は甘くないらしい。
 ぐるりと手を回りこませて窄まりへ指を挿し込めば抵抗なく飲み込まれていった。用意していた潤滑油を手繰り寄せ、蓋を弾く。どろどろと流れる潤滑油をそのまま垂らせば土方さんが小さく息を吐いた。何か言いたげではあるのだが、好きにしろと言った手前文句も言えずにいるのだろう。別に文句くらいは言えばいいと思う。だがこの人はこういうところが妙に律儀だ。
 我ながら手つきは随分と性急で、潤滑油を纏わせた指が窄まりへと埋まりこむ。縁の皺に沿って潜り込んでいけば抵抗なくするりと中へ入り込むことができた。性急な動きに心が追いつかなかったのか、目が見開かれる。ゆっくりと呼吸をすることで異物感に耐えている。そんな様子の土方さんを観察しながら、纏わせた潤滑油を中へ注ぎ込んでいく。その感覚が好ましくないのか土方さんはぶるりと身体を震わせた。

「うっ……も、いい……」

 耐え切れなくなったらしい土方さんがそう主張する。それを無視して続けようとすれば暴れて逃げ出そうとするので、仕方なく指を引き抜いた。事前に準備がなされている穴は物欲しそうにぱくぱくと開閉を繰り返している。誘い込もうとしていると捉えるのは自意識が過剰だろうか。だがそう見えてしまったのだから仕方がない。
 誘われるままに身を寄せる。ひくつく窄まりへ先端を押し当て、そのまま押し込んだ。抵抗を受けたのはほんの一瞬で、ぬかるんだ穴にずぶずぶと飲み込まれていく。

「ぁ、ぐっ……」

 土方さんが小さく声をあげる。びくびくと震える腰を掴み、引き寄せるようにして深く身を沈めていく。深く埋めるに従って穴が大きく開かれていく。入念な準備の上で成り立っているのだとわかっていても、よく入るものだと感心してしまう。腰を押し進めた分だけずるずると中へ埋まりこんでいく。やがてすべてが埋め込まれ、とんと肌がぶつかる。どちらからともなく息を吐き、一旦動きを止めた。そうして一息ついたところで土方さんがかっと目を見開いた。今度は一体なんだろう。

「ちょっと、待て……。おまえ、ゴム……」
「つけてないですね」
「はっ!?」

 うっかり忘れていたわけではないので驚くようなことではない。だが土方さんはおおいに動揺した。

「っざけんな! 抜け!」

 右脚が折り畳まれたかと思うと元に戻る勢いを借り、蹴りを見舞われる。咄嗟に足首を掴んで軌道を逸らしたので蹴りは宙を蹴り飛ばしただけに終わる。狙いを外したことで盛大な舌打ち。土方さんは足を引き、もう一撃を見舞おうとする。足首を掴んだままでそれを阻みつつ、会話を試みる。

「食事も必要でしょ」
「あァ?」
「コンドームの中に出して、そこから口に入れんの面倒でしょ」

 今の土方さんの栄養源は精液だ。多少断っても死にはしないのだろうが、こうして目の前にあるのに捨ててしまうのもいかがなものかと思うのだ。主目的ではないが、ついでに食事もしてしまえばいい。この人の命を日々狙ってはいるが餓死という形は本意ではない。与え過ぎるということはないだろう。加減がわからないのならとにかく機会を見つけて与えるしかない。そこまで説明すれば土方さんの抵抗がぴたりと止んだ。だが今度は身を捻って引き抜こうとする。

「うう……いい。いらん」
「ここ何日か断食してんじゃねェですか」

 つい先ほど飲み干していたので当面は平気だろう。だがあれは食事ではないのだ。他でもない土方さんがそう主張した。だからきちんと食事をしなければ。
 じたばたともがく身体を押さえつけ、何度か抽挿を繰り返す。するとびくりと震え、動きが止まった。様子が少しおかしい。

「ひじかたさん?」
「……っは、ぁ」

 何かに耐えるように固く目を閉ざしそれから、逃れるように視線を逸らす。

「土方さん、ッぅ」

 きゅうと中が強く締まる。視線は頑なに逸らされている。

「ぬ、抜け……」

 震える声で土方さんはそう要求した。歯は噛み合わず、かちかちと音を立てている。痛むというわけではないだろう。瞳の中は依然として熱に満たされている。ゴム無しで挿入されていることが嫌なのはわかる。だがそれですべての説明がつくわけでもない。
 俺が動かずに止まっている間も、土方さんはひどく感じ入っているようだった。はて、土方さんはこれほどまでに感度が高かっただろうか。少なくともろくに動いてもいないのに震えて動けなくなってしまうことはなかったはずだ。

「土方さん? 大丈夫ですか?」
「ゔぅ…だい、じょぶじゃね……ぬ、け…ッ」

 珍しく強がりではなく本音が返ってきた。これは本当に大丈夫ではなさそうだ。一体何がどう駄目なのだろう。土方さんは抜けと繰り返すばかりで、そこから何かを読み取ることはできない。

「ん……気持ちよすぎて駄目とか、そういうやつですか?」
「ちっ、が……んなわけね……っ、ひ、ぅ……抜けっ、も、ほんとに……」

 ぶるぶると震える手が俺を押しのけようとする。だがその手にはろくに力がこもっておらず、撫でるように肌を掻くだけだった。本当に駄目というわけではなさそうなので構わず動く。

「っひ」

 悲鳴にも似た引き攣れた声が上がる。どう見ても駄目だという感じではない。かりかりと肌に爪を立てられるが、食い込むこともなく上を滑っていく。

「ま、て……ほんとに……ぁ、ァッ」

 ひくひくと喉が震えている。やはり様子はいつもとは違うが、駄目そうではない。無視して捻じ伏せて続けることは可能だ。そうしてやろうかと少しだけ考えて、結局実行に移すことなく動きを止めた。

「……何が駄目なんで?」

 説明もなくただ待てと言われて、素直に従えるはずもない。理由によっては待ってやってもいい。どこまでも上から、そう譲歩して問いかけた。

「っふ……ッ」

 土方さんは口を開こうとしない。漏れ出るのは乱れた息ばかりだった。じっと催促の視線を送るが土方さんは応じない。往生際が悪い。

「言わねェんならこのまま続けますけど」

 一方的に己の言い分だけ通そうなど随分と都合のいい話ではないか。俺相手にそんな我儘が通用すると思わないことだ。
 脅しではない、腰を少し引いてそれを示せば土方さんはあっさりと折れた。

「ッ、ま、まて……言う、からとまれ…」
「はあ、それじゃあ聞かせてもらいましょうか」

 引いた分を押し込んで元の体勢へと戻る。それだけの動きでも刺激としては充分過ぎたようで、背が反り喉は震える。衝撃を受け止めきれなかったようで、口はぱくぱくと開閉しているが声はない。きゅうと中が強く締まって息が詰まる。本当に、ここまで過剰に反応を示すのは珍しい。

「…………ッ、て、め……」
「……や、今のは痛み分け、でしょ。俺にも結構キましたって」

 ぎろりと殺意を込めて睨みつけられる。だが恐ろしさの欠片もない。

「……それで?」

 俺への怒りが収まらないようで、しばらく睨みつけられる。だがそれがいつまでも続くことはなく、やがてのろのろと口を開いた。

「身体がおかしい……っ、だよ。直接中は、むり……。だ、から、ゴム……」

 結局のところ、土方さんが何を訴えているのかはわからなかった。今の説明では納得できない。濁しているわけではなく、土方さんも説明しかねているようだった。

「変ってのは具体的にどういう感じなんで?」
「はあ? 中がこう、ずっと震えて……っぅ」
「まあ、締まりはいつもよりいいですがね」
 正直に感想を述べれば土方さんの顔がかっと赤く染まる。咄嗟に蹴りを叩きこもうと動くが、そのせいで中の角度が変わってしまう。
「ゔっ」

 びくりと震え、土方さんの動きが止まった。自分の動きで追い詰められている。この人は何をしているのだろう。

「っふ、よ、けいなことは、言わなくてい……」

 攻撃を仕掛けることは諦めたらしく、息も絶え絶えにそう文句だけをぶつけてきた。

「気持ちいいんならいいでしょ、別に」

 何を拒絶することがあるというのだろう。理解ができず、首を傾げてしまう。はく、と土方さんが口を開いた。反論しようとして言葉にならなかった。そんな様子で、何度かぱくぱくと開閉を繰り返す。そうして時間をかけて、なんとか反論を口にした。

「わ、けわかんなくなるだろ……」

 それの何が問題なのだろう。それこそ何の問題もないだろう。俺はそう思うのだが、土方さんからすればそれはとても重要な問題なのだろう。理性を手放すことはこの人にとってはとてつもなくおそろしいことだ。わかってはいるが、ここで譲るつもりはなかった。

「大丈夫ですよ。おかしくなったってハメ撮ったりしませんし」
「ッ! そんなの当たり前…ぅっ…まて、おまっ、なんでうご……ッ、く」

 土方さんの主張を最後まで聞いたところで律動を再開する。こんな中途半端な状態で止まっているのはなかなかにきついものがある。今まで我慢していただけでも褒められていいのではないだろうか。
 ずるりと熱を引き出す。そうして結合が深くなった隙に逃げ出そうとするので腰を掴んでそれを阻んだ。腰を引き寄せ、腰を打ち付け、再び深くまで繋がる。

「ッッ、ぐ……!」

 嬌声は噛み殺される。隙間から漏れ出る息は荒く、ふうふうという音がやけに大きく響いた。中はいつもよりも強く、ねっとりと絡みついてくる。確かにいつもとは違う気がする。もしかすると淫魔になっている影響なのかもしれない。今更ながらにそんなことを思う。
 淫魔は性交によって精液を搾り取る者だ。そのために能力が特化していてもおかしくはない。というか、他に原因が思いつかない。前回は変わりがなさそうだったのはコンドーム越しならその能力は発揮されないだとか、そういうことなのだろうか。調べればはっきりするかもしれないが、今そんな余裕はない。
 すべては憶測で、何にせよ目の前に広がる光景だけが真実だ。腰を打ちつけ続けていれば、土方さんの身体が不規則に跳ねる。俺を蹴り飛ばすことを諦めた足は、担ぎ上げられるままに宙で揺れている。
 次第に行為に没入していき、会話はどちらからともなく消失する。出し入れを繰り返せばぐずぐずと水音が立つ。締めつけられ、絡みつかれ、吸い付かれる。熱い中は心地が良く、腹の内に溜め込んでいた熱がすぐに爆ぜてしまいそうだった。

「うっ……」

 きゅうと締めつけられて身体が震える。あともう少し。律動を速めて頂上を目指せば、限界が近いことを土方さんに気取られてしまう。
 意識は飛び飛びで、とぷとぷと情欲の中を彷徨っている。そんな様子なのだが、それでも完全に理性を手放してはいないらしい。わけがわからなくなるのではなかったのか。

「そっ……ご」

 切れ切れの声で呼ぶ。声で応じる余裕はなく、視線だけを向けてそれに応えた。

「ァ、なかに、出すな…。そと、ぜったい、そとに……ッ」
「……っは、なんで」

 外に出すなんて、それでは意味がなくなってしまう。それではただ俺がいつもより気持ちよくなっただけだ。土方さんも気持ちよさそうだし、利害が一致していると言えなくもないが。いや、そうではない。
 熱を孕んだ声は掠れてうまく音にならなかった。それでも土方さんの耳には無事届いたらしい。震える声で、噛み殺し損ねた嬌声の隙間を縫って返す。

「む、り…。おかしくなっ、むり……」

 泣いているわけではないのだろうが、しゃくりあげながら土方さんはそう訴える。おかしくなる。そんなAVのような台詞、これまでこの人の口から聞いたことがあっただろうか。おかしくなって何の問題があるのだろう。おかしくなってしまえばいい。
 にやりと笑みを返すと、土方さんの表情が引き攣った。察しがいいのは結構だが、察したところでどうにもならないはずだ。
 腰を引くとず…っ、と内壁が引きずられてついてくる。細く吐き出す息はどろどろとした熱を孕んでいた。

「っひ、まて……ァッ、ぁ」

 ぐっ、と腹のあたりを押される。俺を引き剥がそうとしての行動だろうが、完全に逆効果だった。押されたことで熱を吐き出すまでの時間が早まる。

「アンタなら、だいじょーぶですよ」

 こんなことでおかしくなるほどやわじゃないだろう。おかしくなってしまえばいい。そう思いつつもこんなことでおかしくなるような人間ではないと知っていた。そんな恐れなどアンタなら捻じ伏せてしまえるはずだ。

「ぁ、あとで、おぼえて、ろ……」

 揺さぶられながら土方さんはそう、攻撃的な言葉を吐く。そこまで噛みつけるのなら大丈夫だろう。恐れているようなことにはきっとならない。

「そりゃあたのしみです、ねっ」

 必死に理性を守って噛み付いてくる様が愉快で仕方がない。上機嫌なままに一息ですべてをおさめると強く内壁が吸い付いた。うねりながら内壁がぴったりと絡みついてくる。搾り取ろうとするかのように何度もきゅうきゅうと吸い付かれ、あっさりと限界に達した。

「ッ、ぐ!」

 中心部がどくどくと脈打ち、熱が爆ぜる。外に出すことは当然なく、そのまますべてを中へ注ぎ込んだ。

「はっ……ァ、ぁ……あぁ…」

 土方さんの口は開いたままで、か細い声が漏れ続ける。その声は恍惚に満たされていて、思わずその表情を窺ってしまう。声に引きずられるように、表情もまた強い快感を訴えていた。
 吐き出したことによって身体全体にどっと倦怠感が押し寄せてくる。今すぐにでも抜いて転がってしまいたいところではあったが、堪えて同じ体勢を保った。こんな土方さんはそう見られるものではない。今を逃せばもう機会などないかもしれなかった。少しでも長く眺めていたい。

「やっぱり、下の口でも食べられるんですね」

 身も蓋もない言い方だが、意外にも土方さんが噛み付いてくることはなかった。珍しい、と窺えば土方さんはぼうっと宙へ目をやっている。どうやら意識が飛びかけているらしい。おかしくなるという訴えはあながち嘘でもなかったということか。

「土方さん」

 撫でるように軽く頬を叩けば、それだけで正気が戻ってくる。ぼんやりとしていた目の焦点が少しずつ合っていき、やがて俺を捉えた。それでもいつもよりは幾分かぼんやりしているように見える。

「足ります?」

 半分ほどは親切心ゆえの発言だった。土方さんの表情は恍惚としていたが、物足りなさが纏わりついているように見えた。表情を歪めて噛み付いてくる様を見たいという気持ちも三割ほど。だがその願望が満たされることはなかった。
 肯定は返ってこなかった。だが否定もなかった。かりかりと肌を引っ掻かれる。押し出すような素振りはない。もしかすると、それは催促のつもりなのだろうか。

「……っは、マジでか」

 思わず声に出た。すると土方さんの手がびくりと跳ね、引いてく。それを掴んで引き寄せた頃にはいつもの土方さんが戻ってきていた。

「いい。いらん」

 俺の提案は遅れてぴしゃりと撥ね付けられる。だが、即座に否定が返ってこなかった時点でそれは本音ではない。それがわかっていて大人しく引くはずもなかった。

「俺が足りないんでもう少し付き合ってくだせェ」

 だがこのままではこの人は頑なに拒否を続けるだろう。それはわかっていたので仕方なく、責任の所在を俺へと移した。これで撥ね付ける余裕は随分と薄らいだはずだ。求められたから応じただけだ。そう己に言い聞かせることができる。土方さんは迷う。そうして迷った末に、俺の策へと乗った。

「……一回だけな」

 素っ気なくそれだけ返して黙り込んでしまう。口ではそんな調子なのに、中は期待するようにうねり始めていた。甘く絡みつかれ、熱が再び硬度を持つ。引き抜いて、埋め直す。そんな動きを二度ほど繰り返したところで固さは完全なものとなった。突く度に奥の方でぐずぐずと音が立つ。どこを擦られてもいいらしく、痙攣のような震えが止まない。

「はっ……ァッ、ぁ」

 堪えきれないといった風に声が漏れる。珍しい。普段の土方さんならきっとそんなことはない。目にはなみなみと水分が膜を張っていて、今にも零れ落ちてしまいそうだった。揺さぶられる度に、零れ落ちそうになる。視界はぼやけているだろう。だが土方さんがそれを気にかけている様子はなかった。俺もまた、気にかけつつもそのためだけに動きを調整することはできない。ゆらゆらと、見慣れぬ膜から目が離せない。

「ァッ、まて……いったん、とまれ…」
「っふ、そりゃ、ねェでしょ……」

 中途半端なところで待つ辛さは同じ男なのだからよく知っているはずだ。それなのに待てとは一体どういうことなのか。
 待て、と土方さんはよく口にする。どうにもそれは弾みでつい口から出てくるようで、さほど気にするものでもないのだろうとは思う。思うのだが、全く耳を傾けないでいれば後々が面倒なことになるのだ。それがわかっているので一応、反応は返す。待てと言う割に本当に嫌がっているようには見えない。一旦止まれと言うが、それはいつまで待てばいいのだろう。今の状態でそう長く待てるとは思えないのだが。
 はくはくと土方さんの口が動く。呼吸をするので精一杯といった様子で、なかなか言葉を紡ぎ出すに至らない。びくびくと身体を数度震わせ、なんとか言葉を吐いた。

「っん……やっぱり、むり、だ…。なか、だすな…ァ、お、おかしく……」

 おかしくなる、と。今日の土方さんはしきりにそう訴える。追い詰められているのは見ればわかる。おかしくなるから、とその原因に縋る様は興奮を煽った。今この瞬間、この男を屈服させているのは己なのだと、そう認識するだけで頭の中が沸騰する。
 抜き挿しする度にびくりと震える様はひどくか弱く見えた。目にはひたひたと膜が張り続けている。身体を揺らす度に膜も一緒に揺れた、ぴったりと目に張り付いているそれは今にも壊れてしまいそうで、だがしぶとく形を保ち続けている。まるで今の土方さんそのもののようで。どうすれば壊せるだろう。考えて、出て来る結論はそう多くはない。

「そ、うご……きいて…ん゛ぅ! ぁ、っは…ん゛ん゛ッ」

 腰を掴んで引き寄せる。エラでごりごりと内壁を擦れば一際大きく身体が跳ねた。手はぶるぶると震えながらも土方さん自身へと伸びていく。もう中だけでイけるくせに、土方さんはそれをひどく嫌がった。イってしまったのは性器が刺激されたせいだと、そう言い訳するかのように限界が迫ると己へ手を伸ばす。今日も土方さんの手が自身へと絡んだ。握り込み、扱いていくが、その手付きはひどく拙い。そんな動きだけでイけるはずもないだろう。それでも、この人のちっぽけなプライドを守るためには必要な行為だった。先走りが指に絡み、ぐちゃぐちゃと音を立てる。弱々しくとも自身への刺激は無意味ではなく、連動するように中がきゅうと締まった。気持ちが、いい。

「っは、土方さん……」

 俺がイきそうなのはわかっているだろうに、中に出すなとは言わない。余裕がないのか、俺が要求を守ると信じているのか。十中八九前者だろう。律動を速めればぐぽぐぽと品のない音が立つ。与えられ続ける快楽に追い詰められ、やがて土方さんに限界がやってきた。

「─ぁ、ぐっ!」

 悲鳴をすんでのところで押し殺したような、そんな声を上げて土方さんは果てた。足先がきゅうと丸められて力がこもる。果てると同時に中の締め付けが増し、それに引きずられるようにして俺もまた果てた。

「っふ……ぅ」

 腰が勝手に動き、注ぎ込んだ白濁を更に奥へ押し込んでいく。ぼんやりとしていて、頭がうまく回らない。ぼうっとしたまま顔を上げれば、同じようにぼんやりとしている土方さんと目が合った。目が合い、俺だけがぎくりと硬直する。
 水の膜が破れていた、先ほどの衝撃に耐えきれなかったのだろう。膜の形を保てなくなったそれらは涙へと姿を変え、目から零れ落ちていく。目尻から零れたそれは均衡の取れた輪郭を伝い、重力のままに落ちていく。それに気付いていないのか、土方さんが反応を示すことはなかった。ぼんやりと、まだ余韻を引きずっている。
 吐き出された息には思わずぞっとするほどの熱と、悦が含まれていた。だが土方さんに自覚はない。うっとりと口元が緩い弧を描くが、それすらも自覚がないのだろう。おかしくなっているわけではない。ただいつもの土方さんでないことだけは確かで、思わず手を伸ばす。そうして、頬を摘み上げた。

「ぃっ!? っに、しやがる!」

 途端にそれまで帯びていた雰囲気が弾け、いつもの土方さんが戻ってくる。勢い良く手を弾き落とされたが今はそんなことはどうでもいい。

「……いえ、間抜け面してたんでつい」
「まぬけ……」

 ぺたぺたと己の顔に触れるが、そんなことで表情がわかるはずもない。確認ができないことを否定することもできないようで、土方さんは押し黙ってしまう。こうなれば俺のペースに持ち込むのは簡単だった。

「まだいります?」

 冗談半分で問えば、否定を込めた蹴りが勢い良く飛んできた。







  ◇ ◇

 ここ最近、土方さんから妙に距離を置かれている気がする。どれくらい露骨かと言うと、業務で組むことがなければ姿を捉えることすら難しいという徹底ぶりだ。そんな調子なのでここ何日かは土方さんと喋りすらしていない。揉めているわけではない。ただ一方的に土方さんに避けられている。心当たりはないこともなかった。
 俺の少し前方を土方さんが歩いている。巡回中の立ち位置に特に決まりはないが、肩書きが高い方が前を歩く傾向にあった。だから俺と組めば土方さんは前を歩くことになる。いつものことだ。だが、いつもとは少し違う。ひしひしと警戒を感じる。

「土方さん」

 声をかけるだけで目の前の人が纏う警戒が一気に増した。声をかけただけでそんなに身構えることはないだろう。そう思いつつも口にすることはない。言えば最後、転がり落ちるように拗れていくのは目に見えていた。会話を成立させたいのなら下手に刺激しないほうがいい。余計な一言を吐きたくてうずうずする己を押し込め、いつもと変わらぬ様子を装う。そんな努力もあってか土方さんが遅れて返事をする。だが足は止めず、こちらを見ようともしない。

「なんだ」

 声音には苛立ちが含まれていた。この人が苛立っているのはいつものことと言えばそうなのだが、それとはまた少し違う。常備されている苛立ちとは比べ物にならないほど、土方さんの苛立ちは苛烈だった。市中見回り中だというのにその不機嫌さはいかがなものか。うっかり子供とすれ違いでもしたら号泣されそうな凶悪さを放っている。隠そうという努力すら放棄しているのは俺が元凶だからだろうか。それとも繕う余裕すらないのか。

「何をそんなに怒ってんですか」

 土方さんの苛立ちの原因はおそらく俺にある。これだけ露骨に避けられているのに俺に何の関係もないと考えるのはいささか楽観が過ぎるだろう。心当たりがないわけでもない。だがどういう流れで、何に対して土方さんが苛立っているのかまではわからない。それゆえに正しい対処法も掴みかねていた。土方さんがいくら不機嫌でいようと俺は構わないが、あまり長期化するとほうぼうから苦情が来るのだ。土方さんの様子から俺が原因であることは割れているのでじきに苦情が集まり始めるだろう。泣きつかれ、縋られるのは正直に言ってとてつもなく面倒だ。苦情は本人に直接言ってもらいたい。
 何か文句があるならはっきりと言えばいいのだ。それを受けて俺が改善するかはまた別の話になってくるわけだが。不満を溜め込んで黙っているなど土方さんらしくない。思うところがあるのなら真っ向から噛み付いてきそうなものだが、今回はそれがなかった。それほどまでに怒っている、と捉えることもできなくはないがどうだろう。このまま土方さんの様子を窺っていても打開策は出てきそうになかったので直接問うた。しかし返ってきた言葉は非常に面倒なものだった。

「怒ってねえ」

 嘘だ。声音が、態度が、雰囲気が苛立っている。怒っていないというのならもっと取り繕う努力をするべきだ。それらすべてを放棄しているくせに怒っていないとはどういうことなのか。それともまさかそれで隠せているつもりなのだろうか。それで? いや、それはないだろう。隠すつもりがないくせに言うつもりもないのだ。
 面倒臭い。そんな本音は重たい溜息となって外へと出てしまった。それを土方さんが聞き逃すはずもない。こちらを見はしないが、こちらを意識していないわけではないのだ。溜息が存外大きくなってしまったことにはっとするが、気付いた時にはもう遅い。土方さんが纏う雰囲気は更に頑なになっていてすべてを拒否するように重くなった。面倒臭い。流石にもう一度溜息を吐くような愚は犯さなかった。

「じゃあなんですか、また腹減ってんですか」

 この人が苛立つ原因などわかるはずもない。だが人間、腹が減れば苛立ちもする。空腹はつい先日満たしたばかりだが、どれほど間隔を空けるのが適切なのかは俺もこの人も知らない。腹が減って苛々しているのかもしれない。それなら、この人なら素直に言い出せずに静かに苛立っていることだろう。ちょうど今の状況にも合致する。
 なんの手がかりもないにしてはなかなかにいい線をついたと思う。違うなら否定が返ってくるだろう。違ったとしても、この問いによって可能性がひとつ潰れたのだから前進と言えなくもない。無意味にはならない。空振ることを大前提に。それくらいの気持ちで投げた言葉は存外いいところを突いたらしい。
 足を止め、土方さんは振り返る。銜え込んでいる煙草は強く噛み締められ、フィルター部分が折れ曲がっている。ぎゅう、と眉間に皺を寄せる土方さんはひどく機嫌が悪そうに見える。ただでさえ凶悪な面をしているのに、それでは極悪人のようではないか。そんな軽口を叩くのは土方さんが纏っている雰囲気によって阻まれた。既に一度間違えている。これ以上誤れば何も聞き出せなくなる恐れがあった。面倒なので長期戦は避けたい。

「減ってねえ」

 返ってきたのは撥ね付けるような否定だった。不愉快そうに表情を歪め、きっぱりと俺の言葉を否定する。俺の言葉を否定しただけだ。それなのに土方さんは苛立ちを更に増したように見えた。……ふむ、やはりどうにもこのあたりが原因らしい。そこまではなんとかわかるのだが、ここから先がわからない。一体何がそうも気に入らないのか。何に怒っているのか。その問いは先ほど投げたが怒っているという事実から否定された。本人から聞き出すのは諦めた方がいいだろう。だがこうも手がかりが少なくては正答を見つけ出すのは難しい。……いや、もう面倒になってきた。どうして俺がこの人の機嫌を窺わなくてはいけないのか。土方さんがいくら苛立ちを撒き散らしていたところで俺にはなんの害もないのだ。害があるというのならそいつらが宥めすかして機嫌を取ればいいだろう。原因は俺にあるとしても、俺でなくては機嫌を回復できないということはないはずだ。
 そもそもこの人の機嫌を直せなど、誰に言われたわけでもないのだ。このまま放置していればいずれせっつかれるだろうが、少なくとも今はまだ何も言われていない。せっつかれてから動き出せばいいのではないだろうか。内情を探るのが果てしなく面倒になって早々に諦め始める。だが答えは思いがけず、土方さん本人によって与えられた。

「戻るまではもうしねえからな」

 俺に対して露骨に警戒を滲ませ、土方さんはそう吐き捨てる。水を被ると淫魔になるという体質を解除する手段はない。できるのは上書きだけだ。水を被ると男になる体質を上書きすることで表面上は元に戻ったことになる。水を被ると男になるという泉の水は取り寄せている最中で、明日には届くらしい。今日明日くらいならば食事をせずとも乗り切れるだろう。体力的には全く問題はないが、あまり連続して屯所を空けたくはなかった。何故って、近藤さんが不審に思ってしまったら困るだろう。二人揃って外泊を繰り返していることを知られてはならない。微妙に屯所を出るタイミングをずらしてみたりはしているが、あまり頻度が高いと疑われてしまう確率が上がる。だから、なにかをするつもりはなかったのだ、本当に。

「そりゃあまた、なんで」

 思わずそう口にして、愚かな問いをしたことに気付く。土方さんの表情が歪む。ああ、そうだった。この人は己の制御がきかない己を何より厭うのだ。飛びかけた記憶が鮮烈に残っているのならそれ自体を避けたがっても不思議はないだろう。ということはつまり、土方さんは苛立っていたわけではなく俺を警戒していたわけか。

「……必要ねえからだ」

 また理性を揺さぶられるのが恐ろしいのだ。だがそんな本音をこの人が素直に口にするはずもない。素っ気なくそれだけを返し、正面へと向き直った。そこまで嫌がられるとなんとかしてセックスにまで持ち込みたい気もしてくるが、この頑なさを強行突破するのは難しそうだ。労力を考えるとなかなかに面倒で、やる気が削がれてくる。

「そうですか。必要になったらいつでも呼んでくだせェ」
「ぜってー呼ばねえ」

 忌々しげに吐き捨てられる。警戒は未だ緩むことはなく、俺への信用のなさがありありと窺えて笑えた。








  ◇ ◇

 今日の土方さんは妙にそわそわしている。はて、何かあっただろうかと考えを巡らせ、そういえばと思い至る。そういえば今日は件の品がこちらに届く日だったか。土方さんほど深刻に考えていないのでつい忘れていた。忌々しい体質からようやく解放されるのだ。土方さんからすれば待ち望んでいた日だろう。落ち着きをなくしてしまうのもわからないではない。何の事情も知らない隊士からは不審な目で見られているが、そんなことは気に留めることでもないのだろう。土方さんは浮かれていた。なんなら鼻歌でも歌いだしそうなくらいに。
 俺からすれば楽しみが少々減ってしまうので残念ではあるのだが、いつまでも現状のままではいずれ支障が出かねない。万全の状態にしておくことは大切なことだ。私情でそれを妨げようとは思わない。ただ残念だと、少しばかりそんなことを考えてしまうのは仕方のないことだろう。淫魔の本能に振り回されている土方さんは観察していてなかなかにクるものがあった。もう少しくらい見ていたいと、まあ願うだけならば自由だ。願ってはいた。だが叶うなどとは毛頭思っていなかったのが正直なところだ。
 そわそわしている土方さんは浮足立っていて、非常にご機嫌だ。瑣末なことは見逃してやってもいいと慈悲が働くのか、今日はサボっても大目に見られることが多かった。それはそれで面白くな……いや、いい。妨害を受けずに思うままにサボれるのはいいことだ。まあ、そんなわけで今日の俺は堂々と職務を放棄している。どれくらい堂々としているかと言うと、居間でテレビをぼんやり眺めながら煎餅を貪る程度には堂々としている。
 大きく開いた口で、煎餅に噛み付く。歯を立て、顎に力を込めればばきんと音をさせて歪な形に割れた。割れた際の衝撃でぼろぼろと欠片が落ちていく。歯を突き立てる度に煎餅は砕け、その破片が机上へと落ちていった。だがそれを咎める者はここにはいない。居間にいるのは俺一人なのだから咎めようもない。煎餅を貪る度に机上を汚していく。構わずに黙々と煎餅を咀嚼し、ぼんやりとテレビを眺めた。
 なんとなく居間でサボり始めてはみたものの、特に見たい番組があるわけでもない。平日の昼時というのは心惹かれる番組が非常に少ない。あれこれとチャンネルを変えてはみたが、結局はニュース番組に落ち着いてしまった。世の流れを知っておくのも大切なことだろう、などともっともらしい理由をつけてみるが単にニュース番組が一番マシだっただけだ。
 万引き、交通事故、不倫、結婚、外交。何度か聞いたことがあるような情報も混じる。平和な時ほど同じ情報が繰り返し報じられる。退屈なのは平和な証拠だ。平和な方が仕事も楽でいい。いいことだ。たまにはこうして時間を持て余すのも悪くないだろう。
ぼうっとそれらを目で見、音で聞き、それとなく頭へと放り込んでいく。いくら頭の中に入れてもそれらが長く留まることはない。関心の薄いものから順に、頭の中から消えていく。だがひとつ、引っかかった。
 ターミナル付近での炎上事故。ターミナルを目指していた船のひとつがハイジャックされ、操縦不能となった。そうあることでもないが、珍しくもない。幸か不幸かその船は物品の輸送を主としていて、乗客はほとんどいなかった。そのおかげで人的な被害はそれほどなかったが積荷への被害は甚大らしい。積んでいた荷物に燃え移り、被害は広がっているところなのだという。積荷の主がニュースで読み上げられる。幸いにも目立った怪我人はいなかったようで、読み上げられるのは企業名ばかりだ。積荷にはそれなりに被害が出たらしい。何気なく眺めたところで引っ掛かるような名前はない。そのはずだった。だが、ひとつだけ。

「……これは、もしかすると」

 ハーフカンパニー。その名前を聞いたことがある。はて、どこで聞いたものだったかと記憶を類っていけば存外早くに見つけ出すことができた。記憶の比較的新しいところにそれはあった。確か、土方さんの口からその名前を聞いていた。土方さんが苦しめられている体質になったきっかけ、そもそもの元凶を販売している会社だったはずだ。事態を解決するために品物を注文した会社もここだったと記憶している。そして土方さんが注文した商品が届くのは今日。だがテレビの向こうではハーフカンパニーの積荷が燃えている。一日にやってくる積荷がこの船ひとつということはないだろう。この積み荷の中に土方さんの荷物が積み込まれているとは限らない。そうは思うが、どうにも嫌な予感がした。俺にとってはそれほど嫌な予感でもないのだが、とはいえこういった予感はわりと良く当たる。

「……土方さんはともかく、旦那はやべェんじゃねえですかね」

 もしも注文した品が燃えているとして、土方さんはまあいい。今の体質に困りはしているが命に関わるようなことでもない。だが旦那は違う。あの人は正規の方法で食事をとっていない。あの人は未だにいちご牛乳と己の精液だけで飢えを誤魔化し続けているらしい。それがいつまで保つのかはよくわからないが、これ以上待つのは命に関わりかねない。
 もう少し現状維持でもいいかもしれない。確かにそう思いはしたが、それによって旦那が死んでしまうのは本意ではない。そんなことを考えている間にも画面の向こうで荷は燃え続ける。画面からではどんな荷物が燃えているかまではわからない。アナウンサーが原稿を読み上げている間にも何かに炎が引火してどんっ、と音を立てた。炎が止む気配はない。同時に嫌な予感も消えることはなく胸を満たしていった。



  ◇ ◇

 先日とは一転し、土方さんの機嫌は地の底まで落ちていた。
 あの炎上事件の後、ハーフカンパニーから連絡が来た。やはりあの積み荷の中に土方さん達の購入したものが混じっていたらしい。積み荷のほとんどは燃えてしまっていて、商品として扱うことはできなかった。それでもそこで引き下がるわけにはいかなかった。土方さんはともかくとして旦那のほうは命がかかっている。燃えかけて外装がみすぼらしくなってはいたが、水の一部は幸いにも無事だった。問題は破損を免れていたのが一人分だけだったことだ。この場合、どちらが先に使うべきかは悩むまでもない。多少揉めはしたらしいがそれは旦那が使うことになった。
ハーフカンパニー側の負担で再注文をかけたのでこれから一週間ほどは水が再入荷するのを待つことになる。つまり、事態は振り出しに戻った。土方さんが気落ちするのも無理はないだろう。
 あと一週間延びたところでたいして変わりもないだろう。そう思いはするが、口にすれば噛みつかれるのは目に見えている。秋の空のように変わる上司の機嫌に隊士達が恐々としているのが哀れだった。先日とは一転して、土方さんはぴりぴりとした空気を放っている。そんな土方さんに好き好んで近づこうとする奴はいない、俺もできれば近寄りたくはない。

「土方さん」

 呼んだだけだ。それだけなのに、纏う雰囲気が一層刺々しくなる。露骨な拒絶はいっそ面白い。その程度に怯むようではこの人とは付き合ってはいけない。気にせず歩み寄って更に声をかけた。

「旦那、元気そうでしたよ」

 旦那とは水の奪い合いをしたのが最後で、それきり一度も会っていないはずだ。その後の様子くらいは気にしているだろう。と親切心を働かせてそう伝えてみる。まあ、サボりの道中に団子屋でばったり出くわしただけだが。
 淫魔になったことで旦那はほぼ絶食に近い状態を強いられていた。それから解放された反動で今はひたすらに甘味を貪っているらしい。……いや、旦那が甘味を貪っているのは今に始まったことでもないか。一足先に解放された旦那は、それはもう清々しそうに食事をしていた。そんなに一気に食べ物を押し込んで胃がやられはしないだろうかと思いはしたが余計なお世話だろう。それで入院する羽目になっても俺には関係のないことだ。

「……そうかい」

 どろどろと地を這うような声で土方さんはそう返す。旦那に恨みがあるわけではないだろう。だが一人で先に解放された旦那に思うところもあるのだと思う。気に入らないがそれを素直に発露させることもできず、不機嫌を煮詰めたような反応になってしまっている。

「話はそれだけか?」

 それならさっさと失せろと言外に促される。冷たいにも程がある。

「一週間後に改めて商品が届くそうですね」
「ああ」
「それまでは今のままってことですよね」
「……何が言いたい」

 土方さんは俺を近くに置いておきたくない。理由ははっきりしている。淫魔になっている今の土方さんは、己の意思には関係なく精液を欲している。俺が近くにいることでその欲求が更にひどくなるようだ。本人から直接聞いたわけではないが、ちくちくと刺さる視線の熱量からしてそんなところだろう。物理的に距離を置いたところで根本的な解決にはならないわけだが、一週間という期間が決まっているのならば有効な手段と言えるかもしれない。土方さんは俺を避けている。わかってはいるが、俺がそれに協力してやる義理はない。

「大丈夫そうなんで?」

 ここが屯所内であることを考慮して、明確な言葉にすることは避けた。周りに人気はないが、だからといって誰も聞いていないとは言い切れない。話している最中に誰かが通り掛かる恐れもある。一応、このことは俺しか知らないことになっているのだ。
 これまでの様子から見るに、耐えられなくはないのだろう。だが余裕と言うには程遠いように思う。一度食事をしておくくらいでちょうどいいのではないだろうか。そこまでわかっていて問うのは土方さんがどう考えているかを確認しておきたいからだ。だがまあ、問う前から察しはつく。案の定、土方さんは表情をこれでもかと歪めた。

「大丈夫だろ」

 嘘だ。大丈夫という表情ではない。無理があるとわかってはいるのだ。それでも大丈夫ではないと、そう素直に吐露しないのは食事の方法が少々特殊だからだろう。
本来の土方さんは精飲を強く拒む。それゆえにこうして拒絶してくるのは無理からぬことではあるが、そろそろ慣れてもいい頃ではないだろうか。一回飲んでしまったのだから二度三度飲んだところで変わりもないだろう。下手に我慢をしたところで後々追い詰められるのは目に見えている。これまでの経験から土方さんだってそれはわかっているだろう。だがそこまでわかっていてもこの人は頑なだ。決してそれを認めようとはしない。そんな意地を張ったところで何が変わるわけでもないだろうに。何も変わらない。それでもこの人は目に見えない己を守ることに必死だ。

「はあ……そうですかね」

 流石にもう一週間は無理だろう。はっきりと否定せず、やんわりとそう口にすればきつい眼光で睨まれる。土方さんだって本気で成せると思っているわけでもないだろうに。……いや、どうだろう。根性でなんとかするつもりなのかもしれない。精神論で捻じ伏せるくらいなら、この人ならやりかねない。

「何が言いたい」
「いえ、別に」

 これ以上つついたところで更に機嫌を悪くさせてしまうだけだ。とりあえず今日は大丈夫そうなのでお望み通り距離を取っておくことにしよう。怯みはしないが、不機嫌を振りまく人間のそばに居るのはあまり気分のいいものではない。
 いつでも協力は惜しみませんよ。そう言えば土方さんの表情は更に歪むだろう。それはわかっていたが、間髪入れずに返って来る拒絶を思うと口にすることができなかった。



  ◇ ◇

 ハーフカンパニー輸送船炎上事件より五日が経過。残すところあと二日なわけだが、事態は案の定な展開を迎えている。

「……うるせえ」
「まだ何も言ってねえし、うるせえのはアンタの腹の音です」

 そろそろ土方さんがやばい。あれから土方さんはじわじわと弱り続け、覇気をなくしていった。食事をしていないのだから体力は削られていく一方だ。思考が鈍り、返答に時差が生じることが多くなった。動きに張りがなく、時折よろよろとして足元が覚束ないことさえある。顔色も悪い。傍から見ていて限界だということがよくわかる。だが土方さんはそれを頑なに認めようとはしなかった。
 空腹に苛まれ、土方さんの腹はきゅるきゅると頻繁に鳴っている。そのせいでやたらと食べ物を貢がれていたが、今の土方さんはその方法では腹を満たすことができない。貢がれるままにそれらを口に運んではいたが、腹が鳴り止むことはなかった。このまま放置していれば隊士にも不審に思われてしまうことだろう。食事は普通にしているのだ。それなのに腹が鳴り続けているのはどう考えてもおかしい。
 土方さんが俺を睨む。俺を睨んだところで事態が解決するわけではないし、そんなことは土方さんだってわかっているだろう。あと一回だけだ。あと二日待てば元に戻れる。ほんの少し間に合わなかっただけだ。あと一回食事をすれば後は耐えられるだろう。これで最後だ。初めてのことでもないのだし何をそう身構えることがあるだろう。おおかた面倒臭いプライドが邪魔をしているのだろうが、この人がどこに引っ掛かっているかが俺にはよくわからない。

「……今の状態で闇討ちでもされたら事でしょう」

 土方さんだけが討たれるのならまだいい。だが拉致されて交渉材料に使われるという恐れもある。真選組に害をなすのは本意ではないだろう。この人を動かすにはどうすればいいのかはよく知っている。この人が揺れるように言葉を選べばあっさりと動揺を誘うことに成功した。
 そんなことは有りえないとは言い切れないらしい。それはそうだろう。これだけ弱っていて、自分の状態を正しく認識できていないとは思えなかった。だがそれでもまだ素直に食事をしようという気にはなれないらしい。俺を見る目は警戒に満ちている。

「……お前、俺の言うこと聞かねえだろ」
「は?」

 じりじりと警戒を続けながら土方さんはそう絞り出す。それが渋っている理由なのだろうか。しかし、言っている意味がよくわからない。俺が土方さんの言うことを聞かない? それはいつものことだし、褥に関して言うならそれなりに譲歩して要求は飲んでいるつもりだ。それでも足りないというのならもっと早くに問題になっていたはずで、それを理由に食事を拒むのはおかしい。俺はいつもと変わりがない。おかしな行動をした覚えはなかった。

「覚えてねえとは言わせねえぞ。前回、お前好き勝手にしただろ」

 恨みの篭った目で睨まれる。前回、と言われて記憶を掘り起こす。……そう言われてみれば、いつもよりは勝手に振る舞ったような気もする。常とは違う様子の土方さんについテンションが上がったことは否定できない。
「はあ、そうでしたかね。今回は大人しくしてますって」

「こういう時の男の口約束ほど信じられないものもないだろ」

 嘘をついたつもりはないが、更に警戒を強められてしまう。まあ、それはそうだ。なんともまあ薄っぺらい口約束だ。口にした自分でさえもそう思うのだから、土方さんはより強くそう感じたのだろう。
この瞬間に何を言ったところで理性がどこまで役に立つかはその時になってみなければわからない。前回と同じように土方さんが飛びかけるのなら、絶対を約束することはできなかった。善処するというのがせいぜいか。信用されていないことを不服に思いつつもその言葉を否定もできない。それほど忍耐強い方でもない自覚があるので余計に。

「でもそのまま放っておくわけにもいかねェでしょう。……じゃあ、そうですね。ほんとに食事するだけにしときます?」

 方法はいくらでもある。精液を飲めばいいだけだ。俺が自慰をして出したものを飲んでもいいし、以前のようにフェラのついでに飲んでもいい。身体を繋げる必要はない。譲歩するならこのあたりまでだろう。このままあと二日を耐え忍ぶという選択肢は存在しない。俺しかこの事態を知らない以上、俺にも責任が付きまとう。こんなくだらないことでこの人を死なせるつもりはなかった。この男が死ぬのはもっと先、少なくとも俺がこの人を追い抜いてからの話だ。それより先に死なれては困る。
 土方さんにとっては悪くない提案だったはずだ。だが土方さんは躊躇する。精飲が嫌だとか、そういう根本的なところからまたごねるつもりだろうか。どう言い包めたものかと考えつつ土方さんの返答を待つ。反応を見なければ次の提案もできない。

「…………いや、そこまですることはねえだろ」
「はあ? 俺が信用できねェからしたくねえんでしょ?」
「そこまでは言ってねえ」

 はっきりそう言ったわけではないが、あれは言ったも同然だっただろう。他に解釈のしようがない。捉え方が違うと言われても他に捉えようがなかった。しかし土方さんは違うと言う。じゃあ、一体この人は何をどうしたいのか。わからない。わからないから考えるのをやめて土方さんの言葉を待った。
 土方さんは迷っている。うろうろと視線を彷徨わせ、言葉にすること自体を迷っているようだった。だがあいにくと俺の理解が及ばないのだから、言葉にしてもらわなければ話が進まない。視線で圧をかけてさっさと吐くように促す。溜めたところで言い出しにくくなっていくだけだろう。さっさと言ってしまえ。だが土方さんはなかなか口を開かない。何か適当に脅しでもかけて言わざる得ない状況に追い込まなければならないのだろうか。面倒臭いがそうでもしなければ事態が進まないと言うのなら仕方がない。そうして渋々理由を探し始めたところでようやく土方さんが腹を括った。
 かなりの勇気を要したようで、絞り出された声は小さい。迷いを反映するように声音はあっちこっちへ彷徨う。それでもなんとか俺の元までは届いた。
 土方さんの口から絞り出された要求に思考が停止する。それに目ざとく気付いた土方さんは不機嫌そうに眉を吊り上げた。





  ◇ ◇

 かしゃん、と頭上で金属が擦れ合う。それを聞いた土方さんがこちらへ目を向けた。

「あんまり動かすなよ。傷になる」

 そう言って俺の頭より高くへ目をやる。掲げた腕。その先の手首には見慣れた金属の環が嵌められている。環と環を繋ぐ鎖はベッドの隙間を通り、そうすることでベッドから離れられなくなっている。腕を引けば環が引っ掛かって音を立てる。引っ張った拍子に傷ができてしまわないようにと手首には薄手のタオルが巻かれているが、それでも無理に引っ張り続ければ傷になってしまうだろう。

「わかってますって」

 暴れるつもりはない。ただ状況に慣れず、居心地が悪いだけだ。手首に嵌め込まれているそれは俺達が仕事で使うもので、解錠のための鍵はちゃんと土方さんが持っている。案じることは何もないが、拘束されている状況に落ち着かないのもまた事実だ。
 淫魔としての食事を土方さんは渋ったが、条件をつけることでなんとか承諾を得た。それがこれだ。安っぽいベッドに手錠で繋がれているために俺はろくに動くことができない。それこそが土方さんの要求だった。
 どうにも、前回の件で俺への信用は地へと落ちてしまっているらしい。俺からは一切手を出さず、主導権を完全に渡すことが土方さんの提示した条件だった。確かにこれなら手の出しようもない。
 身じろぐ度に鎖が引っ掛かって音を立てる。咎めるような目で見られるが仕方ないだろう。鎖の長さがあまりないせいで身動きが取りにくい。そこまで音を気にするならベッドに繋がなければ良かったのだ。ただ手錠をしているだけでも動きを封じるには充分だろう。

「仕事の備品使うなんざ、土方さんもワルですね」
「……黙ってろ」
「それも条件だって言うなら黙ってます」

 応と返すだけで俺を黙らせることができるのに土方さんはそうしなかった。ただ会話を拒否するように視線を逸らす。口は開いていてもいいらしい。動けないのは存外暇で、そうなると口ばかりがぺらぺらと動いてしまうのは仕方のないことだ。咎めはするが、駄目だとは言わなかった。しかし喋ってもいいからといって会話に応じるというわけではないらしい。俺が話しかけても土方さんはむっつりと黙り込んでいる。そうして黙々と目的のために行動を開始した。
 土方さんが俺に触れる。手は服を肌蹴させながら徐々に下へと滑っていく。脇をなぞり、腹筋へと触れ、腰を擽る。そうして下肢へと辿り着くとトランクスへ指を引っ掛けた。

「ゴムが伸びるんで、丁寧に脱がせてくだせェ」

 強引に引き下ろされるトランクスに対してそう注文を口にすれば眉が顰められた。だが反論はなく、心なしか丁寧にトランクスが引き下ろされていく。中にしまい込まれていた分身は既に兆し始めていて、邪魔者がいなくなったことで天へ向かってぴんと起ち上がった。視線が痛い。

「そんなに見てなくても逃げませんって」
「黙ってろ」

 熱視線を茶化してもぴしゃりと撥ね付けられる。自覚があるのかないのか、土方さんの視線にはいつも以上に熱がこもっていた。落ち着かないのはそのせいだろうか。いや、そもそも常の土方さんなら今のように局部を凝視してくることはなかったはずだ。常と同じように振る舞おうとはしているようだが、微妙にできていない。それを指摘したところで機嫌を損ねるだけなので黙っておこう。いつもと同じだろうといつもと違おうと、どちらでもいいことだ。こだわりはない。
 土方さんの動きは即物的だ。雰囲気を盛り上げてみたり、周りからじわじわと責めて高めていったりだとか、そういった手段を取ることがほとんどない。それは今日も変わりなく、伸びてきた手は躊躇なく自身へと絡んだ。

「んっ……ッ」

 急所に触れられたことで一瞬だけ身体が強張る。硬度を確かめるように握り込みながら何度か上下に扱いてくる。手で高めるまでもなく熱はいきり立っていて、こちらの準備は万全だった。少し触れてそれを確認すると土方さんの手はすぐに引いていく。
 引いた手は土方さんの元へと戻り、今度は土方さんの身体へと向けられた。べたべたとその身体を這いながら身を包んでいる衣服を剥ぎ落としていく。滑りながら服が落ち、肌が晒される。それを眺めていると、不意に睨まれた。

「見るな」
「ええ……?」

 そんなことを言われても、他にやることがない。身動きが取れない状況で、視界で動くものをつい見てしまうのは仕方のないことだろう。羞恥から来る台詞だとわかってはいるが、それにしても理不尽だ。それでは俺はこの手持ち無沙汰な時間をどうしていればいいのか。そう問いかけたところで「知るか」と返されてしまいそうだ。
 理不尽な言葉に晒されている間に土方さんはすべての衣を脱ぎ去った。ベッドの外へそれらを放り、俺との距離を詰める。ベッドに手を着き、俺の元へと這い寄った。

「見上げるのって、なかなか新鮮ですね」
「……お前、今日はよく喋るな」
「他にやることがないもんで」

 手錠を引っ張るとかしゃんと音が鳴る。喋るくらいしか時間を潰す方法がない。時間を持て余すということはそれだけ余裕があるということだ。

「うるさいのが嫌いなんなら黙らせてくだせェ」

 よく喋る俺が気に入らないと言うのなら、喋る気も起きないくらいに余裕を取り払ってしまえばいい。そう挑発すれば土方さんの口端が吊り上がる。本当に、この人は挑発に耐性がない。
 ふん、と鼻を鳴らして土方さんは動き出す。少し仰け反るようにして背をぴんと張る。右手をベッドへと着き、腰を浮かせた。視線は俺の下肢へと向けられていて、ゆらゆらと俺の上で身体が揺れている。左手は土方さんの身体の下へと潜り込み、迷いながらも俺の中央部へ触れた。這わされた指が形を確認するようにまわりをたどる。土方さんの腰が少しずつ落ち、ようやく先端が窄まりへと触れた。
 ぐずりと音が立った気がする。一度も触れていない窄まりはぐっしょりと濡れていて、少し触れただけでもつるりと滑った。自然に濡れる場所でもないのでベッドに上がる前に念入りに濡らされていたのだろう。そうわかっていても高揚するのは何故だろうか。
 拘束されているのは腕だけだ。下肢は自由なので下から突き上げることくらいはできる。だが土方さんからの要求は一切動かず何もするな、だ。ついうっかり動いてしまうことはあるかもしれないが、こんな早々に破るつもりはない。大人しくベッドに転がって事の成り行きを見守る。中は充分に拡げられていて、すぐにでも挿れることができるだろう。だが土方さんはそうはしない。先端を押し当てたまま、何度か深呼吸を繰り返す。

「土方さん」
「っるせえ……」

 逃げるように視線が落ちた。自分の意思で挿入するとなるとなかなか踏ん切りがつかないのだろう。だがいつまでもこのままでいるのは互いに辛い。動かない代わりに声で急かせば、ようやっと動き始めた。ゆっくりと、土方さんが腰を落としていく。

「っん、ぐ……」

 腰を落としていくほどに熱が飲み込まれていく。ぬかるんだ肉壁は割り開かれ、中からはどろりと潤滑油が零れ落ちていった。土方さんは視線を伏せたままで、どんな顔をしているのかはわからない。食い縛った口の端からふうふうと息が漏れ出した。ゆっくりと、だがその動きが止まることはない。じわじわと飲み込まれていく。その時間はやけに長く感じられた。焦れて突き上げなかった自分を褒めてやりたい。
 すべてを飲み終わった頃には双方ともにびっしりと汗をかいていた。伏せられていた顔がゆっくりと持ち上がって俺を見下ろす。汗に濡れて前髪が顔に張り付き始めている。息が上がり、呼吸に合わせて肩が上下する。

「自分で動けます?」
「馬鹿に、してんのか」

 そういうわけでもないが、案じてはしている。土方さんが完全に主導権を握っていることなどそうあることではない。場数を踏んでいないのだから戸惑うことも多いだろう。この人がいくら戸惑おうとそれは構わないのだが、ビビって中途半端な真似をされるとこっちも辛い。

「そりゃ被害妄想ってやつですよ。もう大丈夫そうなら動いてくだせェ。動かずに我慢してるの結構きついんで」

 こうしている間も中は絶えず蠢いている。ぐねぐねとうねり、熱を締め上げ続ける。不規則に吸い付かれ、絡みつかれると息が詰まる。今でこそ言いつけを守って大人しくしているが、そう長く耐えられる自信はなかった。だからそう素直に白状して土方さんをせっつく。嘘を言っているわけではないのは見ていればわかるだろう。なにせ腕は拘束されていて、表情すら隠すことができない。

「わか、ってる」

 返答に苛立ちが混じるのはいつものことだ。わざわざ言われなくともそうするつもりだった、といったところだろうか。本当に、この人は気が短い。
 足へ力が篭ったことで必然的に下肢全体にも力がこもった。中がぎゅうと締まって俺を苛む。

「ぅ、く……ッ」

 腰が持ち上がり、深くまで埋まっていた熱が引き抜かれていく。ぞろぞろと内壁に擦られながら抜けていくのは気持ちがいい。快楽を得ているのは俺の方だけじゃない。力の入り過ぎた内股がぶるぶると震えている。今にも止まってしまいそうな緩慢な動きで、それでもどうにか熱を半分ほど引き抜いた。そうして、落とす。

「ん゛ッ…………ふ、ぅ、っぅ」

 口が固く閉じられているせいで息は鼻から抜けていく。ふすふすと音をさせながら土方さんはまた俯いた。今にも止まってしまいそうだ。だが実際に土方さんの動きが止まることはなく、緩やかだった動きは少しずつ速度を増していく。
 ぞろりと内壁を撫でながら熱がすべて埋め込まれる。上がった嬌声はすぐさま押し込まれ、土方さんの口内でくぐもった。固く食い締められているせいで歯が擦れ合ってぎりぎりと音を立てる。腰を上げて、落とす。土方さんは俯いたままだが、そうして上下運動を繰り返す拍子に顔が少しだけ持ち上がる。その一瞬で覗く表情にはどろりとした悦が含まれていた。

「ッひ、じかたさん……」

 ただされるがままにしているというのも存外辛い。耐えかねて呼びかけてみるが返答はない。土方さんはこちらを一瞥することすらなく腰を持ち上げては落とす。声が届いているのかも怪しい。何度か呼びかければ届くだろうか。そう思いはするものの、試す気力がない。あまりべらべらと喋っていては思いもしない声を上げてしまいそうだった。だがこのまま無視されているのは面白くない。どうすれば土方さんの意識がこちらに向くだろう。行為に耽る姿を眺めながら考える。
 かしゃん、かしゃん、かしゃん。
 腕を振れば手錠がベッドに引っ掛かる。腕を動かす度に環が手首へ食い込むが、挟み込んであるタオルのおかげで痛みはほとんどなかった。この程度の動きで手錠を外すことはできない。抵抗をしたいわけでもない。目的はもっと単純だった。
 ゆらりと、土方さんの視線が持ち上がる。音のする方へ、手錠へと向けられた視線はそこからゆっくりと落ちていき、ようやく俺へと向けられた。

「だい、じょうぶですって。外せだなんて言いやせん」

 ただ意識をこちらへ向けたかっただけだ。情欲は瞳の中で厚い膜となっている。それに邪魔をされて今この人が何を考えているのかがよくわからない。元より口数が少ない人なので発言で察するというのも難しい。
 ぐずぐずと下肢で音がする。抜かれた熱が飲まれる度に下腹部に熱が溜まっていく。自分のペースで動けないがゆえに吐き出すタイミングが掴めない。もどかしい。もう動いてやろうか。言いつけを破ったところで、後で散々に文句を言われる程度のものだ。信用はなくすだろうが、そんなものは最初からあってないようなものだ。我慢に我慢を重ねて守るようなものでもないだろう。足に力を込めて、少し腰を浮かせるだけでいい。それだけでもどかしさからは随分と解放されるはずだ。じりじりと溜まっていく熱に耐えかねて思う。だがそれを実行に移すことはなかった。

「……土方さん?」

 動き続けているせいか息は乱れている。快楽に耐えるように眉根がきつく引き寄せられ、目は細められる。それまで反るようにしていた身体を今度は逆に丸め、手を伸ばした。伸びた手は真っ直ぐに俺の元へ。困惑のあまり身を引こうとするが手錠に阻まれた。逃れることはできない。伸びてきた手はあっという間に俺へと触れた。熱い。普段よりも体温が高いような気がする。

「……?」

 手は顔の輪郭を撫でながら徐々に内側へ。そうして唇を撫でた。何がしたいのかわからない。目的の見えない手に身体を強張らせたのは最初のうちだけだ。困惑しているうちに、土方さんの眉間に皺が深く刻まれた。

「……血」
「は?」

 唇の一部を指先が繰り返し撫でる。強く噛みすぎて食い破ってしまっていたらしい。滲み出た血は既に固まり始めていて、触れられることで異物感に気付く。土方さんがぽつりと口にしたのはそれだけだった。だがそれだけで察した。察してしまった。そしてその内容に思わず口を歪めてしまう。

「……っは、なんですか。血が、出るから噛むなって……? アンタが、それ、言います……ッ?」

 普段食い破らんばかりに唇を噛み締めているのは土方さんの方だ。俺がいくら言っても聞き入れやしないくせに、アンタが俺にそれを言うのか。
 だいたい、少々唇が切れたところでなんだというのか。問題は何もないだろう。土方さんの言わんとすることは理解したが、それを受け入れるつもりは毛頭ない。いつもの土方さんの行動をなぞって放っておいてくれと撥ね付けるようとした。だがそれよりも早くに、土方さんは更に身を屈めた。
 ぐうと背が丸められ、胸が触れ合いそうになる。縮まった距離に動揺していると土方さんは薄く口を開く。何をするつもりだ。そう問おうと開いた口はすぐに塞がれた。口を塞いだのは手ではない。

「んッ、ぅ!?」

 僅かにできた隙間へ舌が入り込んでくる。咄嗟に身体を押し返して撥ね付けようとするが手錠に邪魔をされた。がしゃんと大きな音が響いたばかりで、それ以上はどうすることもできない。今更になって手錠のことを忌々しいと本気で思う。だが鍵は土方さんが持っていて外すことができない。
 本気で侵入を阻みたいのなら入り込んでいる舌を噛んでしまえばいい。それはわかっているのだが躊躇いが生じる。土方さんからこんな行動に出ることは滅多にない。この人が何を考えているのかがわからなかった。土方さんにまだ真っ当な意思があるのかというところから怪しい。
 口内に入り込んでいるからといって他がおざなりになるようなことはない。速度は落ちたものの腰は揺れ続けている。それに翻弄されてうまく力が込められない。舌は口内を好き勝手に蹂躙する。俺の舌を搦め捕って弄んだかと思えば上顎をねっとりと舐め上げる。認めるのは癪だがこうしたテクニックは土方さんの方が数段上だった。腰にじくじくと熱が溜まっていくと同時に、身体の力は抜けていく。それでも完全にされるがままになっているのは我慢ならず、のたのたと舌を絡め返した。今はそれだけで精一杯だった。弛緩していた身体へ不意に力がこもる。一瞬、自分でも何が起きたのかよくわからなかった。

「ん゛ッ!?」

 びくりと身体が跳ねた。遅れてそれが痛みであると理解する。痛みの原因は快楽の隣へあった。

「ちょっ、ひじかたさ……ッぃ!?」

 口内から抜け出した舌がねっとりと唇を這う。常ならばなんてことはない。だが唇には傷がある。塞がりきっていないそれは執拗に触れられればじくじくとした痛みを伴った。俺の反応を見ていればわかるだろうに、それでも土方さんは唇を舐めるのをやめない。

「っ、ぅ……!」

 たいした痛みではない。骨を折ったり、肉を斬られた時の痛みと比べればこれくらいどうということもない。だがそれでも繰り返されれば身体の方が勝手に反応を示す。生理的現象というやつだ。目頭が熱くなったと思うとじわじわと涙が溢れ出してくる。それでも土方さんがやめる気配はなく、湧き出し続ける涙はついに目の内に留めておけなくなった。溢れ出した涙は目尻から伝い落ちていく。生理現象だ。そう言い聞かせてもこれしきのことで泣いていることがひどく情けなく思えてくる。なんとか逃れようと身を捻ってみるが、拘束されている状態ではろくに動くこともできない。顔を背けようとしてもすぐに土方さんの手にがっちりと固定され、動けなくなった。べろべろと何度も舌を這わされてその度に傷が痛む。一体何の嫌がらせだ。痛み続けることに徐々に苛々し始める。なんとかしてやめさせたいがその手段がなかった。……いや、本当にそうだろうか。ひとつだけあるのではないか。
 言いつけを破ることにはなるが、そんなことは知ったことではない。制止を聞き入れない土方さんが悪い。悩む時間はそう長くなかった。手錠のせいで俺の行動は大きく制限されているが、それでも何もできないわけではない。土方さんが腰を浮かせるとずるりと熱が抜けていく。内壁が擦れる感触に土方さんが震えた。ある程度まで引き抜いてしまえばまたすぐに腰を落としてくるだろう。だがそれを待つことはなかった。すべてを抜かれるよりも先に腰を持ち上げる。開いていた距離はあっという間に詰められ、結合部は再び深くまで繋がり直した。

「ッッん゛、ぅ!?」

 思いもしなかった刺激に土方さんがびくりと身体を震わせる。その弾みで身体が持ち上がり、好き勝手に俺を嬲っていた舌も引いていった。

「っは、はぁ……今のは、仕方ねえ、ッでしょ。こうでもしねえとアンタ、いつまでも……ぅ?」

 ぎゅうと食い締められて言葉が詰まる。どうにもこれまでとは様子が違う。見れば土方さんは丸めていた身を起こしているところだった。だが様子が少しおかしい。ベッドに着いている手はぶるぶると震え、呼吸が妙に早い。様子を窺うように下から覗き見れば、その表情は歪んでいた。

「ぁ、ァッ……っくそ!」

 悦楽と屈辱で、端正な顔が歪な形を作る。一度下から突き上げただけだ。たったそれだけの動きなのに、それに対する土方さんの反応はあまりに過剰だった。はくはくと音もなく口が開閉する。食い千切ろうとしているのではないかと思ってしまうほど強く中が締まる。その間も土方さんの腰は揺れ続けていた。もう少し。それは繋がっているからよくわかる。もう少しなのは俺も同じだ。
 最初の約束は既に反故になった。一度破ったのだから二度破ったとところで変わりはしないだろう。そう開き直し、もう一度下から突き上げる。引き抜いている最中に突き上げられ、土方さんは息を詰まらせた。

「〜っぁ、!?」

 はくりと大きく開かれた口から、かろうじてそれだけが零れ落ちる。目は大きく見開かれ、身体は大袈裟なまでに一度だけ震えた。内壁はうねりながらぎゅうぎゅうと絡みついてくる。その熱と圧を凌ぐことはできず息を詰めた。下半身がやけに熱い。溜まり込んだ熱が脈に合わせて吐き出されているのがわかる。
 ほぼ同時に土方さんも達したらしく、上に跨っている身体がぐにゃりと弛緩する。だが倒れ込んでしまうようなことはなく、揺れながらも俺を見下ろし続けた。

「…………なんて目してんですか」

 うっとりと、恍惚に満ちた目が俺を見る。こうなってから土方さんはいつもこうだった。いつもとは違う様に、おぞましいような、高揚するような、どちらとも言えない感情が沸き上がってくる。

「なんの、ことだ」

 自覚があるのかないのか、土方さんはそうとぼける。だがとぼけたところで事実は消えない。昏い瞳は未だに熱を湛えて俺を見下ろし続けていた。

「も、一回、付き合え……」

 押し殺した声の中に熱が混ぜ込まれている。

「ッ、なんどでも、俺は構いませんがね」

 それを聞いてしまって否と答えられるはずもなかった。





  ◇ ◇

 真選組副長の半淫魔化という大失態は俺しか関知しないまま闇に葬られた。
 土方さんの様子は少々おかしかったが、長く記憶に留まる程のことでもない。幾人かの中に違和感を残しながら、それすら時間の経過と共に消えてなくなってしまう。そうして日常が戻ってきた。そのはずだった。

「……さて、そろそろ俺を避けてる理由を教えてもらいましょうか」

 どうにも土方さんに避けられている。またかと、そう思わずにはいられない。俺は何度避けられるのか。
 避けられているのは早々にわかっていたことではあるのだが、そのうちに落ち着くだろうと放置していた。それがよくなかったのかもしれない。土方さんの態度は不自然なまま続き、俺を避け続けている。以前ほど露骨なものではない。だが俺と二人きりになることは断固として避けている。それは間違いない。それがかれこれ一ヶ月ほど続いている。いい加減様子を見るのも限界だ。俺にしてはよく耐えた方だと思う。今度は一体なんだ。苛立ちを抑え込んでそう問うた。

「なんのことだ」
「とぼけてんじゃねェ。今度はなんですか。何が引っ掛かってんですか。さっさと白状しなせェよ」

 淫魔になっている間避けられていた理由ははっきりしたのでいい。だが元に戻っても避けられているのは一体何故だ。心当たりがあり過ぎて正直よくわからない。いや、そもそもこの人は図太いので俺の心当たり程度で俺を避けるとも考えにくい。だがこの人は存外くだらない理由で俺を避けるので、それを考えるとよくわからない。考えるよりも問う方が早い。

「最後にヤった時も大人しくしてたでしょ」

 目先の欲に負けていくらか動きはしたが、手錠は終始嵌められたままだったのでろくに動くことはできなかった。もどかしく思いつつも結局最後まで土方さんの好きにさせてやったはずだ。感謝されることはあれど文句を言われることはない。そう思いはするのだが、他に原因らしい原因に心当たりがない。土方さんが俺を避け始めたのはそのあたりからだ。いや、その前から避けられはしていたので継続して避けられていると言うべきか。体質の変化に振り回されて疲れているだろうと、俺なりに気を遣ってはいたのだ。だが一ヶ月はあまりに長い。せめて理由くらいは明かすべきだろう。

「ゔっ……たいしたことじゃねえよ」
「ほお。アンタはたいしたことじゃない内容で一ヶ月も人を避けるんですか」
「ぐっ……」

 少なくとも土方さんにとってはそれなりに重要な問題で、だからこそこうも長く避けられているのだろう。下手につついても状況が悪化することもあると身をもって学んでいるのでとりあえず待ってはみたわけだが、こんなことならもっと早くに問いただすべきだった。
 土方さんはなかなか白状こそしないが、逃げ出す素振りはない。思うに、今の状況に少なからず罪悪感があったのだろう。土方さんは頭の回転が鈍いところはあるが馬鹿ではない。現状のままではいけないことはよくわかっていたはずだ。俺が抗議の視線を送り続けていたことにもおそらくは気付いていただろう。わかった上で黙殺し、逃げ続けていた。それに対する罪悪感で即座に逃走を選べないでいる。だが逃げないからと言って覚悟が決まっているわけでもない。うろうろと彷徨う視線からは迷いが見て取れた。まあ、だからといって逃してやるほど俺は優しくない。なにせ一ヶ月だ。一ヶ月、触れることはおろかろくに会話すらもしていない。そろそろ近藤さんが不審に思って首を突っ込んでくる頃合いだろう。それは土方さんも本意ではないはずだ。俺の限界も近い。
 覚悟が決まるまでの間多少待つくらいならしてもいい。だがこれ以上泳がせておくつもりはない。さりげなく土方さんの退路を確認しつつ、いつでも阻めるように警戒する。隠しているわけでもないのでそれは即座に土方さんに伝わったことだろう。逃がすつもりはないことを隠しもしない俺から逃げ出す気は流石にないらしい。だが口にする決心がついたわけではなく、しばし黙り込む。
 土方さんと違って気は短くはないし、それなりに待つことはできる。早く吐いてしまえと圧をかけはするがせいぜいそれくらいのものだ。後はただ大人しく土方さんの言葉を待った。どれに効果があったのかはわからないが、やがて土方さんはぽつぽつと話し始める。単に、これ以上は逃げ回れないと腹を括っただけかもしれない。

「……お前はその、すぐにヤりたいとかヤらせろとか言うだろ」
「そんな頻繁じゃねェでしょ」

 その言い方ではしょっちゅう発情しているようではないか。その認識はいささか不本意でそう返せば土方さんに睨まれる。

「頻繁だろ」
「週一もねえのに?」

 それは果たして頻繁と言えるのだろうか。土方さんの頻繁の定義が疑わしい。
 思わず噛み付いてしまうが、本題から話がズレ始めていることに気付いた。完全に話が逸れてしまう前に少々強引ではあるが話を戻す。

「頻繁じゃねえですけど、俺の誘いが頻繁だとして、だからなんだってんですか。嫌なら断わりゃいいでしょ」

 誘ったところですべてが通るわけでもない。気分じゃないだとか明日は早番だからとか、そんな理由で拒否されることも多い。よほど意味の分からない理由でない限りそこまでしつこく食い下がることもない。そもそもこの人は物事をはっきりさせるタイプだ。気乗りしていないのにずるずる押し切られることもないだろう。無理に押し切ったことがないわけでもないが、まあそれは置いておこう。
 俺がそう返すと、土方さんは間髪入れずに反論してくる。そのはずだった。勢い良く開いた口は反論をしようとしているに違いなかった。だがそこから声が発せられることはなく、結局何も口にしないままに閉じられる。だがそれでおしまいではなかった。最初の勢いこそ死んだものの、土方さんの反論自体がなくなることはなかった。勢いはなく、視線は逸らされる。だが反論自体はあった。

「したくないとは言ってねえ」
「はあ? じゃあなんなんですか」

 セックスをするのが嫌で逃げ回っていたというのなら、わからないが一億歩ほど譲ってわからなくもないということにしてもいい。だがその理屈は全くもってわからなかった。セックスはしたいが誘われるのが嫌で逃げ回っていた。これまでの言い分を繋ぎ合わせるとこうなる。意味がわからない。自らの主張のちぐはぐさには気付いているのだろう。間髪入れない俺の問いに怯んだ様子を見せる。おかしなことを言っている自覚はあるらしい。

「……ここ最近、おかしかっただろ。その、ヤってる時は、特に……」

 あれから少し調べてみたのだが淫魔はどちらかと言うと己へかかる暗示の方が強烈らしい。精液を搾取しなければ生きていけないのだ。淫魔にとっての性交は特別な意味を持つ。そのために身体も性交に適したように造られている。より淫らに、より貪欲に、より凄絶に。身体の仕組みもそうだが精神の在りようにも作用し、性交に特化する。淫魔になっている間の土方さんの異変は突き詰めてしまえば淫魔の特性に引きずられてのものだった。まあ、それはそうだ。そうでなければあんな振る舞いは有りえない。情報を共有したわけではないが、土方さんもそれくらいは調べているだろう。自分の身に起こったことだ。把握していないはずがない。

「戻ったんだから問題ないでしょう」

 確かに土方さんはおかしかった。だがそれは淫魔であった時の話で、今の土方さんは普通の人間だ。おかしくなることはないだろう。そのはずだ。だが土方さんは何やら懸念にとらわれているらしい。

「そうとも限らねえだろ。癖になってたらどうすんだ」

 淫魔ではなくなったことで特性に振り回されることはなくなった。だが一度経験してしまったことから抜け出すのは難しい。学習してしまった身体が記憶をそのまま再現してしまうこともあり得る。土方さんが恐れているのはそれだと言う。

「……はあ、でもそれだどいつまで経ってもヤれなくねェですか」
「時間置けば忘れるだろ」
「そういうもんですかね。時間置くって、どれくらいで見てるんで」
「………………半年くらいか?」

 おおかたそこまで深くは考えていなかったのだろう。返答までに不自然なまでに間があった。いや、それはいい。問題なのは土方さんから返ってきた期間だ。今この男は半年と言ったか。

「はんとっ……いやいやいや、勘弁してくだせェよ。半年ってアンタ、付き合い始めのカップルでももうちょい早くヤりますよ」

 遠距離恋愛でもあるまいに、半年はないだろう。ニコチンとマヨネーズで思考回路がイカれているんじゃないだろうか。ありえない。それはない。

「一ヶ月空けたんだからもう大丈夫でしょ」
「何を根拠に言ってんだテメーは」

 根拠などない。もうそろそろ禁欲生活が辛くなってくる頃なのでこのあたりで手を打っておきたいというのが本音だ。だがそんなことを赤裸々に白状すれば土方さんは首を縦には振らないだろう。こういう時にはどう言葉を選ぶのが最良だろうか。

「記憶の刷り込みに負けるような軟な精神してねェでしょ。アンタの神経が太いのはよく知ってます」
「馬鹿にしてんのか」
「褒めてんでさァ」

 実際、土方さんが恐れるほどの事態にはならないと思うのだ。いやそもそも、土方さんの恐れた通りになったとしても俺には別段影響がない。これは土方さんの矜持の問題だ。大丈夫だろうというのが半分、駄目だったところで知ったことではないというのが半分。どっちに転んでも俺に不利益はない。

「無理そうだって思ったら途中でやめてもいいですし」

 譲歩してそう食い下がれば、土方さんはあの世の者を見たかのような視線を俺に向けてくる。なんですかその目は。俺にだってそれくらい譲歩する優しさはありますよ。

「それでも駄目ですか」

 応じさせるには、時には引くことも大切だ。状況によってはこの程度では撥ね付けられてしまったのだろうが、我慢しているのは俺だけではない。
 淡白で禁欲的な雰囲気こそ放ってはいるが、土方さんの性欲は人並みだ。決まった相手が近くで四六時中うろうろしている状況で不本意に一ヶ月も耐えるのは楽ではなかっただろう。はっきりと俺を拒んでいないあたりでだいぶ限界がきているのがわかる。押す必要はない。手を差し伸べて、少し引くだけでいい。
 しばしの沈黙の後、土方さんから漏れ出したのは重く長い溜息だった。諦念の混じるそれの意味がわからないほど付き合いは浅くはない。気取られないよう、内心でひっそりとガッツポーズを作って見せた。




  ◇ ◇

 土方さんはいつも通りだ。いつも通り一人で浴室にこもり、いつも通り俺の濡れた髪に文句をつける。いつものことではあるのだが、もう少し情緒というものを大切にできないものだろうか。ドライヤーと一緒に脱衣所に放り込まれた後にそんなことを思う。言えば最初から髪を乾かしていればいいだけだろうと返されそうな気がするので口にはしないが。すぐ乾くのだから放っておいてもいいだろう。とはいえいつまでも文句を言われ続けていれば勃つものも勃たないので仕方なく髪を乾かす。
 そんなことをしている間に寝落ちはしないかと案じていたのだがその心配は杞憂に終わった。手早く髪を乾かして寝室へと戻れば土方さんはベッドで寛いでいた。眠っていないのは見ていればわかる。ドアを開く前から物音や気配で俺が戻ってきたのはわかっていただろう。だが土方さんはドアを開く音がしてからようやくこちらを見た。

「ちゃんと乾かしたか」
「乾かしましたって。アンタは俺の母ちゃんか」

 どうにも俺の言葉が信じられないらしい。手招かれるままに近付けば手は頭へと伸びる。避ける間もなくわし掴まれ、それからぐしゃぐしゃと乱雑に掻き撫でられた。

「髪が乱れるんでやめてくだせェ」
「すぐ戻るんだからいいだろ」

 抗議をするが手応えはない。上の空というか、髪を掻き撫でるのに集中していてろくに俺の言葉など聞いていない気がする。……ううん、なんというか、俺を犬とでも勘違いしてるんじゃないだろうか。この人が俺の髪を気に入っているのはよく知っている。自分とは違う髪質が物珍しいのかもしれないし、単に手触りが好きなのかもしれない。別に撫でられること自体が嫌というわけでもない。ただこの場でそれをされるのはいかがなものかと思う。なんというか、雰囲気が穏やかな方向に転がってしまう気がして落ち着かない。違うだろう。今醸すべき雰囲気はそれじゃないだろう。文句を言いたいが、言ってしまえばそれはそれで雰囲気がおかしな方向に転がってしまう気がして憚られた。
 わしわしと撫でられつつ、抵抗することは早々に諦めた。なんだろう。素直に最初から髪をきちんと乾かしておけばよかったのかもしれない。かもしれないというか確実にそちらの方が良かったわけだが、今更己の選択ミスに気付いたところでどうしようもない。今更じたばたともがくよりこの人の気が済むまで好きにさせておいた方が落ち着くのは早いだろう。
 そう判断して大人しくしていれば、頭を撫で回す手が少しずつ落ち着いてくる。そろそろ気が済んだだろうか。手を叩き落とすタイミングを窺っていると土方さんの手に力がこもる。撫でるだけだったこれまでとは雰囲気が異なる。指に一本一本にまで力がこめられ、爪が立たない程度に強く頭へと食い込んだ。強く頭を掴まれた痛みに表情が歪む。それ以外の反応を俺が示すよりも早く、強い力によって引き寄せられた。
 土方さんの方へ、ということはベッドに引き寄せられることと同じだ。急なことでバランスを崩し、転がり込むようにしてベッドへと入り込む。ベッドに手を着いて体勢を立て直すよりも早くに土方さんが動いた。掴んでいた頭を更に強く引かれる。

「んっ」

 甘く噛み付いてきたかと思えばそのまま舌が口内へと滑り込んでくる。後れを取ってしまったのは痛い。反応しかねている間にも土方さんの舌は深くまで入り込んできて、俺を弄んだ。溢れ出てくる唾液を舌と一緒に吸い上げられる。逃げようとしても舌を搦め取られ、柔い肉をぐにぐにと押される。上顎をゆっくりと撫でられると身体がぐったりと弛緩していく。せめてもの抵抗にとその胸を押して返せば存外あっさりと土方さんは離れていった。距離ができたことで土方さんの表情を窺うことができるようになる。

「……アンタやっぱり癖が抜けきってねェでしょ」
「いいや、全くもっていつも通りだ」

 嘘をつけ。いつものアンタがこんなに積極的なわけがないだろう。そう反論しても土方さんは涼しい顔をしている。行動はさておき、頭の方は普段と別段変わりはないらしい。それでこれか。俺はよほど胡乱な目を向けていたのだろう。涼しい顔のまま土方さんが続ける。

「一ヶ月も我慢してたんだ。多少は積極的にもなるだろ」

 何をわかりきったことを、とばかりに土方さんはそう断じる。土方さんの方も多少はヤりたいと思っていたことは知っていたが、こうも積極的になるほどだとは思いもしなかった。土方さんの行動が意外で仕方がない。本人から説明を受けてもなお、やはりまだ淫魔の特性や記憶を引きずっているのではないかと疑ってしまう。積極的な土方さんというのはそれくらいに俺の中ではレアリティが高い。そんなことを考えつつ観察を続けていると、眉間にぎゅうと皺が寄った。

「いつまで呆けてやがる」

 呆けているつもりなどなかったが、土方さんにはそう映っていたらしい。目を覚まさせるかのように軽く頬を叩かれ、意識が引き戻される。

「アンタが柄でもねェことするから、でしょう、よっ!」

 肩をがしりと掴んで押し倒す。自重も乗せて勢いをつけていたために土方さんはベッドへ深く沈んだ。力が強く加わったせいで肩が痛むのか、抗議の視線を向けられる。それを無視して衣服の下へ手を潜り込ませた。

「んっ……」

 素肌へ触れればぴくりとその身体が震える。汗を洗い流してきたばかりの身体は手触りもいい。びっしりとついた筋肉を撫でながら手を上へと滑らせていけば指先へ引っかかりを覚えた。引っ掛かったままに引っ掻き、潰し、捏ねれば土方さんの息が上がる。噛み締められた口は屈辱だと言わんばかりに歪んでいた。震えるように首を触れば、それに従って黒髪がシーツの上へ散らばる。それを眺めていると土方さんと視線が合う。耐えるようにシーツを握り締めていた手が解かれ、それから俺の方へ。

「っぶ!」
「回りくどい」

 がしりと顔面を掴まれておかしな声が出てしまう。手には徐々に力が込められていき、掴まれた肉が寄って顔が歪む。面白い顔になってしまう前に身を引き、土方さんの手から逃れた。

「何すんですか。俺の素敵な顔が台無しでしょうが」
「自分で言うか」

 呆れられてしまうが、俺の顔がいいのは事実なのだからそこは認めるしかないだろう。だいたいアンタだって俺の顔好きでしょうに。思わずそう返しそうになるが土方さんがそれを遮った。早々に脱線しそうになったのをいち早く察したのだろう。顔がいいこと自体は否定しないようだ。アンタ、なんだかんだ言いつつ俺の顔好きですよね。

「そういうまどろっこしいのはいいんだよ。もっとシンプルな目的があんだろうが」

 眉間に皺を寄せて不機嫌そうに。だが実際に不機嫌だというわけではない。まあ、機嫌はよろしくないのだろうがそれは俺に対して不満を抱いているからであって。

「はあ、それはつまりあれですか。我慢できないから早くハメて♡的な」
「殺すぞ」

 とびきりの殺意を込めて睨まれる。殺害予告は受けたが否定は返って来なかった。それはつまりまあ、そういうことだ。まどろっこしさでいうならこの人も人のことは言えないと思う。……まあいい。ここはひとつ、俺が大人になってやろう。その意見自体に異議はない。

「う、おっ!?」

 足を掴んで押し広げればなんとも色気のない声が上がる。誘っておいてそれはないんじゃないだろうか。そう文句を口にすれば急に動かす俺が悪いと返ってくる。反論するのも面倒で心にもない謝罪を口にしつつ、本懐を遂げるべく黙々と行動する。手に取ったゴムの包を破り、ごそごそと探りながら己の中央部へとかぶせていく。何度も繰り返している行為だ。手元が確認できない方といって手間取るようなことでもない。
 根元までしっかりと嵌め込んだところで再び土方さんへと触れる。足の付け根をたどり、ボクサーの隙間から指を潜り込ませた。

「ばっ……! なんで、そのまま……」
「脱がせんの面倒ですし。そもそも、なんでわざわざ履き直してるんで?」
「はあ? 普通は履き直……っ、ぅ」

 窄まりへ押し当てた指へ力を込めればずぶずぶと沈み込んでいく。中はどろどろと不自然なまでにぬかるんでいる。

「ヤる気満々だと思われたくねェって? こんなことになってる時点で今更だと思いますがね」

 指を挿し込んだことで秘部は開かれ、それによって中へ溜まっていた潤滑油がどろりと漏れ出す。その感覚によって土方さんの肌が粟立った。穴を開く度にどろどろと中から溢れ出してくる。一体この人はどれだけ中に注ぎ込んでいるのだろう。まあ、この分なら継ぎ足す必要もなさそうだ。

「総悟、ちょっと待て。きついから脱がせろ」

 見れば土方さんの股間はボクサーの中で窮屈そうにしている。布地に邪魔をされて思うように起ち上がれないでいる。窮屈だという気持ちはわかる。だがその要求に応じるつもりはなかった。
 ボクサーを引っ張り、横へずらすことで隙間を作る。土方さんが咎めるように俺を呼ぶ。だが応じなかった。
 そもそも、焚き付けたのはこの人だ。ああ、そうとも、一ヶ月だ。枯れているわけでもないのに一ヶ月も耐えていたのだ。これ以上の我慢がはたして必要だろうか。答えは否だ。これ以上待つ必要はない。今すぐに目的を果たすべきだ。
 土方さんの制止は止まない。だがそれを振り切り、押し当てた熱を埋め込んでいく。穴はすんなりと俺を迎え入れた。

「…………ッは、ぁ」

 熱を帯びた息がゆっくりと吐き出されていく。うねる中は熱く、すぐに達してしまいそうになる。そういえば自慰もろくにしていなかった。そのせいか思っていたよりも限界が近い。そのことに焦りを抱く。だがそれでも動きを止めることはなかった。
 一気にすべてをおさめれば内壁がきゅうきゅうと吸い付いてくる。それに押し出されるように息を吐くと、土方さんが口を開く。

「……動いていいぞ」

 普段は挿れてすぐに動くと文句を言うくせに、一体どんな風の吹き回しだろう。そう思いはするもののそれを問う余裕はなかった。こうしている間にも内壁は絡み、うねり、締め付けてくる。のんびりとしている余裕はない。理由がどうあれ許されたのならばこれ以上己を律する必要はない。
 腰を引いて、打ち付ける。引き抜いた分と同じだけ埋め直せば土方さんの声が引き攣れた。内壁を抉るように意識して何度も抽挿を繰り返す。
 土方さんの息が徐々に上がっていく。付け根の震えは少しずつ間隔を狭めていく。不意に持ち上げられた土方さんの手はぶるぶると震えていた。手は身体の曲線を辿りながら下へ。汗ばんだ身体へ触れる度にぺたぺたと手は張り付く。それを剥がすように持ち上げながら、そうして土方さんの手はなんとか目的地へ辿りついた。
 手はボクサーの中へ潜り込み、布地を押し上げていた熱を引き摺り出してくる。ずらしたボクサーの隙間から飛び出たそれは充分すぎるほどの硬さを持ち、その存在を主張している。それに土方さんの手が絡む。
 中からの刺激だけでは足りないのだろう。中を強く抉れば手はびくりと跳ねてその動きを一瞬止める。だがすぐにのたのたと動きは再開され、無骨な手が自身を慰める。粘着質な水音は土方さんの手元から聞こえてくるものだろう。次第に快楽を追いかけることに集中し、口を開くこともなくなっていく。瞼は固く閉ざされ、その中にある感情を読み取ることはできない。それでも身体が高まっていくのはわかる。身体に少しずつ力が篭っていく。土方さんは決してそれを口にしようとはしないがこのままいけばじきに極めるだろう。俺からと、自分自身から。二方向から快楽を与えられているゆえに果てを見るのは土方さんの方が早かった。

「─ッ、は、ァ!」

 悲鳴と吐息の中間。そう思えるような曖昧な声を零し、土方さんは達した。それに呼応するように中が強く締まり、俺を追い詰めていく。だがまだだ。引きずられて達するには至らない。もう少し。もう少しだけ。

「ぅ、ぁ、ちょっ、と…ま、て……」
「っ、すいやせん、あと、ちょっとなんで」

 こんな半端なところで止まれるはずがない。土方さんの切れ切れな制止を振り切って律動を続ける。達したばかりの身体は刺激にひどく敏感だ。突く度に身体が跳ね、中が絞まる。そのおかげで存外早くに頂上へ登り詰めることができた。

「─ぐ、うぅ……ッ」

 どくどくと、脈に合わせて注ぎ込む。今回は中にではなくコンドームへ。すべてを吐き出し終えて一息ついたところで土方さんの様子を窺う。達した直後に俺が動いたせいで余韻が未だ抜けきっていない。固く閉ざされていたはずの瞼はいつの間にか開かれ、真っ直ぐにこちらを見上げていた。その目の中、中央にはしぶとく理性が居座っている。それを確認した瞬間、背筋が震えた。恐怖や悪寒ではない。これは歓喜だ。ああそうだ、アンタはそうでなくては。情欲が窺えないわけではない。だがそれらは押し退けられ捻じ伏せられ、片隅に小さく存在するばかりだ。強く根を下ろしているのはいつもと変わらぬ理性。やはり、土方さんの杞憂など所詮は杞憂に過ぎなかった。この程度で削がれる理性ならば、とうの昔に俺が落としているはずだった。決して落ちないのが土方さんだ。これまでの土方さんも悪くはなかったがやはりこうでなくては噛みつき甲斐がない。
ああ、いつもの土方さんが戻ってきた。確認せずともそうわかるのに、つい確証を得たくなってしまう。余韻を引き摺るこの人から決定的な言葉を引き摺り出したかった。

「飲みます?」

 まだほんの少しでも淫魔の気が残っているのなら土方さんはその誘惑を振り払いきれないだろう。しかし、そんなことは考えるだけ無駄だった。間髪入れず、ぴしゃりと拒否される。

「いらん」
「あら、これを機に精飲にはまったりしてないです?」
「ないな。おぞましいことを言うんじゃねえ」

 心底嫌そうに表情を歪めるその姿はまさしく土方十四郎そのものだ。
 ああ、ようやく。どうやらこれまでの事態に不満を抱いていたのは土方さんだけではなかったらしい。すべてが去った後で自覚するというのも間抜けな話だが。
 無事に戻って良かった。そう思いつつも素直に口にすることはできない。この口でそんなことを言ったところで、痛いほどの警戒を向けられるのがオチだろう。だから言わなかった。安堵しているのは土方さんも同じだろう。強く理性を宿し続けることで杞憂は杞憂でしかなかったことを証明した。安堵して気が抜けていたのだ。

「もう一回してもいいですか」

 そのおかげで普段は高確率で却下される要求は意外にもあっさりと通り、俺を盛大に困惑させた。

致死量の誘惑は白

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